[#表紙(表紙.jpg)] 五十嵐貴久 T V J 目 次  プロローグ  Part1 TV JAPAN  Part2 TV JACK  Part3 TV JUNGLE  Part4 TV JOKER  エピローグ [#テレビジャパン・フロア配置図(fig1.jpg)] [#ニュー・ミレニアム・ビル24階 見取図(fig2.jpg)] [#小見出し]  プロローグ[#「プロローグ」はゴシック体] (二月十二日水曜日 午後八時五十六分〜二月十四日金曜日 午前九時二十二分)      1 [#地付き]Wed, 12 Feb 08:56PM  初めて友達の結婚式に出たのは、このホテルだったっけ。  吹き抜けになっているラウンジの高い天井を見上げながら高井由紀子は思った。イタリアのフレスコ画を模した宗教画が、天井一面に描かれている。  二十四の時だったな、とカプチーノをシナモンスティックで掻き混ぜた。大学で一番仲がよかった佐伯美香の結婚式。なんだかすごく嬉しくて、そしてちょっと寂しくなって、このロビーで大声をあげて泣いてしまったのが、昨日のことのように思い出された。  そうだ、次の年の四月には、高校で同じクラスだった伊東加奈子が結婚した。加奈子はグループの中では妹みたいな存在で、本人も不安だったのだろう、式の前に目の周りが真っ黒になるまで泣いた。そのせいで結婚式は三十分遅れて始まったのだ。  懐かしいな、と思いながら、カップに口をつけた。ラウンジにゆっくりしたリズムのスタンダードジャズが流れていた。  そして五月には横田真由美。加奈子と同じ、高校の同級生。二カ月連続で三万円を払うのはきつかったけど、でもそれは彼女たちのせいではない。 「元を取らないとね」 「だよね」  一緒に式に出席した島森夢子と、競いあうようにしてカクテルをお代わりしたっけ。二次会で知り合った慶応出の商社マンとつきあったのも、今ではいい思い出だ。  あの頃までは、本当に心からお祝いが言えたと思う。幸せになってね、と祈ることが出来た。ちょっと待ってよ、と思うようになったのは、次の年の六月から秋にかけていきなり四人の友達が結婚した時だ。 「まあね、適当なところで妥協しなきゃって思ったのよ」  大学のテニスサークルの仲間を集めて結婚の報告をした前野久仁子はそう言った。 「あたし一人っ子だしさ。親もうるさいし、メーカーなんかに就職しちゃうと周りもさっさと寿退社してくれよ、みたいな目で見るし。由紀子はいいよね。妹もいるし、テレビ局とかマスコミって、女が仕事を続けることに理解があるんでしょ」 「そんなことないよ。あたしなんか経理だし、普通の会社と同じだって」 「何言ってんのよ」  久仁子は笑ってあたしの肩を叩いたっけ。幸せそうな、そしてちょっとだけ勝ち誇ったような笑顔。そっと左の肩をさすった。  そういえば、と記憶が蘇った。もうちょっと遊んでたかったな、と結婚式の二次会で耳打ちしたのは上村綾香だった。 「いいなあ、由紀子は」  花束を抱えた綾香は、冗談めかしてそう言った。もちろん笑ってあげた。そうだよ。あたしはこれからいろんな人と出会って、遊んだり恋をしたりするんだ。ごめんね、綾香。  でも本当は、笑っていなかった。素直に笑えない自分がいた。みんなが羨ましかった。  それからしばらくは静かだった。平和でおだやかな毎日。でも、それは何かの前触れだったのかもしれない。  風向きが変わったのはちょうど一年前、去年の二月のことだった。実家の薬局を継いでお見合いを繰り返していた島森夢子が結婚を決めたのだ。  そしてその年の十二月、夢子もこのホテルで式を挙げた。もう一度天井の宗教画を見上げた。幸せそうな笑顔がオーバーラップする。  結婚式の披露宴で、あたしは精一杯の笑顔を浮かべてお祝いのスピーチをした。おかしいなあ。夢子よりはあたしのほうが先だと思ってたんだけどなあ。  引き出物にもらった備前焼きのビアタンブラーはどこにいってしまったのだろう。カップの把手を人さし指で撫でながら少し考えた。たぶん食器棚のどこかにあるはずだ。  でも去年はもっと驚かされたことがあった。妹の里美が結婚すると言い出したのだ。里美は二十六で、相手は大学の先輩だった。 「だってお姉ちゃんが片付くの待ってたら、結婚出来なくなっちゃうもん」  両親とあたしに結婚の報告をした里美が、そこだけはあたしにそっくりな、笑うと半月型になる目がほとんど見えなくなるまで笑み崩れた。  お父さんは何も言わなかったけど、お母さんとあたしは少し笑って、そのままテレビのドラマを見続けた。夜中、携帯にメールが入った。 「さっきはゴメン。ジョークだから」  お姉ちゃんも早く幸せになってね、と文章が続いていた。あの時も泣いたな。思い出して小さく笑った。バカね、里美は。気にすることなんてないのに。  里美は今年の五月に結婚する。そして二カ月前、あたしは二十九になった。立派な負け犬予備軍になってしまった。 「ここからでもうちのタワーが見えるんだな」  由紀子は顔を上げた。向かいの席に座っていたスーツ姿の岡本圭が、チーズケーキをフォークで解体していた。 「そうね」  窓の外に目をやった。レインボーブリッジの右手に、巨大な二つの高層ビルが平行に並んでいた。  テレビジャパン新社屋のゴールドタワー、そしてアメリカのワールドメガバンク極東本社が入っているプラチナタワー。二十五階建てのツインタワー、ニュー・ミレニアム・ビルだった。  数週間前に完成したばかりのゴールドタワーは、ミラーガラスにさまざまな色のコーティングを施すことによって、タワーそのものが一個の発光体となっている。七色の光がお台場の街を照らしていた。  さらにビルの壁面には、正面エントランスからレーザー光線で�祝 テレビジャパン開局40周年�というグリーンの文字が照射され続けていた。きらびやかな光景だった。 「派手好きだよな、うちの会社も」  肩をすくめた圭に、うん、とうなずいてからぼんやりとゴールドタワーのイルミネーションを見つめた。この人とつきあってもう三年になるのだ、と思った。二十六だったあたしは二十九になり、三十四だった彼は三十七になってしまった。  一年前まで、いずれは彼と結婚するのだと思っていた。たぶん圭も同じだろう。でも、最近はなんだかはっきりしない。自分の気持ちも、彼の心も。  憂鬱《ゆううつ》な表情で座っている圭を横目で見ながら、ため息をついた。全部あの新社屋のせいだ、とビルを睨みつけた。  六本木の旧社屋からお台場への移転をテレビジャパン経営陣が決めたのは、五年前のことだ。旧社屋は老朽化が激しく、同時に昭和三十年代に建造されていたためにテレビ局としては致命的に手狭になっていたこともあり、移転に関して社内からの強い反対意見はなかった。  移転自体については由紀子も納得している。いまどき社内LANが整備されていないテレビ局なんて、民放キー局ではテレビジャパン以外聞いたことがない。そういう意味では遅すぎたぐらいだった。  ただ問題は、お祭り好きなテレビジャパンの経営陣が社屋の移転と開局四十周年を記念した特別番組の制作を決めたことだった。その番組のために、編成部勤務の圭がどれほど忙しくなってしまっただろう。そのせいであたしたちは、会うことさえ出来なくなってしまったのだ。  もちろん、と由紀子は自分のシフォンケーキをフォークで二つに切った。あたしたちは十九歳と二十歳のカップルではない。会えないからといってヒステリーを起こすほど子供でもない。  とはいえ、やはり会わないでいても愛が続くと思うほど楽観的にはなれなかった。会えない時間が愛を育てるのは、昔の流行歌の世界だけだ。 (もう終わりなのかなあ)  特別番組の編成を終え、放送を明後日に控えた今日、圭から連絡があった。久しぶりに会おう、と突然言われた。  二人の関係はうまくいっていないというわけではない。ただ、何となく、どこかで気持ちがすれ違っている。それだけなのだ。何かきっかけがあれば、また元通りうまくやっていける、そう思っていた。  だが圭は待ち合わせの時間に二時間も遅れてやってきた揚げ句、ほとんど何も話そうとしない。つまらなそうにチーズケーキを分解しては、ため息をつくだけだ。 (長すぎた春、か)  先月、久しぶりに会った佐伯美香にそう言われたことを思い出した。これからあたしたちはどうなるのだろう。見込みがないのなら、もう諦めた方がいいのかもしれない。  小さなマンションを買って、老後に備えよう。そして猫を飼って、一人でもさびしくならないようにしなければ。  由紀子が決心を固めたとき、圭がフォークを置いた。 「あのさ」  少し声がかすれていた。 「何て言えばいいのかわかんないんだけどさ」 「何よ、いきなり」  尖った声で答えた由紀子を拝むように、圭が手を合わせた。 「済まない」  そうだ。こんなふうに終わりはやってくるものなのだ。座り直した。今年の十二月で三十だ。別れ話にも毅然《きぜん》とした態度を取らなければ。 「いや、ずっと会えなかっただろ」圭がグラスの水を一気に飲み干した。「悪かったと思ってさ」 「いいけど」  いったい何が言いたいのだろう。いつもの圭とは違った。結論から言う人なのに。 「それで、つまり、いろいろ考えたんだけど」 「いろいろって?」  ちょっと黙っててくれないか、と圭が額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》った。 「やっぱりちゃんとした方がいいと思った」  スーツの内ポケットに手を入れた。出てきたのは、紺色の小さな箱だった。照れたように圭が横を向いた。 「会えなくなってよくわかった。やっぱり、お前がいてくれないと、何ていうか、困る」  震える手で蓋を開いた。ダイヤのリング。�ダイヤモンドは永遠の輝きです�。コマーシャルのフレーズがよぎった。 「親にも話した。いきなりで悪いんだけど明後日の夜、一緒に来てくれないか」  少し早口になっていた。 「待って」  それって、つまり。目で尋ねた由紀子に、圭が微笑みかけた。 「いいだろ?」 「待って」  同じ言葉を繰り返した。予想と違う展開に思考回路がついていかない。どういうこと、それって。 「まさか……それで今日ずっと黙ってたの?」 「何て言おうか、考えてたんだ」  しかめ面のまま圭が答えた。笑おうとした由紀子の瞳から、大粒の涙があふれ出した。 「いきなりなんだから」 「こういうことは勢いだ」  由紀子の手を取り、そのまま、伸ばした薬指にリングをはめた。 「もう一回、ちゃんと言ってよ」  左の手の甲をそらしてみた。信じられない。サイズもぴったりだ。どうしよう。カットされたダイヤモンドがテレビジャパンのイルミネーションに反射して、美しく輝いている。まるでクリスマスのようだった。 「もう一回言って。いいでしょ、それぐらい」  うなずいた圭が、まっすぐに目を見つめながら囁いた。 「……俺と」  その時、圭の胸ポケットで携帯電話が震えはじめた。 「出ないで、お願い」  人生で一番大事な瞬間なのよ。でしょ? そうだけど、と言いながら、圭が電話機をポケットから抜いた。 「一応、確かめないとさ」言い訳がましく電話機を開いて、液晶画面に目をやった。「悪い。すぐ終わるから」  二度繰り返して電話に出た。由紀子の肩がゆっくりと落ちていった。 「はい岡本……頼むよ、西、電話するなって言っただろうが」  いきなり立ち上がった。手を引きずられる格好になった由紀子が、テーブルの上で前のめりになった。  そのまま電話口に向かって何か言いながら、圭がレストランのエントランスに向かった。たどりついたところで、電話を閉じた。参った、とつぶやきながら席に戻ってきた。 「ごめん、本当、ごめん」  何なの、と言いかけた由紀子に、三十分で戻る、と圭が指を三本立てた。 「待っててくれ。絶対戻ってくるから」  足早に出ていく圭の背中を見送りながら、由紀子はもう一度ため息をついた。今まで、何度同じことがあっただろう。いつも圭の言葉は一緒だった。必ず戻ってくるから、待っててくれ。  だが一度も戻ってきた例《ためし》はなかった。これからもこんなことが続くのだろう。  でも、それならそれでいい。今までとは違うのだ。冷めたカプチーノを飲み干した由紀子の頬に、小さな笑みが浮かんだ。      2 [#地付き]Thu, 13 Feb 06:48PM  柔らかいチャイムの音と共に、エレベーターの扉が開いた。出てきた男が周囲に目をやった。  誰もいないことを確認してから、左手をスラックスのポケットに入れたまま早足で廊下の端を進んだ。よく鍛えられた筋肉が盛り上がっているのが、コートの上からでもわかった。にもかかわらず、まったくといっていいほど足音はしない。まるでネコ科の大型獣のようだった。  フロアの一番奥にある部屋の前まで行き、ルームナンバーを確認した。ノックをすると、すぐにドアが開いて短髪の若い男が顔を覗かせた。吊り上がった細い目が左右に動いた。 「お待ちしておりました、少佐」  体を強《こわ》ばらせながら敬礼した。少佐と呼ばれた男が、何も言わずに持っていたブリーフケースを差し出した。若い男が受け取って一歩|退《さ》がった。 「各班長以下十四名、既に到着しております」 「結構」  着ていた革のコートを脱いだ。若い男に渡してから、ドアの脇にある大きな鏡で自分の姿を確かめるように見つめた。  濃い茶色のジャケット、グレーのパンツ、きれいにプレスされた薄いブルーのシャツ。ネクタイはしていない。  ちょっと崩した着こなしが、百八十センチを超える長身によく似合っていた。東洋系ではあるが、浅黒い肌と彫りの深い顔立ちが洒落《しやれ》た印象を一層引き立てている。白髪交じりの鬚《ひげ》が顎を覆っていた。  前髪を細い指で整えてから、少佐は部屋の奥へと進んだ。満足そうな笑みが浮かんでいた。 「全員揃うのは、ソマリア戦線以来ですね」  少佐の一歩後ろを歩きながら若い男が言った。音を立てない歩き方が、精度の高い訓練を積んだ人間であることを物語っていた。 「そうだったかな」  少佐が立ち止まった。前に回った男が続き部屋の扉を開いた。  デラックススイートには十四人の男たちがいた。白人が四人、黒人が三人、そして東洋人が七人。  人種、年齢はまちまちだったが、共通しているのは鋭い視線だった。それぞれが思い思いの姿勢で座っている。全員が黙ったまま、少佐の姿を目で追っていた。 「諸君、待たせて済まなかった」  壁を背にして、流暢《りゆうちよう》な英語で言った。それまで口にしていた日本語と同じくらい自然な発音だった。 「予定通り、明日作戦を決行する。作戦は三班により遂行される。A班はビショップ」  右目の下に大きな傷痕がある、鋭い目付きをした男が手を挙げた。背後で四人の男たちがうなずいた。 「B班はルーク」  にやにやと笑いながら、金髪の白人が辺りを見回した。二人の黒人が肩をそびやかした。 「C班は別動隊になるが、キングが率いるように。クイーンはいつものようにコンピューター担当。以上だ」  キングと呼ばれた背の低い男がまばたきをした。隣の椅子に座っていた線の細い東洋人が首を振っている。十五人の男たちの顔を見渡してから、少佐がおもむろに口を開いた。 「この八カ月間の諸君の努力に感謝する。二度にわたる長期戦闘訓練を含め、精神的にも肉体的にも厳しいものがあったと思うが、脱落者を出さずにすべての準備を整えることが出来たのは、諸君の能力と、経験と、忍耐によるものだ。改めて、諸君を誇りに思っていることを伝えておきたい。諸君ならば、必ず期待に応えてくれるものと確信している」  左右を見回した。緊張した表情のまま、男たちが無言でうなずいた。 「何か問題は」  挙手する者は誰もいなかった。当然だった。問題があるはずはなかった。すべての準備は完全に整えられていた。 「結構。キング、君たちは今夜九時までにプラチナタワーに着いていなければならない。先発したまえ。他の者は時間まで待機」  背の低い男が立ち上がって手を伸ばす。その手を軽く握った少佐が、ゆっくりとうなずいた。      3 [#地付き]Fri, 14 Feb 09:22AM  テレビジャパン七階にある特別応接室の扉が勢いよく開いた。営業一部の若手社員が入って来た。 「渡辺社長がお見えになりました」  ソファに座っていた営業担当役員の藤田敬二に囁いてから、もう一度応接室の外に出た。  藤田はクライアントである化粧品会社光生堂の社長、渡辺憲太郎を出迎えるべく、立ち上がった。テレビジャパンへの広告出稿量全体の三パーセントを占める光生堂は、ダイニチ自動車と並んで最も重要視されている企業だった。 「いやいや、すっかりごぶさたで」 �怪獣�と陰で呼ばれている渡辺がその巨体を現した。応接室に入ってくるなり、満面に笑みを浮かべて藤田の手を取った。 「いえ、社長、こちらこそ」  藤田が渡辺の手を強く握った。どちらも手を離そうとしない。そのままの体勢で、二人はソファに並んで腰を下ろした。 「半年ぶりぐらいになるんかな、藤田ちゃんと会うのは」 「いやいや、先々月、妙なところでお会いしたじゃないですか」 「そやったな、あんなとこでなあ」  二人は顔を見合わせて、意味ありげに笑った。 「君、社長にコーヒーを」  直立不動で立っていた部下に藤田が命じた。 「いや、もうねえ、コーヒーとかあかんのよ」渡辺が手を振った。「刺激物、カフェイン、一切禁止。もう医者がうるそうてうるそうて」 「またまた。何をおっしゃいますやら」  冗談ばっかり、と藤田が握った手に力を込めた。 「社長、それではお茶でもお持ちしましょうか」  そう言った営業部員に、渡辺が肉のついた首をぶるぶると動かした。 「勉強せなあかんでえ、自分。緑茶はなあ、コーヒーよりもカフェイン多いのやて。水がええなあ。水。人間は水やで」 「本当にお悪いんですか。そうは見えませんが」  渡辺を見つめながら、藤田が尋ねた。まだ手は離さない。 「悪くはないのや」渡辺が空いた手で胸を叩いた。「ドクターもな、体力は四十代って言うてくれとるんやけど、まあ年は年やからね。気をつけんと」  爆発するような笑い声を上げた。笑いはわしの健康法や、というのが一代で光生堂を日本最大手の化粧品会社に仕立てたこの老人の信念だった。 「その笑い方、変わりませんね」  藤田も嬉しそうに微笑んだ。 「ま、そんなことはともかく」  ようやく渡辺が藤田の手を離し、軽く両膝に握りこぶしを重ねた。 「テレビジャパン新社屋、グランドオープンおめでとうございます」  ありがとうございます、と藤田が深々と頭を下げた。 「これも社長のおかげです」 「何を言うてんのよ、心にもない。そんなことより、楽しみにしてるんやで。なんか凄いことになってるんやってなあ、ここ」 「いえ、そんな大したことは」  淡々とした調子で藤田が答えた。渡辺は応接室の中を見回した。落ち着いたブラウンで統一された上品な内装に、感心したように首を振った。 「ええなあ、テレビ局は。やっぱり夢を売らんとあかんで。うちもなあ、せっかく銭出すんやから、夢のあるところと商売せなあかんと、いっつも言うとるのやけどな」 「そうおっしゃっていただけると」  藤田がまた頭を下げた。 「さ、案内してや、案内」  渡辺が腰を上げた。肥大した上半身を支える腰が、いかにも辛そうだった。 「相変わらずせっかちですね」  藤田が苦笑を浮かべた。だが、一度立ち上がった渡辺憲太郎を止められる者は誰もいない。渡辺が廊下に出た。飲み物を運んできたウエイトレスからペットボトルのエビアンを奪うようにして、そのまま歩き出す。好奇心が剥き出しになっているその様は、子供のようだった。 「どっち行ったらええのや」  こちらです、と先導しながら案内役の営業部員が説明を始めた。 「テレビジャパン新社屋、通称ゴールドタワーは、地下三階、地上二十五階建てのインテリジェントビルです。地下階はすべて駐車場で、約百五十台の車輛を駐車することが可能になっております。一階は受付と総合ギフトショップで、ちなみにこのギフトショップでは番組関連商品やタレントの生写真、サインなどの販売を行っています。その他、警備室や交番、銀行などのATM、区役所の出張所、郵便室など、日常的な生活に必要なすべての機能が整っています」 「うちの社にも、キャッシュディスペンサーや郵便室はあるけどな」  張り合うように渡辺が言った。 「二階から五階までは用途に応じたスタジオになっています。六階は編成部で、今私たちがおります七階は番組出演者及び関係者の控室として機能しております」  無表情のまま営業部員が続ける。 「エレベーターはウエスト、イースト両エリア合わせて全部で十二基ありますが、本日は役員専用の展望エレベーターでご案内させていただきます」  藤田が部下にカードを渡した。役員用のエレベーター、役員会議室などは、役員の社員証がないと稼働しない。エレベーターホールのカードリーダーに通すと、すぐに明るい音色と共に、ベネツィアンガラス製の扉が開いた。 「なんや、透明やないか」  巨体を揺るがせながら渡辺がエレベーターに乗り込んだ。二人が後に続いた。 「はい、周りの景色が見えるのが売りでして」  営業部員がパネルのスイッチを操作した。 「速度が変えられるんですよ」藤田がうなずいた。「ノンストップですと、最上階まで約三十秒ほどで到着しますが、今日はいろいろ見ていただくわけですから、一番遅いスピードで」  ガラスの扉が閉まり、エレベーターが上昇を始めた。外が見えるので動いていることがわかるが、そうでなければ気づかないほどゆっくりとした速度だった。 「八階はショッピングフロアになっています。西和デパートと提携しておりまして、食料品を含め、ほぼすべての商品を買うことが出来ます」 「デパートって、ここテレビ局やないか」  渡辺が関西人らしくおおげさにのけぞった。 「もちろんテレビ局ですが、それ以上に私たちはここを情報発信基地として考えています。ですから、情報ソースとして重要であると考えられるすべてをここに集めました。そのひとつがこのフロアなのです」  かすかな笑みを浮かべたまま、藤田が言った。神妙な顔で渡辺が耳を傾けた。 「まあ、それは後からつけた理屈でしてね」藤田が笑みを深くした。「本音を言えば、お台場は決して便利な土地とはいえません。社員がちょっと外出するにも、これだけの規模の建物ですから、フロアによっては正面玄関に出るまで五分も十分もかかってしまうところさえあります。そういったことも含めて、社員のためにさまざまな意味で施設を充実させなければならなかったんですよ。しかし結果としては、それがこのビルにさまざまな顔を持たせてくれることになりました」 「鉄道と学校以外は何でもある、というのがキャッチフレーズでして」  営業部員が付け加えた。実際には建物の中こそ通っていないが、社屋に隣接する形でモノレールが通っている。うなずいた渡辺が手に持っていたエビアンのボトルに口をつけた。 「九階はスポーツフロアです。プール、フィットネスジム、サウナ、ベッドルーム、ゲームセンター、大浴場などがあります。あ、陽焼けサロンも入ってますね」  エレベーターはゆっくりと上昇を続けている。 「十階はカルチャーフロアで、書店、CDショップ、ビデオ、DVDのレンタルショップ、それから資料室があります。また英会話教室はもちろんですが、北京オリンピックに備えて中国語教室を開くことも検討中です」  流れるような説明が続いた。 「十一階はメディカルフロア、内科、小児科、歯科、精神科、美容室、理容室、薬局、リラクゼーションルームなど、さまざまな意味で健康をケアするための……」 「あんたら、何がしたいんや」  呆れたように渡辺が声を上げた。 「社長、これぐらいで驚いてもらっては困ります」営業部員がエレベーターの外を指さした。「十二階はレストランフロアです。和洋中華はもちろん、寿司屋、お好み焼き屋、健康食品レストラン、カレーハウス、ロシア料理、エスニック料理と、さまざまなレストランが並んでいます。もちろん、厳選された名店ばかりです。こちらのウエストエリアのバーフロアは、いわゆるショットバーから展望バー、カジノバー、ダーツバー、プールバー、ワインバーと、アミューズメントまで含んだ店を揃えています」 「これは、一般のお客さんも入れるんかいな」 「もちろんです」胸を張った営業部員が大きくうなずいた。「十二基あるエレベーターのうち三基は、一般のお客様も入場出来るように八階まで直通になっています。また、四階と五階のスタジオには、番組の収録を見ることが出来るように見学コースも併設されています」 「つまりですね、私たちはこのテレビジャパンを、一種のテーマパークと考えているんですよ」  藤田がガラスの壁を指で軽く叩いた。イタリアン・レストランのネオンが光っていた。 「ここに来れば、テレビのすべてが楽しめる。各フロアにもギフトショップがあり、番組に関連するさまざまな商品を手に入れることも出来る。買い物も出来る、食事やお酒を楽しむことも、リラクゼーションもです。デートにも使えるし、家族で来ても楽しい。そういうコンセプトで、このタワーは設計されているんです」 「ということは、そういう一般の客からも銭儲けしようというこっちゃ」  渡辺が皮肉っぽく笑った。藤田は真剣な表情を崩さなかった。 「否定はしません。むしろ、非常に重要視しています。放送の時間を切り売りするという今までのビジネスだけでは、もう我々は満足できないのですよ。試算では、一日約八千人、休日や夏休みなどには一万五千人の集客を見込んでいます。そこから上がる収益については、まあここでは言わない方がいいでしょう」 「なんぼ儲けたら気が済むんや」  呆れたように渡辺がつぶやいた。 「カレッタ汐留にしても、丸ビルにしても、あるいは六本木ヒルズにしてもコンセプトは同じでしょう。人間が集まれば、必ず金が動く。これは資本主義の原則です」  小さく笑った藤田に、続けてもよろしいでしょうか、と営業部員が外を指さした。 「十三階からは各部署が入っています。各フロアは大きく二つに分けられており、それぞれウエストエリア、イーストエリアと呼ばれております」  アルファベットのWとEがフロアの床に大きく印されているのが見えた。 「十三階は営業一部及び二部が入っています。十四階は広報部、ネットワーク局、十五階は厚生部、番組管理部、映画部、十六階と十七階は番組の制作部で、十六階はドラマ、十七階はバラエティというように分かれています。十八階は報道局、スポーツ局、アナウンス部、番組販売部、十九階は著作権管理部、映像企画部です。そして二十階には」  ボタンを押した。ゆっくりとエレベーターが停止する。ガラスの扉が開いた。藤田を先頭に、三人がエレベーターを降りた。 「えらい静かやな」エレベーターホールに渡辺の声が反響した。「誰もおらんやないか」 「こちらへどうぞ」  藤田が正面のドアを開けた。機械の作動音が三人を包み込んだ。  言われるままに歩を進めた渡辺の目が大きく見開かれ、足が止まった。秋葉原電気街の密度を思い切り濃くしたような光景が、目の前に広がっていた。 「このゴールドタワーを管理するコンピュータールーム、通称�ブレイン�です」 「�ブレイン�?」  まるでSF映画や、と渡辺はフロアを埋めつくしているコンピューター機器類を眺めながらつぶやいた。メインコンピューター、サブコンピューター、プリンター、モニター、プロジェクター、ディスプレイシステム。さまざまな機械の作動音がフロア内に満ちている。藤田が声を少し高くした。 「番組放送に関する、あらゆる機能がここにあります。すべての放送は、ここで管理されるわけです。またビル内の空調、温度調節などの環境管理、社員の勤務状態などの労務管理、電気関係のエネルギー管理、電話システムなどの通信管理、その他ありとあらゆることがこの�ブレイン�でコントロール可能です」  横を向いた営業部員がこっそりと欠伸《あくび》をした。このブレインを案内するのは渡辺で六人目だった。 「細かい話ですが、例えば今どこのフロアでパソコンが稼働しているかもわかりますし、コピー機の電源がつけっぱなしになっているかどうかさえもわかります。状況をコンピューターが判断して、自動的に電源をカットすることも可能です。このシステムによって、年間の諸経費が三〇パーセント節約出来ることがわかっています」  社長、申し訳ございません、と藤田が渡辺が手にしていたエビアンのボトルを取り上げた。 「飲み物はこちらのカウンターにお願いします。ブレイン内は一切飲食物の持ち込みが出来ませんので」  別にそれは構わんけど、と名残惜しそうに渡辺がエビアンのボトルを見つめた。 「何でや」  コンピューターは水に弱いんですよ、と藤田が答えた。 「何かの間違いでコンピューターに水でもかかったら、このシステムは終わりです。三十億円があっという間に、それこそ水の泡になってしまいます。もちろん、防水措置など含めさまざまな対策を取ってはいますが、我々もリスクを負いたくはありませんので」 「それにしてもすごいコンピューターやな」通路を歩きながら渡辺が言った。「フロアが機械で埋まっとるで」 「これでもまだ完全ではないんですよ。年内には二十三階に、もうひとつブレインシステムを導入する予定になっています」  渡辺が目を剥いた。かすかに微笑を浮かべた藤田が、壁のディスプレイを指さした。 「現在は、今私たちがいるイーストエリアのシステムでビル全体の管理をコントロールしています。例えばそこのランプ、十七階と二十三階だけが赤になっていますが、これは今、そのフロアには誰もいないことを示しているわけです」  すべてのフロアには監視用カメラ、赤外線モニターなどが設置されている。不審者の侵入なども含め、セキュリティ対策も万全だった。 「逆側のウエストエリアにも、同じ�ブレイン�が設置されているのですが」  藤田が背後を振り返った。エレベーターホールを挟んだ向かい側がウエストエリアであることを手で示した。 「現段階ではウエストエリアで放送管理、イーストエリアでビル全体の管理をしています。しかしまだ十分に機能しているとはいえません。コンピューターの容量が不足しているんです。最終的には二十階フロアの�ブレイン�で放送を管理し、二十三階がビル全体を管理することになる予定です」  うなずいていた渡辺が立ち止まった。 「こら、すごいな」  その言葉に、藤田が笑みを浮かべた。ではそろそろ、と営業部員が出口に向かった。 「なあ、これどないしたらええかな」  渡辺が台に置かれたままになっていたエビアンのボトルを手にした。いつの間にか中身はほとんど空になっていた。 「もういらんのやけども」  その手からボトルを受け取って、藤田が壁のダストシュートに投げ込んだ。 「このビルには、ゴミ箱がないんですよ。まだ私も慣れていないので、勝手がつかめないのですがね」 「そんなら、ゴミはどないするの」  不思議そうに渡辺が辺りを見回した。 「すべてダストシュートに捨てるんです。捨てられたゴミは、各フロアからチューブで地下三階の焼却炉まで運ばれ、そこで燃やされます。高性能焼却炉なので、ゴミを分別する必要もありません。ゴミを燃やした際に発生した熱で、全館の冷暖房を賄《まかな》えるという利点もあります」  粗大ゴミなど大きな物は、エレベーターホールに設置されている大型のダストシュートで処分します、と藤田がつけ加えた。なるほどなあ、と渡辺が小さく笑った。 「転んでもタダでは起きん、ちゅうやつや。あんたら、東京の人のくせして、わしよりケチやな」  三人は再びエレベーターに乗り込んだ。ドアがゆっくりと閉まり、静かに上昇を始めた。 「二十一階は総務部、二十二階は秘書課と庶務部、二十三階は現在空いていますが、先ほど申しましたように、ここにはブレインシステムをもうひとつ入れる予定です」  一気にそこまで言った藤田が、小さく息をついた。 「何でフロアを離しとくのや。上下の方がなにかと便利なんと違うか」  渡辺の質問に、藤田が笑顔でうなずいた。 「おっしゃる通りです。ただ、これにはリスクマネジメントの問題がありましてね。もちろんあり得ないことですが、天災も含めた事故を想定すると、ブレインシステムはこのビル全体の生命線ですから、フロアを離しておいた方が万一の場合に対応が利くので、わざと離しておくことにしたというわけです」  渡辺が不安そうに肉付きのいい肩を震わせた。 「そやなあ、こんだけのビルになると、何かあったときが怖いなあ。地震とか火事とか」  対策は万全ですが、と藤田がまた胸を張った。 「完全耐震構造ですので、関東大震災レベルの地震にも耐えられるように設計されています。各階ごとに防火扉も設置してありますし、非常災害に対しても最悪の事態を想定して、いくつかのフロアに隣のプラチナタワーに逃げこむことを可能にする非常通路を設置しています。こちらは通称�ブリッジ�と呼んでおりますが」 「よう考えてあるなあ」  渡辺が軽く手を叩いた。 「さて二十四階が経理部、二十五階が社長室と役員室です。屋上にはヘリポートがあります。とりあえず、今日のところは社長室の方へどうぞ。森中がお待ちしております」  三人がエレベーターを降りた。テレビジャパンのイメージカラーである明るいオレンジ色で統一されたフロアが彼らを出迎えた。 「藤田さん、お世辞抜きで、これは凄いビルですな」  ほとほと感心した様子で首を振りながら渡辺が握手を求めた。 「東洋一だと思っております」  応じながら、藤田が言った。 [#改ページ] [#小見出し]  Part1 TV JAPAN[#「Part1 TV JAPAN」はゴシック体] (二月十四日金曜日 午前九時二十五分〜午前十一時十三分)      1 [#地付き]09:25AM  両手にコーヒーカップを二つずつ持ったまま、高井由紀子が給湯室の扉を足で押し開けると、歯を磨いていた中畑純子が振り向いた。 「おはよ」  中に入って、コーヒーカップを流しに置き、シャツワンピースの袖を丁寧にまくり上げた。 「おあよ」  歯ブラシを口の中に入れたままで純子がうなずいた。 「何してんのよ、朝っぱらから」 「あー、飲み過ぎて気持ち悪い」純子が口をゆすいだ。「トイレ、満員でさあ。あんたも嫌なところに入って来るわね」 「悪かったわね」  洗ったカップを渡していく。受け取った純子が乾いた布巾で拭きながら、真剣な目付きで由紀子を見つめた。 「ねえ、何かすごくない? 気合入ってるってカンジだけど」 「何が?」  何がじゃないわよ、と由紀子の頭の先から足元までチェックを入れた。 「あんた、昨日美容院行ったでしょ。風邪で休みますなんてミエミエの嘘ついて、何してんのかなって思ってたら」 「ちょっと、熱っぽかったのよ」  ありえない、と純子が肩をすくめた。 「何なの、コイツ。信じらんない。ちょっといいとこのお嬢様っぽいじゃない。どこの店に行ったのよ」 「だから、家にいたってば」  会社を休んでわざわざ西麻布のヘアサロンまで行ったかいがあった、と由紀子は安堵のため息をついた。ヘアスタイル、ファッション、アクセサリー。結婚相手の両親に会うための身支度は難しい。  ブランド物に身を固めていれば、遊んでばかりの女に思われてしまうだろう。それでなくても、テレビ局員というのは派手に思われがちな職業だ。  かといって、ただおとなしいだけの地味な女を演出するのも、今後のことを考えれば損に決まっていた。何でもいいなりになる女とは思われたくない。嫁と姑の戦いは、既に始まっているのだ。  うなずきながら、純子が由紀子のまわりを一周した。 「メイクも決まってるし、しかも何、その服。エポカじゃないの。ちょっと見せなさいよ」  伸びてきた純子の手を、体でかわした。 「触んないでよ、汚れるじゃない」 「待ちなさいって。しかもピアスまで外して。いったい何がしたいわけ?」 「うるさいなあ」  肘で純子の背中を押した。女同士はこれだから嫌だ。朝からこれでは、今日一日が思いやられる。 「しかも水色のシャツワンピースなんて。ねえ、今日合コンあったっけ?」 「気分よ、気分。そういう日だってあるでしょ」 「そんなんじゃごまかされないわよ」  まじまじと見つめる純子の視線は、まるでX線のようだった。何か、あったわねと、確信を込めて厳《おごそ》かに言った。 「別に」  顔を伏せて、置いてあった灰皿を水に浸けた。一昨日のことを思い出すと、どうしても笑顔がこぼれてしまう。 「これはデートのレベルの服じゃないわ」純子が結論を出した。「もちろん、単なる合コンでもない。プロポーズの返事をするか、そうでなきゃ相手の両親に挨拶するときのスタイルよ」  こういう時の女の勘は本当に鋭い。無視して灰皿を洗いにかかった。純子に知られたら、もう終わりだ。今日の夕方には社内中の噂になってしまうだろう。 「まさか!」純子が叫び声を上げた。「編成のダーリンにプロポーズでもされたの?」 「あんたも手伝いなさいよ」  洗剤で泡だらけになった灰皿を突きつけて、水道の蛇口を強くひねった。勢いよく水が流れ始めた。 「あたしのことより、そっちこそどうなのよ」 「あたし?」 「例の新入社員」  受けてばかりでは勝負にならない。こっちからも攻めなければ。純子が他人より自分に興味が向く性格であることは、経験上わかっていた。 「聞かないでよ」  急につまらなそうな顔になった。チャンス。 「聞かせなさいよ」 「とにかくね、結論はひとつ。年下はダメ」  あんたねえ、と由紀子は乱暴にコーヒーカップをシンクに投げ入れた。 「これからは年下よ、とか言って喜んでたの、先週じゃない」 「いいと思ったんだけどねえ」  純子が心底残念そうに言った。由紀子は別のカップを洗い始めた。 「営業の金泉《かないずみ》くんでしょ。いい感じの子じゃない。カワイイし、育ちもよさそうだし」 「全然。とにかく頼りないのよ」  ふてくされたように、純子がポーチからセーラムライトの袋を取り出した。誰にも言ってないんだからね、と勿体をつけてから話し始めた。 「先週の日曜、デートしたのよ。車出すって言うからさ」 「いいじゃない」 「BMWのZ4よ。親のだとは言ってたけどさ、こりゃ頑張っちゃおっかなって、思うじゃないの」 「思う思う」 「あんた、あたしの家、祐天寺よ。なんでそこから青山まで一時間半もかかるわけ?」 「渋滞でもあったの?」  カップを洗う手を休めずに尋ねた。 「ちょっと、天然でボケないでよ。それならあたしだって怒ったりしないわよ。単純な方向音痴。しかもメチャクチャな、ね」 「でもさあ、金泉も大物じゃない。方向音痴で一時間半も迷わないよ、ふつう」 「小物でいいから、二十分で行ってほしいわ」  純子が盛大に煙を吹き上げた。間違ってるってわかってるんだったら、と由紀子は頬にはねた水滴を手首でそっと拭った。 「教えてあげればいいじゃないの」 「まあねえ、それもそうなんだけどねえ。あれだけ豪快に間違われると、逆にどこまで行くのか興味が出てきちゃってさあ」  気がついたら世田谷よ、と語尾上がりで純子が言った。 「それから?」  雑巾でシンクを拭きながら、先を促す。 「とりあえず青山着いたのはいいけど、あいつったら疲れきっちゃって、何も出来ないとか言ってさあ、おかげでマックスマーラのバーゲンに行けなかったのよ。しかも、その後どこに連れていかれたと思う? スターバックスよ」 「いいじゃないの、あそこのラテ美味しいわよ」 「スタバは全席禁煙なの。煙草喫えなかったら、あたし死んじゃうじゃないの」  煙を吹きかけた。手で払いながら、由紀子は小さく咳き込んだ。 「死にはしないでしょうに」  背後でうつろな音が響いた。振り向いた二人の前で、給湯室の奥にあったリフトの銀色の扉が勢いよく開いた。  通常はコーヒー、その他の飲み物を十二階の喫茶室から出前で取る場合の搬出入や、地下三階の業務車駐車場からレストランフロアに料理の材料を搬入する際などに使われている。その扉から女が一人出て来たのだ。 「何よ、もう」  出て来た女が、服についた埃を払いながら言った。由紀子や純子と同期で人事部の北原文恵だった。リフトは外からも内部からも操作出来る仕組みになっている。 「リフトの使用は、この前禁止されたばっかりじゃない」  純子が灰を直接シンクの三角コーナーに落とした。  地下三階の駐車場から最上階二十五階まで続いているリフトは、小さいとはいえ業務用に作られているため、女性なら十分に入る大きさがある。エレベーターを待つよりも早い場合があるので、総務部の女子社員がフロア間を移動するために使うようになり、すぐに経理や庶務の社員たちも真似をするようになった。  ただ、もともと人間が乗ることを想定して作られたものではない。重量制限は二百キロだが、あまりに多くの人間が使用したために故障が頻発し、とうとう一週間ほど前には人事部の女子社員がリフト内に閉じ込められるという事故が起きていた。そのために、飲食物の移動以外の使用を厳禁するという通達が総務部から各部署に出されたばかりだった。 「あの時は大騒ぎだったね」  由紀子が言った。人事部の先輩社員を救出するために、ビル管理会社や消防のレスキュー隊などが総計百人以上集まり、救出作業は一時間以上にも及んだ。由紀子たちが見守る中、無事救い出されたその先輩社員が大声で泣き叫んでいた光景は、誰の記憶にも鮮かに残っていた。 「別にはじめから許可されていたわけじゃないわ」開き直ったように文恵が言った。「だいたい、あんたが一番使ってるんじゃないの、これ」 「そりゃそうかもしんないけど」  純子が小さく舌を出した。 「ねえねえ、そんなことよりさあ、あんたったらどうしたのよ」  文恵が無遠慮な視線で由紀子を見つめた。そうなのよ、と純子が深くうなずいた。 「でしょ。でしょでしょ。なあんかねえ、かなりワケありってカンジしない?」  二人が腕を組んだ。 「するする。どうしたのよ、何かあったの」見てよこれ、と純子が由紀子の髪に触れた。「珍しいでしょ、この子がこんなにきっちりセットするなんて」  ホントだ、と文恵が首を傾《かし》げた。 「どうしたの、お見合いでもあるわけ?」  ふだん、由紀子はメイクや髪の毛にそれほど手間をかけない。身長百六十センチ、年齢より五歳は若く見られる童顔に、濃いメイクは不釣り合いだと思っている。全体に小造りで、目鼻立ちが派手というわけでもない。だが、今日はいつもと違うのだ。  ねえ、と由紀子は聞こえない振りをして、純子に話の続きを促した。 「それからどうなったのよ」 「何の話?」 「若者とのデート」  短く由紀子が答えた。マジで? と文恵が大きな目を見開いた。 「あんた本当に日曜デートしたんだ」興味津々、という顔で、純子の手からセーラムライトを奪う。「いいなあ、金泉。あたしもちょっと狙ってたのよ」 「あんた彼氏いるでしょうに。黙って聞きなさい」  からかうような笑みを浮かべた文恵が煙草に火をつけた。純子が話の先を続けた。 「それからね、駐車場探したんだけど、なくってさあ」唇を小さく歪めた。「青山一丁目まで戻って車停めたら、もうどこにも行く気がなくなっちゃって、ご飯でも食べようかって話になったのよ。それで適当に裏通りのイタリアンに入ったら、なんか安っぽい感じの店でさあ」 「どこどこ?」  文恵が勢い込んで尋ねた。携帯にレストランの店名を登録するのは、文恵の生きがいのひとつだった。 「名前も覚えてないわ」純子が鼻に皺を寄せた。「しかもマズイの。ほとんど残して出てきちゃった。そしたら出るとき、あいつったら何て言ったと思う? 『ワリカンでもいいかな』だって。信じられる?」 「信じらんなーい」  文恵が歌うように言った。 「サイテー」  由紀子が唱和した。 「頭来たってゆうか、もうなんかバカバカしくなっちゃってさ、いいから帰るって、送ってって言ったのよ。それで車、駐車場から出したら、青山通りに出るか出ないかのところで動かなくなっちゃったの」  ガス欠でしょ、と文恵が言った。ううん、と純子が肩をすくめた。 「違うのよ、ガソリンは入ってるの。後ろから車来るしさあ、泣きたくなっちゃったわよ。それでいろいろ調べてたら」 「バッテリーだ」  由紀子にも経験があった。去年の夏、圭と一緒に行った千葉の海でチェロキーのバッテリーが上がった時は大変だった。それがさあ、と純子が首を振った。 「そう思ったのよ。金泉もバッテリーだろうって言うし、しょうがないからJAF呼んだのね。そしたらバッテリーでもないのよ。三十分ぐらいああでもないこうでもないって、JAFのオジサンがいろいろやって、結局車のマフラーに誰かがイタズラでボロキレを突っ込んでたのがわかったの。それで動かなかったってわけ」 「なにそれ。そんなことでエンストしちゃうんだ」  初めて聞いた、と言いながら文恵がカップを戸棚にしまいはじめた。 「そうなのよ。もう厭になっちゃってさあ。だってあたし、デートに備えてネイルサロンにまで行ったのよ。なのに、車を道の端に寄せなきゃならなくて、二人で押したりしたもんだから、爪が割れちゃって。もう最悪」  短くなった爪を二人に見せた。 「でもそれって、彼に問題があっただけじゃない? 年は関係ないんじゃないの」  由紀子の指摘に、とんでもない、と純子が唇を曲げた。 「そんなことないって。年下はダメね、とにかく頼りないもん」 「うちのは年下だよ」  携帯電話の待ち受け画面を見せようとした文恵を、黙ったまま由紀子が睨んだ。三年前からつきあっているという二歳年下の恋人は文恵の自慢の種だ。 「院生だけど、けっこうしっかりしてるけど」 「そりゃよかったわね」  純子が煙草を灰皿に押し付けた。 「ああもう、洗ったばかりなのに」  呻《うめ》いた由紀子に、もう一度洗えばいいんでしょ、と乱暴に灰皿をゆすぎ始めた。 「それより由紀子、あんたの話、聞かせなさいよ」 「あ、もうこんな時間だ」わざとらしく由紀子は壁の時計を見た。「早く戻らないと、太田のオバサマに怒られちゃう」  そんなのどうにでもなるでしょうに、と文恵がシンクを叩いた。 「ねえ、あんた、先週はもう別れるって言ってなかったっけか」  由紀子は眉根に皺を寄せて、ついでに奥歯をかみしめた。笑みが浮かぶのをこらえることは出来たが、目を見つめていた二人が顔を見合わせた。 「笑ってるわ、こいつ」  文恵が言った。 「厭な笑いだわ」  純子がつぶやいた。後で話すわよ、と由紀子は言った。 「ねえ、本当にそろそろ太田さんが来るころだし、戻った方がよくない?」 「そりゃそうかもしんないけど」  最後のコーヒーカップを戸棚にほうり込んだ文恵が腕を組んだ。 「後で絶対教えなさいよ」  捨て台詞のように言って、純子が給湯室の扉を開けた。 「お昼はあんたのおごりだからね」  文恵がその後に続く。 「逃げたらどうなるかわかってるでしょうね」  声だけが聞こえた。  逃げたりなんかしないわ。由紀子はうつむいたまま、我慢しきれずに小さく笑った。  もういい。社内中の噂になっても構わない。何もかも話してあげる。あんたたちがやめてと言うまで、一昨日あったことを全部話してやる。今までのあたしの人生で、一番幸せだった瞬間のことを。  あたし、結婚するのよ! 叫びかけた口を慌てて押さえた。昨日までのあたしとは違うのだ。  岡本由紀子、か。うん、わりといい名前かも。  由紀子は給湯室の扉を勢いよく開いて、廊下に出た。      2 [#地付き]09:31AM  車体に大きく『TVJ』とペイントされた中継車が、テレビジャパン社屋のパーキングエントランスに入ってきた。  警備室から二人の警備員が外へ出てきた。若い方の男が手を大きく振って、停止を命じた。中継車は素直に指示に従った。 「どうも」運転席のドアを叩いて、警備員が馴れ馴れしい口調で言った。「朝早くから大変すね」 「徹夜明けはキツイよ」  運転していた男が、オートウインドウを降ろしながら言った。 「番組は何ですか」 「ナイトニュースジャパン」 「見てましたよ。なんか、すごい火事だったらしいじゃないすか」  当直だった若い警備員は、深夜に放送されていたニュース番組を見ていた。 「渋谷の消防署が火元だったなんて、まったくバカみたいな話ですよね」 「そうだよねえ」  男が曖昧《あいまい》に微笑んだ。無表情で会話を聞いていた年かさの警備員が前に進み出た。 「通行証を見せてください」  いけねえ、という顔をして若い男が半歩退がった。運転手が首からぶらさげていた顔写真入りの通行証をそのまま見せた。 「京通自動車の方ですよね」 「そうですが」 「初めてですか、私とは」  年かさの警備員が尋ねた。さあ、と運転手が首をひねった。 「初めてかもしれませんね。新人なもんですから、よろしくお願いします」  軽く頭を下げた。横から若い警備員が顔を出した。 「地下三階でいいんすよね」  男がうなずいた。 「はい、じゃ行っちゃってください。ご苦労さまです」 「どうも」  小さくクラクションを鳴らした運転手が、車をスタートさせた。ゆっくりとしたスピードで地下駐車場への連絡通路へと向かう。見送りながら年かさの警備員が首をひねった。 「どうしたんすか」 「いや、見ない顔だなと思ってね。覚えがあるかい」 「ないですけど。ま、運転手の顔なんて、いちいち覚えてないっすよ。これがアイドルかなんかだったら、そりゃ絶対覚えてるってもんですけど」  あ、もう一台来ます、と手を振って合図した。ベンツが入ってくるのが見えた。  年かさの警備員がもう一度、中継車に目を向けた。その視線を避けるように、車は地下へと降りて行った。      3 [#地付き]09:34AM  通路の壁に『要徐行、対向車に注意』という文字が黄色のペンキで記されている。  男は指示に従って、速度を緩めたまま走り続けた。ハンドルを握る手に、わずかに汗が滲《にじ》んでいた。  地下三階に着いた。パーキングエリアの一番奥のブロックに、赤いパイロンが置かれている。運転していた男はそこで車を停めた。運転席から降りて、辺りを見回した。  地下三階は業務用の車輛だけが使用できるフロアで、一般車は入ってこられない。他に誰もいないことは確認済みだったが、男はチェックリストに記載されていた通りに行動した。無人であることを確かめてから、車の後ろに回り、ロックを外して後部扉を開いた。  そこには、揃いの迷彩服を着込んだ男たちが乗っていた。それぞれが大きなザックを背負っていた。一人目の男が荷台から降りた。無言のまま、伸びをした。  背後で油断なく辺りの様子を窺っていた二人の白人が、素早く飛び降りた。五人の男たちがそれに続いた。  最後に、ただ一人淡いブルーのジャケットを着た男が、荷台からゆっくりと降りた。運転していた男を含め、九人の男たちが整列していた。  車のミラーで襟元を直してから、ジャケットの男が静かにうなずいた。手に持っていた濃い茶色のサングラスをかける。男たちが踵《かかと》を揃えて敬礼した。 「時間通りです、少佐」  右目の下に傷のある男が言った。無表情のまま、少佐が内ポケットから携帯用の無線機を取り出した。発信ボタンを押すと、すぐに相手が出た。 「私だ。いま現着した」  少佐が無線機をポケットに戻すのと、男たちの一人が後部扉を閉めたのはほぼ同時だった。 「諸君、すべて予定通りだ」  全員が静かにうなずいた。 「クイーン」  濃いグレーのドアにもたれて立っていた、病的なまでに細い体つきの男が姿勢を正した。他の男たちがいずれも長身、筋肉質であるのに対し、一人だけ子供のようだった。  ドアには大きく『危険/DANGER』と記されている。その下には日本語と英語で『許可なく立ち入りを禁ず』とあった。 「焼却炉はそのドアの向こう側だ。だが今は関係ない。さしあたって用事があるのはあちらのエレベーターだ」少佐が反対側を指さした。「では、今から作戦を開始する」  男たちがそれぞれに視線を交わした。白人の一人がはめていた時計を指さした。 「マーク」  はっきりとした口調で言った。チェック、と八人の男たちが自分の時計を確かめながらつぶやいた。その声を背に、少佐がエレベーターに向かった。他の者もそれにならった。ボタンを押すと、エレベーターの扉が待っていたかのようにすぐに開いた。 「幸先がいい」  顎鬚に触れながら少佐が言った。      4 [#地付き]09:35AM  闇の中で、男は無線のスイッチを切った。  はめていた腕の時計を操作すると、液晶盤がぼんやりと光った。デジタルで表示された時間を確認して囁いた。 「本隊は現場に着いた」  男の声に応えるように、ペンライトの光が点滅した。 「別命あるまでそのまま待機」  返事の代わりに、一斉に光が消えた。再び闇があたりを包んだ。      5 [#地付き]09:35AM  テレビジャパンで最も大きなスタジオである第五スタジオ、通称グランドスタジオは、人でごった返していた。  三百名以上のタレント、俳優、歌手、ミュージシャン、モデル、スポーツ選手、政治家、文化人たちが、スタジオの半分を使って設営されたパーティ会場に集まっている。  会場には和食、洋食、中華、その他さまざまな料理のブースが並んでいた。立食形式で、ゲストたちは好きな料理を選んで食べることが出来る。寿司職人が景気のいい声を上げながら客を呼び込んでいた。  全国のテレビジャパン系列局も、文化祭の模擬店のようにブースを並べていた。各ブースには地方の名産品が山のように積まれている。  陳列した棚の前で、各局の女子アナウンサーたちが説明をしながら袋に詰めて配っていた。肩を剥き出しにした黒いドレスのコンパニオンたちが、客の間を縫うようにしてドリンクのオーダーを取っていた。  副調整室からその様子を眺めていた総合ディレクターの菅原が、おもむろにマイクのスイッチを入れた。鳥のように痩せているが、その割に声は太かった。 「おはようございます。皆さん、朝早くからお集まりいただき、ありがとうございます。ご歓談中のところを申し訳ありません。わたしは当番組の総合演出を務めさせていただきます、菅原貴司です」  パーティ会場からまばらな拍手が起こった。大食いで有名な巨漢タレントが、ローストチキンをくわえたまま辺りを見回している。 「あと五分ほどで、今日から足掛け四日間、七十二時間にわたって放送される特別番組がスタートします。第一部のゲストの方は、そろそろスタンバイをお願いします。それ以外の方はそのままで、食事や飲み物をお楽しみください。また番組が始まっても、ご歓談は続けていただいて構いません。では、よろしくお願いします」  スイッチを切った。数人のアシスタントディレクターたちが、ゲストを所定の位置につかせるために飛び回り始めた。  春から始まる連続ドラマに主演する未成年の女優が、口元に付いていたビールの泡を拭っている。ふて腐れた表情のまま、クイズの回答席に向かった。その後ろでは、引退したばかりの野球選手がしきりにシャドーピッチングを繰り返していた。 「はいお疲れお疲れ」  言葉と同時に、ディレクターの肩に手が置かれた。振り向くと、特別番組のメイン司会者であるアナウンサーの霧島恭平が立っていた。 「お疲れさまです」  立ち上がった。同じテレビジャパンの局員だが、霧島の方が五年先輩になる。 「どうなの、順調?」  短く切った髪の毛を整えながら霧島が聞いた。『順調?』というのは、この男の口癖だ。  初めて聞いたのはいつだっただろう、と菅原は考えた。それにしても、この人も白髪が目立つようになったものだ。顔が真っ黒なのはゴルフ焼けなのか、それとも肝臓がいかれているからなのか。 「問題ないです。あるとしたら霧島さんだけですよ。まさか昨日は呑みに行ったりしてないでしょうね」  霧島の酒豪ぶりは局内でも有名で、番組に二日酔いで現れたことも一度や二度ではない。 「行くわけないじゃないの。一週間前から禁酒してますよ」  霧島が豪快な笑い声を上げた。 「ですよね」  冗談に紛らわせて菅原も笑った。怪しいものだ、と思っている。何となくだが、息が酒臭かった。 「とにかく、今日はよろしくお願いしますね」 「今日は、じゃなくて今日からでしょうに。明明後日《しあさつて》まで続くんだからさ」  テレビジャパン新社屋完成記念番組『七十二時間テレビ・TVJ新エンタテインメント宣言!』は�テレビのトライアスロン�というコンセプトの下に企画された番組だった。民放キー局としては初めて四日間連続で放送されるという、まさに前代未聞の特別番組だ。  二十四時間、あるいは三十時間という枠組みの番組は他局でも何度か例があったが、七十二時間、足掛け四日間の連続生中継というのは、テレビ史上でもほとんど他に類を見ない試みだろう。 「まったく、ガマン大会じゃないんだから」霧島が禁煙用のパイプをくわえた。「編成の連中は、頭どうかしちゃったんじゃないの」 「正直、僕もそう思いますよ」  菅原がうなずいた。これだけは同感だった。 「やれと言われりゃ何でもやりますがね。あたしら、しがないサラリーマンですから。しかしそれにしても、もうちょっと社員の健康ってものを考えてほしいですな」 「まったくです。霧島さんも、最初から飛ばさないでくださいよ。のんびりやりましょう、先は長いんですから」  もちろん、一人のアナウンサーが七十二時間通して番組を仕切れるはずもない。番組には細かいコーナーがいくつも用意されていた。長尺の映画をノーカットで放映したり、サッカーとバレーボールの生中継を挟むことによって、霧島には十分な休憩が与えられることになっている。  とはいえ、番組のメインパーソナリティである以上、霧島にのしかかる肉体的及び精神的なプレッシャーは、相当な負担になるはずだった。とにかく無事に放送が終了するまでは、霧島に倒れてもらうわけにいかない。  菅原だけではなく、番組関係者全員がそれをよくわかっていた。当然、霧島への配慮も尋常ではない、つい一時間前には社長である森中久雄が直々に激励のため霧島の控室を訪れたばかりだった。 「わかってるって。せいぜいのんびりやらしてもらいますよ」  霧島が薄笑いを浮かべたとき、横にいたタイムキーパーが�あと三分です�と指で告げた。 「それじゃあ、行ってきますかね」  禁煙用のパイプをポケットにしまいながら、腰を伸ばした。 「よろしくお願いします」  その背中に菅原が声をかけた。肩越しに手を振って、霧島が副調整室を後にした。 「大丈夫かな、先生は」二人の会話を聞いていたプロデューサーの松尾が、菅原の隣に席を移した。「ちょっとプレッシャー、来てるんじゃないの?」 「どうですかね。少し来てるぐらいで、ちょうどいいんじゃないですか、あの人の場合は」 「言うねえ」  松尾が菅原の肩を軽く押した。副調整室の扉が開いて、前総理大臣前川康夫の秘書が入ってきた。これはこれは、と松尾が挨拶をするために立ち上がった。  菅原は左右の席を見た。ディレクターとタイムキーパーが、指示を待っていた。 「どうして誰も、俺には�大丈夫か�って聞かないのかなあ」  ぼそりとつぶやいた。 「どうしてですかねえ」  茶髪のディレクターが笑った。 「一分前です」  タイムキーパーが言った。 「それじゃあそろそろ」座り直した菅原が煙草をくわえた。「まいりましょうか」      6 [#地付き]09:41AM  エレベーターから出て来た男たちが、テレビジャパン五階の長い廊下を歩きだした。  それぞれが銃器を剥き出しにして肩から下げていたが、好奇の目で見る者はあっても、すれ違う者の誰一人として不審そうな顔をする者はいなかった。 「少佐が言われた通りですね」男たちの一人がつぶやいた。「どうして誰も我々を怪しまないのでしょう」 「ここはテレビ局なのだ。常識は通用しない」  少佐が答えた。しばらく歩くと、廊下が二股に分かれている場所に出た。 「ここが分岐点だ」  片方の廊下には、赤いテープで矢印が記されている。こちらがグランドスタジオにつながる通路だ、と前方を指さした。テープは番組のゲスト出演者のためのものだった。 「そしてこちらの通路は副調整室へと続いている。ビショップ、それでは後で会おう」  ビショップが敬礼した。四人の迷彩服の男が後に従って、赤いテープの指し示す方向に進んで行った。  その背中を見送りながら、少佐は副調整室への廊下を歩き始めた。残った男たちが後に続いた。  複雑に折れ曲がる廊下を、少佐は迷うことなく進んでいった。局内の通路は全員が完璧に把握していた。目をつぶっていても目的地に行き着くことができるように、全員が訓練されていた。  短い階段を二つ昇ると、再び長い廊下に出た。まっすぐに進む。自動販売機が数台置かれた喫煙所を左に折れると、『副調整室』と大きく書かれた方向指示板があった。  そのまま階段を降りると、すぐにメタリックなシルバーカラーに塗られた鉄製の扉にぶつかった。扉の上では�ON AIR�と表示された赤いライトが光っていた。  立ち止まった少佐がそのライトに目をやった。後方を確認してから時計を見る。ひとつうなずくと、前に出た迷彩服の男が重い扉を押し開けた。  ざわめきが扉の隙間から漏れてきた。中はそれほど広くはなかった。二十人ほどの人間が忙しそうに働いている。大きなコントロールテーブルの前で、火の点いていない煙草をくわえたまま、痩せた背の高い男がマイクに向かって何かを指示していた。  その左側には、台本とストップウォッチを交互に見つめている若い女が座っていた。時々痩せた男に何か注意を促している。右側では髪の毛を濃い茶色に染めた中年の男が、いらいらした様子で盛んに何か叫んでいた。  中年男の隣に座っていたサングラスの男が、紙コップのコーヒーにミルクを入れながらモニターを眺めている。ヘッドホンをして、デジタルシステムのオーディオテープを操作している紺色のジャンパーを着た男が、サングラスの男に何か話しかけた。サングラスがうなずいて、小声でインカムに指示を出した。  彼らの後ろには、大きなテーブルが四台置かれていた。その上に所狭しと、ケーキやサンドイッチ、スナック菓子やハンバーガー、ポットに入っているコーヒー、ウーロン茶、オレンジジュースなどのペットボトルが並んでいる。テーブルの下には、空になった仕出し弁当の箱が山のように積まれていた。  テーブルのひとつで、速記でもしているかのようなスピードで何か書き散らしている若い男がいる。壁際には品のない背広を着た男が三人、ファイロファックスと携帯電話を片手に、退屈そうな表情を隠そうともせず座っていた。  それぞれが、それぞれの仕事をせわしなくこなしている。その中でただ一人、不機嫌な表情を浮かべてモニターをじっと見つめている中年の男に、少佐が声をかけた。 「失礼」  そのまま見下ろした。男が不快そうに首を曲げて声の方を向いた。 「プロデューサーの方ですね」  ええ、と男がうなずいた。 「松尾ですが、そちらは」  少佐が指で合図した。迷彩服の男が一人ずつ、副調整室の前後にある扉の前に立った。 「今すぐ番組を中止して、我々の指示に従うように」  立っている少佐を見つめていた松尾が、やれやれ、と言わんばかりに肩をそびやかした。 「何言ってんだか。あんた誰なんだ」  座り直した。そのまま、またモニターに目を向けた。 「これは命令だ」  少佐が顎鬚の先に指を掛けた。頼むよ、と松尾がわずかに唇を歪めた。 「見ての通り、こっちは今忙しいんだ。番組が始まったばかりなんでね。どうだろう、来週あたりにもう一度来てもらうということで」 「番組を中止するように」  落ち着いた口調で少佐が繰り返した。 「おい誰だよ、こんな奴入れたの」  目の前のテーブルを叩いて松尾が怒鳴った。一瞬副調整室が静まりかえる。若いアシスタントディレクターが近づいてきた。眉根に皺を寄せた少佐が、これが最後だ、と言った。 「番組を中止したまえ。今すぐに」 「あんた、一体誰なんだ。何の権限があって」  立ち上がった松尾を手で制して、少佐が言葉を続けた。 「要求を拒めば、実力行使ということになる。だが、我々は流血を望んでいない」  ジャケットの内ポケットに手を入れた。松尾が二度まばたきを繰り返した。出てきたのは小型の拳銃だった。 「麻生」  椅子に腰を落とした松尾が、少しかすれた声を上げた。壁際に座っている男たちにコーヒーを配っていた若い女が振り向いた。 「警備室に電話してくれ。変わったお客さんがいるんで来てほしい、と伝えればわかる」  不安そうな顔で、麻生と呼ばれた女がうなずきながら壁の内線電話を取り上げたが、いきなり爆発音がして、電話機が吹っ飛んだ。受話器を握ったまま、女が腰を抜かしてフロアにへたりこんだ。副調整室にいた全員が動きを止めた。 「これは警告だ」白い煙が立ちのぼる銃口を少佐が見つめた。「次はここにいる誰かが犠牲になるだろう」  衝撃に腰を抜かしていた女が、尻だけで後ろに退がった。無言のまま、少佐は拳銃をしまった。 「あんた、あんたは」顔面を蒼白にした松尾が、口を半開きにしながら声を上げた。「いったい何なんだ」 「説明の必要はない」無表情のまま少佐が命令した。「番組を中止したまえ」 「何を言ってるんだ、お前は」壁際に座っていた男の一人が叫んだ。「生放送なんだぞ、中止なんて出来るわけないじゃないか」 「私は彼と話している」  声の方を見ようともせずに少佐が言った。その言葉に、椅子を蹴倒して男が立ち上がった。 「ふざけるな、うちのタレントも出てるんだ。中止なんてさせられるか」 「既に警告は済ませたつもりだ」少佐が冷たい視線を男に向けた。「それ以上動けば、撃つ」  虚勢を張るように、男が数歩前に出た。 「お前、馬鹿じゃないのか。放送中の番組を──」  銃声と同時に、男が右の肩を押さえて倒れた。真っ赤な血が床に飛び散る。泣き叫ぶ男を、座っていた二人の男が慌てて抱き起こした。 「私の責任ではない。私は警告したはずだ。そうだな」  少佐が同意を求めた。 「あんたら、いったい何がしたいんだ」  松尾の声が涙声になっていた。 「何度も繰り返させるな。番組は中止だ」  少佐が手近の椅子を蹴り飛ばした。松尾の口が半開きになったまま、動かなくなった。他の番組スタッフも、何も言えないままにうつむいた。突然の事態に判断がつかなくなっていた。 「状況は理解したな。全員、手を頭の後ろに組め。そう、そのまま。立ち上がって、隅の方に集まるんだ。機材には手を触れるな」 「彼は……どうなる」  両手を上げた松尾が、顎で壁際をさした。肩を押さえた男が呻いていた。 「すぐに手当する。犠牲者が出ることを望んではいない。どちらにしても、この銃は口径が小さい。死ぬようなことはないだろう」  少佐が再び指で合図をした。迷彩服の一人が背負っていたザックから救急キットを取り出して、撃たれた男に近づいた。 「命令に従えば、すぐに全員を解放する。我々は決して嘘をつかない」  松尾がディレクター席に目をやった。菅原がうなずくのを確かめて、副調整室の右隅にある空きスペースを指さした。 「みんな、あっちの隅に移ってくれ。責任は俺が取る。こいつらは本気だ」 「ご協力に感謝する」  少佐がうなずいた。      7 [#地付き]09:45AM  テレビジャパンのグランドスタジオには、十二メートル四方の特大モニターが設置されていた。九つに分割された画面が、日本各地の系列局からの映像を映し出している。  もうひとつ、独立したモニターが横に置かれて、そこには現在放送されている札幌からの映像が流れていた。若手のお笑いタレントが、札幌キタキツネテレビの女子アナウンサーを集めてクイズを出している。答を間違うと、次に誰かが間違うまで氷の上で裸足でいなければならないという苛酷なルールのために、全員が真剣な顔でクイズに参加していた。 「この次は名古屋だよな」  グランドスタジオの脇に用意された休憩所でモニターを見ていた霧島が、フロアディレクターに確認した。手の中にある紙コップには、いつものようにウーロン茶で割った濃いウイスキーが入っている。 「そうです」  フロアディレクターが、インカムから聞こえてくる総合ディレクターの指示通りに誘導しながら答えた。 「さっき、大阪から札幌へつなぐとき、カンペがよく見えなかったんだよ」  歩きながら霧島が言った。 「すいません」 「もっとはっきり書いてくれよ」 「すいません」  フロアディレクターの従順な態度に満足したのか、霧島は鷹揚《おうよう》にうなずいた。  霧島恭平のアナウンサー人生は、決して順風満帆だったわけではない。人気が出たのは、七年前に深夜のバラエティ番組で売れない芸人相手の人生相談を始めたときだ。それまではどこにでもいる平凡なアナウンサーの一人に過ぎなかった。  四十を過ぎるまで、ディレクターやプロデューサーに媚びへつらうようにして生きてきた。華やかに見えるテレビ局のアナウンサーだが、その実態は芸者のようなものだ。声がかからなければ仕事はない。  どれだけ苦労してきただろう。だが今この番組を仕切れるというだけで、すべてが報われる。霧島は全身でそう感じていた。  ゲスト席には、女優、歌手、タレント、お笑い、スポーツ、政治家から文化人まで、各界の第一人者が座っている。彼らを仕切ることが出来るのは自分だけなのだ。高揚した心を更にアルコールが煽っていった。 「一分前です」  霧島は持っていた紙コップをフロアディレクターに渡して司会席に戻った。軽くうなずいて、目の前のテーブルを両手で挟んだ。トレードマークにしている、得意の決めポーズだった。 「三十秒前、拍手!」  フロアディレクターの声に反応して、スタジオ中から歓声が沸き起こる。スポットが霧島に当たった。 「二十秒前」  十九、十八、十七とカウントが始まった。開放されている一般客の観覧席から、秒数を唱和する声が重なる。  そのとき、スタジオの扉が開いた。入って来たのは数人の男たちだった。 (誰だ、あれは)  おい、とフロアディレクターに小声で言ったが、カウントに集中しているために気づいていない。霧島は男たちの姿を目で追った。  なんだ、あの格好は。迷彩服なんか着やがって、エキストラにしては目立ち過ぎだ。手に持っているのは何だ、棒か? サングラスと帽子で顔がよく見えない。  不謹慎な奴らだ。不快に思ったが、意志の力で笑みを浮かべた。後でディレクターの菅原に注意しなくては。本番中だというのに。 「十秒前」  男たちが左右に分かれ、スタジオの隅に立っていた警備員に持っていた棒を圧し当てた。二人の男が崩れるようにして倒れていく。スタジオ中の視線が霧島に向いているため、誰もその事態に気づいていない。  何が起きている。どうなっているんだ。震えている右手で、額の汗を拭った。拍手の音が大きくなった。 「五、四、三」  そんなことしてる場合か。やめろ。とんでもないことが起きているんだぞ。  その時、フロアディレクターがキューを出した。口が勝手に開いて、台本の台詞を吐き出した。 「さて、札幌からの中継でした。皆さん、ご苦労さまでした。寒いのにねえ、大変でしたけど、いかがでした」  台本通りに、キタキツネテレビの女子アナウンサーに話を振った。頬がチック症のように細かく痙攣《けいれん》を始めていた。 「霧島さーん! ひどいゲーム! ひど過ぎますよお」  女子アナウンサーのコメントに、会場中から笑い声があがった。だが、その声は霧島の耳には入らなかった。男たちが近づいてくる。 「霧島さん? ええと、聞こえてますか?」  コメントを言い終えたアナウンサーが、反応を示さない霧島にもう一度札幌の現場から呼びかけた。その不自然な間《ま》の中を迷彩服の男たちがフロア中に散らばって行き、アシスタントディレクターやフロアディレクターの背後に立った。  霧島は男たちが持っている棒がスタンガンだということに、そして、彼らがそれぞれに背負っているものが銃であることに気づいた。あれは本物なのか? それとも、俺を笑い者にしようとするディレクターの仕込みなのか? 「霧島さん?」  札幌からの呼びかけに、反射的に口が動いた。 「ええ、はい、ありがとうございました」  どうすればいい。ここから何を話せばいいんだ。  男たちが一斉にディレクターたちの体にスタンガンを当てた。なぞるような動きで、ディレクターたちがフロアに倒れ込んだ。  スタジオがざわめきに包まれた。男たちの一人が、落ちていた画用紙にマジックペンで大きく字を書いて、霧島に示した。 『お静かに。我々と一緒に来てください』  口を閉じたまま、霧島は天井を仰いだ。      8 [#地付き]09:49AM  給湯室を出てから経理部に戻るために、狭い通路を進んだ。由紀子が勤務する第一経理部は二十四階イーストエリアにある。  給湯室はウエストエリアとイーストエリアに挟まれたエレベーターホールの脇を通る連絡通路に、それぞれひとつずつ設置されていた。エレベーターホールに出たところで、第一経理部の入り口前に背の高い男が立っているのが見えた。 (え?)  肩のラインに見覚えがあった。どうして? 何でいるの?  テレビジャパンの経理システムでは、他部署の人間が直接経理部に来ることはほとんどない。通りがかった経理部員が不思議そうに見ていた。  気配を感じたのか、男が組んでいた腕を解いて振り向いた。目配せをする。自分に会いに来たのだ。急に体温が上がったような気がした。  回れ右をして、給湯室に戻った。親しい友人はともかく、社内では二人の交際は誰にも言っていない。圭が周りを気にしながらついて来た。 「何? 何なの?」  嬉しさよりも困惑の方が先に立った。いったいどうしたのだろう、わざわざ来るなんて。今までこんなこと、一度もなかったのに。 「いや、一昨日戻れなかったからさ」給湯室脇の喫煙スペースで、圭が煙草をくわえた。「怒ってないかと思って、ちょっとご機嫌伺いに来た」 「もう、びっくりさせないでよ」  壁に右手をついたまま、大きく息を吐いた。驚いたように圭が見つめた。 「何が?」 「あのねえ」  女は不安なのよ、と言いかけて止めた。どうせ男には、プロポーズされたばかりの女の微妙な心理なんて、わかるはずがないのだ。  そしらぬ顔で煙を吐いた圭が、自分の胸に手を置いた。 「今夜のこと、確認しておきたくてさ」  あのねえ、と由紀子は目の前の男を睨みつけた。 「ねえ、わかってる? あたしは今まであなたとの約束を破ったことはないのよ」  お言葉ですがね、と圭が唇を尖らせた。 「俺だってないと思うけどな。電話が欲しいといわれりゃ必ず連絡を入れるしさ、会うと決めたらいつだって会ってたじゃないか」 「そうね、確かにそうだわ。すぐにかけ直すと言われて、ずっと電話の前で待ってたら朝になってたこともあったわね。六時に会う約束が、十一時になったことも一度や二度じゃないわ」 「それを言われると弱い」  岡本圭はテレビジャパン内でも将来を約束されたエリート社員だった。若くしていくつものヒット番組をプロデュースし、仕事についての有能さは局の内外を問わず有名だ。女子社員にとっては憧れの存在といえるだろう。  ただ、プライベートに関していえば、圭は時間や約束についてあまりにもルーズだった。たいがいの女性なら我慢出来ないだろう。  よく耐えてきたものだ、と由紀子は改めて思った。それでも交際を続けてきたのはよほど相性が良かったのか、それとも二十九歳の意地だったのか。 「先が思いやられるわ」 「これからはそんなことはないようにする。約束するよ」  片手を挙げて、宣誓するように圭が言った。 「信用出来ない」  疑わしげに見つめる由紀子に、今日だけは間違いないって、と強く首を振った。 「番組は生だし、俺の担当は明日だ。何しろ七十二時間テレビだからね、編成の分担もはっきりシフトが決まってる。今日は放送の最初だから全員集合だけど、あとはスケジュール通りに動くだけさ。とにかく、六時半にいつものところで待ってるよ。親父とおふくろには七時半に行くって伝えてあるからさ。なんだか知らないけどあの二人、妙に張り切ってたけどね」 「お腹が痛くなってきた」  甘えたつもりだったが、本当に胃の辺りが重くなっていた。昔からそうだ。それほど経験があるわけではないが、つきあっていた男の親に紹介される時は、どうしても憂鬱になってしまう。 「心配すんなよ、たいしたことないって。単なる挨拶なんだからさ」 「たいしたことあるわよ。ねえ、何を話せばいいの?」  いつも通りでいいさ、と圭が笑った。 「何ていうか、適当におとなしくさ、適当に元気があって、みたいなそんな感じで」 「ほんとに、男の人って」  ため息をついた。どうして男っていつもこうなんだろう。 「心配ないって、いや本当に。悪い人じゃないと思うよ、うちの親は。むしろいい方かもしんないぜ」 「そりゃ、あなたにとってはそうかもしれないけど。ああ、何か気分悪くなってきた。ねえ、おみやげ何がいいのかなあ。ケーキとか甘いもの、好き?」 「何でもいいよ、そんなの」圭が吹き出した。「いいかい、とにかく気を使わないこと。それが一番なんだから」 「早くあなたをうちの両親に会わせたいわ。今のあたしがどんな気持ちか、よくわかるわよ。そのときになって嫌だのなんだの言い出したって知らないからね」  圭はどんな顔をするのだろう。母親はともかく、父親は昔|気質《かたぎ》で、里美の結婚相手が初めて来た時もいきなり怒鳴りつけたほどの頑固者だ。どうやって相手をするつもりかしら。 「ああ、そうか。それもあったなあ。いつにする? あれ、実家って栃木だっけ、茨城だっけ」 「群馬よ。悪かったわね、北関東で」 「ま、どこでもいいや。とにかく、今日が終わったら決めようぜ」  そろそろ戻らないと、と圭が靴の裏で煙草の火を消して、吸い殻を灰皿に捨てた。火災の可能性を考慮して、煙草だけはダストシュートではなく所定の灰皿に捨てることになっていた。  狭い通路を進んでエレベーターホールに出た。わざわざ来てくれたのだから、お見送りぐらいするわ、と由紀子が微笑んだ。 「あのさ」振り向いた圭が目をこすった。「あの、いいんだよな」 「何が?」 「いや、一昨日はさ、結局あんなふうになっちゃって、そりゃ俺が悪いんだけど、でも考えたら、ちゃんと返事聞いてないんだよね」  由紀子はシャツワンピースの胸元を押さえた。圭にもらったダイヤモンドのリングを、ネックレスにして首から下げている。  会社ではめていたら、それこそ女子社員の間でパニックが起きてしまうだろう。誰にも言えないが、常に感触を確かめていたかった。 「そうだっけ」  視線を床に落とした。 「やっぱりさ……一応返事を聞いておきたいっていうか」  圭が由紀子を見つめた時、エレベーターホールを中年の女子社員が通り過ぎた。慌てて二人揃って頭を下げた。どちらからともなく笑いが漏れた。 「こんなとこで言うの?」 「それもそうだな」  圭が照れ笑いを浮かべた。でしょ、と由紀子もうなずいた。 「シチュエーションとか、ムードとか、やっぱり欲しいじゃない。初めてなんだし」  わかったよ、と圭がエレベーターのボタンを押した。 「ねえ、みんなに話してもいいの?」  思わず聞いた。一瞬とまどったような表情を浮かべた圭が、優しく微笑んだ。 「どうせ、いつかわかることだしな」  唇を噛んだまま、由紀子はうなずいた。こんなに嬉しい言葉、他にあるだろうか。 「何、笑ってんだよ」からかうように圭が言った。「いつも言ってるだろ、生きてればいい事があるんだよ」  圭の口癖だった。馬鹿、と下を向いたまま由紀子が圭の肩を突いた。 「じゃ、あとでな」  エレベーターの到着を示すランプが点滅した。 「うん」  もう行っちゃうの? と言いそうになる口を慌てて閉じた。エレベーターから人が降りてきた。最初に出てきたのはアナウンサーの霧島だった。  あれ、と由紀子は首をかしげた。何で霧島さんがこんなところにいるのだろう。さっきまで、特番の事前告知のために、テレビに出ていなかったかしら。  今日の番組って、生放送じゃなかったっけ。『七十二時間テレビ』って、もうそろそろ始まると思ってたけど。  小さく頭を下げた由紀子の前に、カメラをぶら下げた男と、照明機材をかついだ男、そして長いマイクスタンドを持った男が出て来た。第二制作のスタッフだ。見覚えがある。  その後ろに、見たことのない男たちがいた。迷彩服の集団と、ブルーのジャケット。変わった取り合わせだ。  由紀子の方に目をやって、軽くうなずいた圭がエレベーターに乗り込もうとした時、ジャケットの男が鋭い声を上げた。 「待ちたまえ」  背の高い男だった。日本人だろうか、と考えながら由紀子は男を見つめた。色が浅黒く、彫りが深いその顔立ちは、外国人を思わせるものがあった。顎を覆う鬚がなおさらその印象を強めていた。二十代にも見えるし、四十代にも見える。不思議な印象を与える顔だった。 「降りて、こちらに来るんだ」  よく通る声で男が言った。いえ、と圭が手を振った。 「下に降りるんです」  笑いかけて、進行方向を示すランプを指さした。 「そうではない。そこから降りたまえ」  威圧感が男の口調から漂った。いったいどういうことだ、とエレベーターの中で圭が眉をひそめた。 「失礼ですが」  男たちを見た。由紀子にも圭の考えていることはよくわかった。  テレビ局に勤めていると、常識では判断出来なくなることが時々ある。廊下を侍が歩いていたり、半裸の女が集団で騒いだりしているのが普通な環境であるだけに、大概のことが当たり前のように思えてくるのだ。考えてみれば不思議な職場だった。  だが、それはあくまでもスタジオでの話だ。経理部のフロアで機銃を構えた男たちに出くわすのは、どう考えても不自然なことだった。 「あなたたちは……」  言われた通りにしろ、と囁いた霧島に、眉間《みけん》に皺を寄せた圭が顔を向けた。 「霧島さん、あなたも本番中じゃないんですか?」  不審に思うのは当然だ、とジャケットの男がうなずいた。 「約十分前から、このテレビジャパンは我々の制圧下にある。我々によって占拠されているのだ。状況を理解したら、そこから降りたまえ。君も人質の一人ということになる」  男の言葉の意味を把握するまで何秒かかかった。しかめ面のまま、圭がエレベーターから出てきた。何が起きているのかわからないまま、由紀子は圭の背中に回った。      9 [#地付き]09:55AM  二人を取り囲むようにして、迷彩服の男たちがエレベーターホールを横切った。経理部の前に出る。ジャケットの男が三人の部下とテレビクルーを引き連れてその後に続いた。 『第一経理部』と記されたドアは、いつものように開放されたままだった。中で経理部員たちが整然とコンピューターの端末に向かっているのが見えた。  迷彩服の男の一人が前に出た。ジャケットの男がサングラスを直しながら軽くうなずくのを確認して、男たちが部屋の中へ入っていった。  どこから見ても経理部には不釣り合いな重装備の男たちを見て、入り口に一番近い席に座っていた淡いピンクのワンピース姿の女子社員が及び腰で立ち上がった。 「あの、どちらさまでしょうか」 「少佐」無線機で何か話していた重装備の男が、ジャケットの男の耳元で囁いた。「二十二階、クリアです」 「結構」  少佐が小さくつぶやいた。三人の男たちが前に出て、肩に架けていた機銃を構えた。女子社員が悲鳴を上げて、その場にうずくまった。  パンツのポケットに手を突っ込んだまま、少佐がゆっくりとうなずいた。男たちが天井に向かって引き金を弾《ひ》いた。一斉に銃口が火を噴いた。  フロア中に叫び声が響き渡った。銃声はすぐに止んだが、悲鳴は長く続いた。火薬の匂いが辺りに漂った。 「静かに」  少佐が低い声で言った。不思議な声だった。部屋中を喧噪が埋め尽くしていたが、その中でもはっきり聞こえた。  再び男たちが、今度は一発だけ銃を撃った。静かに、と少佐が繰り返した。女子社員のすすり泣く声だけが、とぎれとぎれに続いていた。 「これは威嚇《いかく》であって、誰かを傷つけるつもりはない。君たちも自分の席に戻りたまえ」  少佐が由紀子と圭の肩を軽く突いた。催眠術にかかったようなおぼつかない足取りで、由紀子が窓際の自分の席に向かった。その後に続いた圭は、近くの空いている席に腰を下ろした。 「き、きみたちは誰なんだ! どういうつもりだ!」  奥の席に座っていた初老の男が立ち上がって叫んだ。高圧的な物言いだったが、背が低いために迫力はなかった。 「自分から名乗りたまえ」  ジャケットの襟に落ちた天井の塗装を、少佐がハンカチで払う。 「私はここの部長の槌田だ」小男が胸を張った。「君らはどこの部署だ」 「部署?」  ハンカチをしまいながら少佐が怪訝《けげん》そうな顔になった。機銃を構えていた迷彩服の男の頬に、わずかに皮肉っぽい笑みが走った。 「失礼、部長。報告が遅れておりました」迷彩服が敬礼した。「十分ほど前から、このテレビジャパンは我々の制圧下に置かれております。つまりあなたたちは、人質というわけです」  何をつまらんことを、と激高した槌田部長が大股で少佐に歩み寄った。 「どうせまた第一制作か、第二のバカどもだろう。下らんことばかりやりやがる。番組名と責任者の名前を言いたまえ。すぐに言わないと」 「もういいかな」  少佐が不機嫌な表情になった。怯えたように迷彩服がうなずいた。 「うるさい! 言わんと始末書だけじゃ済まさんぞ」槌田が怒鳴った。「これは責任問題にして」 「諸君、伏せたまえ。吹き飛ばされるぞ」  迷彩服から機銃を受け取った少佐が、正面の窓ガラスに向かって引き金を弾いた。派手な破壊音と共に、大きな窓が砕け散った。  同時に気圧の急激な変化によって、書類を始めさまざまな器物が外に吸い出されていった。再び悲鳴がフロア中から起こった。 「これでわかっただろう。銃は本物だ。諸君は我々の人質なのだ」  少佐が銃を部下に返した。構えた迷彩服が槌田を見すえた。 「威力は今見た通りだ。繰り返す。諸君は我々の人質である。その事実を認識してもらおう」  槌田部長の膝が揺らいで、フロアに崩れ落ちた。 「さて、気圧も落ち着いたようだ。諸君、立ち上がって。両手は頭の後ろで組むように。そのままあそこの」  腕を腰の後ろで組んだ少佐が、部屋の奥を顎でさした。ダークブルーのパーテーションで仕切られた小部屋の扉に、第二会議室と記されたプレートがかかっている。 「会議室に入るように。我々の指示に従えば、危害を加えるつもりはない。これは混乱を避けるための措置だ。状況が落ち着き次第、必要最小限の人数を除いて諸君を解放する」  伏せていた男性社員が、一人、二人と立ち上がる。不安げにあたりを見回しながら、会議室へと向かった。圧倒的な銃火器の威力の前に、彼らは無力だった。泣いていた女子社員たちも、お互いを支えあうようにして歩きだした。 「あたしたちも行きましょう」  経理部文書課の課長、太田豊子が近くにいた由紀子と中畑純子に囁きかけた。無理、と震える声で純子が言った。 「足が動かない」 「しっかりしなさい」  太田が純子の肩を掴んで、強引に立ち上がらせた。顔を上げた純子の目から、涙がこぼれ落ちた。 「歩くのよ」 「出来ません」泣きじゃくりながら純子が激しく首を振った。「出来ない出来ない出来ない」 「高井さん、あなた大丈夫なの?」  太田が振り向いて問いかけた。 「なんとか」  うつろな声で由紀子は答えた。あまりにも現実離れした事態に神経がうまく対応出来ないでいる。そのためか、逆に怖さは感じなかった。 「じゃあ、ついてきなさい」  太田が歩きだした。椅子から立ち上がった由紀子は、頼りない足取りでその背中を追いかけた。  太田に腕を掴まれたまま窓際の通路を進んでいた純子の足が止まった。割れた窓から風が吹き込んでいた。 「いや、もうダメ」純子がしゃがみこんだ。「もう無理」  追いついた由紀子が純子の脇に手を入れて体を起こした。立って、と囁いた。 「歩くのよ」 「出来ない、怖い」  子供のように叫んで、純子が激しく体を動かした。支えていた由紀子の足が、割れたガラスの上で滑った。 「危ない!」  誰かの叫び声が響いた。足がからまる。体が窓の方に倒れこんでいった。何で今日に限って、五センチのピンヒールなんか履いてきたのだろう。顔を上げた純子の口から、絶叫が迸《ほとばし》った。  助けて。手を伸ばした。思うように体が動かない。すべての動きがスローモーションのようだった。お願い、誰か助けて。圭。  窓枠に膝の裏がぶつかる。勢いがついたまま、反動で上半身が割れている窓ガラスに向かって突っ込んだ。純子の腕がシャツワンピースの襟にかかった。悲鳴。光沢のある布地が滑って、手が離れた。 (そんな)  ブレーキをかけようと突っ張った足が、またガラスの破片で滑った。目の端を窓枠がよぎる。手を伸ばした。掴んだ。もう大丈夫。  だが、掴んだのは銃弾で引きちぎられたブラインドだった。何の抵抗もなく、そのまま体が窓の外に放り出された。 (死ぬの?)  すべての音が消えた。自分の体が窓から落ちていくのがわかった。手の中のブラインドを握りしめたまま、由紀子は目をつぶった。      10 [#地付き]10:13AM  一瞬の静寂。  すぐにフロア中を叫び声が埋め尽くした。窓から落ちていった由紀子を目の当たりにした女子社員たちが、恐怖にかられて一斉に叫び出したのだ。 「黙れ!」  静かにしろ、と怒鳴った迷彩服の一人が機銃の引き金を弾いた。弾丸の発射音が連続して響いた。その凄まじい音が混乱に輪をかけた。  悲鳴を上げながら窓枠に飛びついた純子を、太田豊子が背後から抱きとめ、そのままガラスの破片が散らばっているフロアに倒れこんだ。声を上げて暴れている純子を太田が平手で打った。 「落ち着きなさい!」  唇を震わせていた純子が、子供のように大声で泣き始めた。その体を抱きしめたまま、太田は窓の外に目をやった。割れた窓から、強い風が吹き込んでいる。 「諦めろ」  つぶやきが少佐の口から漏れた。ビルの二十四階から落下して、死なない人間などいない。  別の男が前に進み出て、壁に貼られていた番組宣伝用の大きなポスターを剥がし始めた。割れた窓に正確な手つきでそのポスターを貼りつけていく。風の音が止んだ。同時に、泣き叫んでいた女子社員たちの声も小さくなった。しばらく様子を見ていた少佐が、ゆっくりと口を開いた。 「アクシデントだ。気にする必要はない」  迷彩服の男たちが、黙ったままうなずいた。 「作戦遂行中にはこのような事態も起こり得る。誰の責任でもない。むしろ重要なのはここからのリカバリーだ」向き直った少佐が、フロアのテレビジャパン社員を順々に見つめた。「お前たちもああなりたくなければ、我々の命令に従うしかない。これでよくわかっただろう」  泣き続けている純子の肩を抱いた太田が、憎悪の籠もった目で男たちを睨みつけた。無言で見つめ返していた少佐が小さく首を振った。 「予定を変更しよう」腕の時計に目をやった。「女性社員に関しては、このフロアからの退去を許可する。ただし、エレベーターの使用は禁ずる。非常階段から下に降りるように」  フロアの奥を指さした。テレビジャパンの社員は社屋内の移動に関して、基本的には建物中央部にあるエレベーターを使用する。ただし、建物の両端には階段が設置されている。そこから降りるように、と少佐は命じたのだ。  言葉を発する者は誰もいなかった。全員が窓から落下していった由紀子の姿を見ている。その事実に圧倒されていた。何人かの目には涙が浮かんでいた。 「行きたまえ」  少佐が促した。フロアの奥にいた女子社員の一人が、おぼつかない足取りでゆっくりと非常階段に向かって進み始めた。後を追うようにして、別の女子社員も歩き出した。  数人ずつのグループが自然発生的に生まれ、外へと向かった。少佐の部下の一人が前に回って進路を誘導しているので、移動はスムーズだった。残ったのは少佐と迷彩服を着た男たち、そして経理部長を含めた二十人ほどの男性社員だけになった。 「さて、君たちについても全員が残る必要はない」  立ちつくしている男たちに少佐が近寄った。ゆっくりと全員の顔を見渡す。目の前にいた白髪の社員の肩に右手をかけた。 「年寄りに用はない。降りたまえ。それから君も」  緊張のためなのか、それとも体質なのか、ワイシャツの色が変わるほどに汗を掻いている小太りの社員が、いいんですか、というように自分自身を指でさした。うなずいた少佐が、次々に八人の男を指名した。 「残り十人か。もう一人、減らそう」  残っていた社員たちが、その言葉を聞いて無意識のうちに一歩前に出た。自分を降ろしてくれ、とそれぞれの顔が訴えている。ただ一人だけ、顔を背けていた男の前で少佐が立ち止まった。 「君は」  言いかけた少佐に、岡本圭がいきなり殴りかかった。鼻先を拳がかすめる。空足《からあし》を踏んだ圭が体勢を立て直した。もう一度腕を振り上げたが、少佐の隣に控えていた男の動きの方が早かった。手首を取られて、その場に倒れ込んだ。 「それぐらいにしておけ」  少佐が迷彩服の肩を抑えた。フロアに直接顔を押しつけられていた圭を見下ろす。 「反抗しても意味はない。これでよくわかっただろう」  うなずいた迷彩服の男が体を離した。倒れたまま顔をねじ曲げた圭が少佐を睨みつけた。その視線を無視して、列の一番後ろに立っていた男を指さした。 「君が降りたまえ。以上だ。残った者は人質になってもらう。奥の会議室に入って、指示に従うように」 「あの、僕たち」汗を拭いながら指名された男の一人が言った。「もう行ってもいいんでしょうか」  興味なさそうに少佐が振り向いた。 「命令に従え、と言ったはずだ」  退出を許可された男たちが、我先にとフロアの奥へ向かって走りだした。残った者たちの顔に目をやりながら、少佐が口を開いた。 「君たちが協力的であれば、問題は何もない。見張りはつけるが、何をしていても構わない。食事、飲み物、トイレなどについても配慮しよう。逃げようとしても無駄だということは、もう十分に理解したはずだ。我々の指示に従っていれば、最終的には必ず解放する」  迷彩服の男たちが機銃の先を振った。人質になった男たちが、諦めたような表情でぞろぞろと歩き始めた。その足音にあわせるように、少佐のポケットから金属音が鳴り出した。無線機を取り出して、ボタンを押した。 「私だ」 「ルークです」スピーカーから声が響いた。「二十階、二十一階、イーストエリア及びウエストエリア共に、全社員の退去を完了しました。また、二十二階、二十三階についても社員の排除が終了、残留者がいないことを確認したという報告がきております」 「結構。こちらも同様だ。人質については、予定通り会議室に閉じ込めている」 「了解しました。それでは必要な人数を残し、それ以外の人員はそちらに上がります」 「よろしい。計画通りに動いてくれ」  無線機をポケットに落とし込んだ少佐が、部下の一人に声をかけた。 「このフロアの最終確認をしてくれ。誰も残ってはいないと思うが」  命じられた男がうなずいて、エレベーターホール側のドアへ走った。ホールを挟んだ反対側のウエストエリアにある第二経理部でも、同じように社員の排除が終了しているはずだった。背負っているザックが揺れて音を立てた。  少佐が側に立っていた痩せた男の肩に手を置いた。この男だけは銃器類を持っていない。 「クイーン、君は今解放した社員たちを追って下に行け。彼らが十九階まで降りたことを確認したら、二十階の�ブレイン�に入り、防火扉を閉めること。エレベーターについては、即時運行を停止する。同時に電話の使用についても制限を設けるので、その準備をしておいてほしい」 「わかりました」  栄養失調の子供のような体型の男が、甲高い声で答えた。 「今から一時間後に最初の中継を行う予定だが、映像は大丈夫だろうな」 「彼らが手伝ってくれるでしょう」  男がアナウンサーの霧島とテレビクルーに目をやりながらうなずいた。問題はない、と少佐がまた腕の時計を見た。 「もうひとつ、各フロアにセットしてある爆発物の安全装置を解除しておくように。以上だ」  答の代わりに小さく敬礼して、クイーンが非常階段に向かった。入れ違うようにして、高級そうなスーツを着た恰幅《かつぷく》のいい三人の男が経理部フロアに入ってきた。背後に機銃を構えた迷彩服の男がいる。三人が両手を頭の後ろで組んだまま、落ち着かない様子で辺りを見回した。  三番目に入ってきた老人の顔は、くしゃくしゃに歪んでいた。目からは涙がこぼれている。股間が濡れているのは失禁のためのようだった。  よろしいでしょうか、と男たちを連れてきた迷彩服が呼びかけた。無言のまま少佐が三人の男に視線を向けた。 「テレビジャパン営業部取締役藤田専務、そして化粧品会社光生堂の渡辺社長、最後にテレビジャパン、森中久雄社長です」  顎に手をかけた少佐の眉がわずかに動いた。鬚をつまんだ。 「あんたら、いったい何やの。こんなことして無事に済む思うてたら、間違っとるで」  勢いよく怒鳴りつけた渡辺の口から唾が飛んだ。少佐が体を横にかわした。 「静かにしたまえ。彼が脅えている」  森中社長を指さした。老人がうつろな目で辺りを見ていた。すべての判断を停止した人間の目だった。 「とにかく、我々を解放してくれないか」藤田が一歩前に出た。「要求があるのなら、どんなことにでも従うつもりだ」  その言葉を無視して、少佐が煙草をくわえた。迷彩服の一人が藤田の肩に手をかけた。 「連れていけ」  少佐がカルティエのライターで煙草に火をつけた。      11 [#地付き]10:14AM  テレビジャパン六階の編成部大会議室では、七十二時間テレビの進行会議が始まっていた。特別番組編成のために、連絡事項は限りなく多い。編成部がメインだが、他部署からも担当者が参加している。八十人ほどが会議室の席を埋めていた。  鶴川義行は一昨年の七月に編成部長の要職に就いていた。入社十八年目、三十九歳の編成部長はテレビジャパン史上でも異例の若さだった。  視聴率の低迷が続き、民放四位の座に甘んじていた局としては大きな賭けだったが、鶴川は見事にその期待に応え、昨年後半の段階では数字を三位にまで上げていた。さらに年末年始特番ではサクラテレビに続く第二位の成績を上げ、この七十二時間テレビが高視聴率を取れば、一位も狙えるところまで来ていた。  熱気の籠もった会議室では、各部の担当者からの報告が続いていた。ひとしきり連絡事項の確認が終わったところで鶴川が立ち上がった。  テレビジャパンでは特番編成に際して、高視聴率を取った番組の関係者に報奨金を分配する制度がある。今回の七十二時間テレビに関しては、その金額が倍になると発表しようとした時、ノックの音がして大会議室の扉が開いた。 「部長、ちょっとよろしいですか」  顔を覗かせたのは、デスクの平井だった。無視して話し始めた。 「今回の七十二時間テレビには、テレビジャパンの社運がかかっている。社長からも直命が出ているが」 「いや、ちょっと、ちょっとよろしいですか」  会議室に入ってきた平井が、顔の前で強く手を振った。 「何かあったのか」  いらだたしげに顔を向けた。切迫したその様子に、会議室にいた社員たちが囁きを交わしていた。 「それが、よくわからないんですが」肩をすくめて、平井が半開きのドアを指した。「ちょっと……様子が変なんで」 「何なんだよ」  鶴川が顔をしかめた。ここからが重要なのに。お願いします、と平井がまた頭を下げた。  隣席にいた副部長の阿部に、連絡会議の進行を任せて立ちあがった。胸ポケットの携帯電話を確認してから、平井の後に続いて大会議室を出た。  編成部のテレビモニターの前に、大勢の社員が集まっていた。代理店や芸能プロダクションのマネージャーまでが溜まっている。鶴川は半身を差し入れて画面をのぞき込んだ。  画面は完全に固まっていた。アシスタントの女子アナウンサーが口を開けたまま、失語症になってしまったかのように、まばたきだけを繰り返している。カメラは一切切り替わることなく、その姿を映し続けていた。 「事故か」  鶴川の表情が歪んだ。テレビマンが一番恐れる事態は戦争でもテロでも身内の不幸でもなく、放送事故だった。 「いえ、違います」  若い女子社員が、あれを、と画面を指さした。ひと筋の涙がアナウンサーの頬を伝って落ちていくのがわかった。  つまり、画面は生きているのだ。だが、その後ろで特設セットに陣取っていた若手のお笑いタレントたちは、まったく動いていない。奇妙な映像だった。  部員の一人が、リモコンでモニターの音量を最大限に上げた。ノイズが高くなるだけだった。 「いったいどうなってるんだ」  鶴川が腕を組んだ。 「さあ、どうなっているんでしょう」  首を傾げた平井に、頼りにならない奴だ、と舌打ちをした。 「司会の霧島さんは?」  カメラは完全に固定されていた。司会者である霧島の姿は映っていなかった。 「いませんね」平井がモニターを見ながら答えた。「いつの間に消えたのかな」 「おい、誰か状況がわかる奴はいないのか」  いらいらとした鶴川の声に、居合わせた社員たちが下を向いた。 「まったく、番組ぐらい見てろよ」鶴川が組んでいた腕をほどいた。「誰か、副調整室に連絡してくれ。それからビデオだ。同録してるはずだな」  テレビジャパンでは自局だけでなくNHK、民放キー局五局の放送をすべて録画している。ただし、それは同じ六階の別セクションで行われていた。確認します、と平井が電話に手を伸ばした。  さっきからかけているんですが、ともう一人の編成部員が受話器を顎の下にはさんだまま言った。 「副調整室、鳴っているんですが誰も出ないんです」  大会議室にいた編成部員たちが、戻ってこない部長の様子を見に出て来た。何かが起きていることに気づいたのか、テレビモニターの前に集まってくる。  鶴川は自分の席からオンフックのまま副調整室の内線番号を押した。スピーカーからは呼び出し音だけが聞こえる。その音を二十回確認してから、部下を手招きした。 「何か起きてるようだ。芳野はスタジオの様子を見てきてくれ。大越は副調整室だ」  二人の若い編成マンが飛び出していった。 「部長、電話です」  叫んだ平井が受話器を振り上げた。嫌な予感を抱きながら、鶴川は電話に出た。 「鶴川です」 「総務の森下です。大変なことが起きています」 「そうだろうな」  答えながら受話器を耳から離した。森下の声のあまりの大きさに耳鳴りがした。同じ大学の後輩だから顔と名前は知っている。入社当時から、大声は有名だった。 「わけがわからないんですけど、いったいどうなってるんですか」 「お前の方こそどうなってるんだ」  電話機のディスプレイを見た。内線番号を示す四桁の数字が表示されている。1506。十五階から電話はかけられていた。 「何でそんなところにいるんだ。そこは総務部じゃないだろう」  総務部は二十一階なので、内線番号の頭には21がつかなければならない。森下は十五階、つまり厚生部か番組管理部、もしくは映画部から連絡をしてきていることになる。 「番組管理部にいるんです。どうしてかっていうと、その、追い出されたんです」 「追い出された? 誰にだ」  不安そうな表情の編成部員たちが部長席を取り囲んだ。全員に聞かせるために、鶴川は電話をスピーカーホンに切り替えた。 「わかりません」困惑しきっている森下の声が編成部中に流れ出した。「銃とか、武器をいっぱい持った男たちがいきなり入ってきて、僕たちを脅かして下に降りろって」  何を言ってるのかよくわからないぞ、と小声で鶴川が言った。 「酒でも飲んでるんじゃないですかね」  平井がうなずいた。 「本当なんですよ! 映画やテレビの話じゃなくて、今このテレビジャパンがあいつらに占拠されているんです」  森下の叫び声がフロアに響き渡った。 「あいつらって、誰だ」 「さあ」  相変わらず頼りない返事だった。 「もしもし、もしもし。聞いてるんですか」  森下の悲痛な声が聞こえたが、鶴川は無視して受話器を置いた。いったいどうなってる。何が起きているのか。モニターに目をやった。画面に変化はない。  いきなり編成部のドアが開いて、何人もの社員が飛び込んで来た。先頭にいるのは総務部の社員だった。目が血走っている。ワイシャツの首回りが汗でびっしょりと濡れていた。 「どうした」 「どうもこうも、上は大変なことになってますよ」  息を切らしながら男が言った。後ろからもどんどん編成部に人が入ってくる。 「待てよ、とにかく落ち着いて、状況を話してくれ」  座ったままの鶴川に、入ってきた男たちが口々に叫び始めた。何を言っているのかよくわからない。混乱に輪をかけるように、編成部のすべての電話がいきなり鳴り出した。 「何でこんな騒ぎになってるんだ」  鶴川が怒鳴った。電話を受けていた平井が額の汗を拭った。 「よくわかりません。二十階より上のフロアから逃げてきた社員からの報告なんですが、正体不明の集団がいきなり入ってきて、下に降りるように命令されたそうです」 「視聴者からの電話です。番組が中断しているが、どういうことだと抗議しています」  鶴川の目の前の席で受話器を取ったデスクの女性が、怯えたように叫んだ。 「十四階の広報から、就業中に他部署の社員が入ってきて騒いでいるが何があったのかと」 「東洋新聞の社会部からです。放送事故が起きているようだが、いったいどうなっているのかと言っています」  編成部員が総出で電話を受けては、内容を鶴川に伝えていく。まるで編成部がそのまま電話交換センターになったかのようだ。  テレビジャパンには、地震その他の災害や事故などが起きた場合、すべての情報を編成部に集約し、それを受けて放送内容を決定していくという災害マニュアルがある。今回、放送事故が一種の災害と見なされ、すべての問い合わせが編成部に集中したために電話が一斉に鳴り出したのだ。携帯電話も含めたさまざまな着信音で、隣にいる人間の声さえ聞こえないほどだった。 「どうすんだよ、これ」  あっけに取られながら、鶴川が大声を上げた。ドアが開いて、芳野と大越が戻ってきた。参ったよ、と電話機を指さした。 「取ってくれ。何でもないって説明するんだ」 「何でもありますよ、部長」神妙な顔で芳野が言った。「スタジオが占拠されてます。副調整室ではタレントのマネージャーが銃で撃たれていました」 「おい、そんなことあるはずが」 「いえ、本当なんです」大越がゆっくりとうなずいた。「今、救急車を呼んでいます。命に別条はないようですが」 「いったい何が始まったんだよ」  鶴川が頭を抱え込んだ。番組はどうなるのか。 「わかりません。とにかく、異常事態であることは確かです。こいつはやらせとか演出の類いじゃありません。番組も関係ないです」  大越の言葉に、他フロアから逃げてきた社員たちが、そうです、と口を揃えて叫んだ。 「わかった、とにかくこれは俺の手におえる話じゃない。阿部」鶴川が副部長を呼んだ。「俺は役員と話してくるから、情報をまとめておいてくれ。他部署の人間は、編成部から出るんだ。これじゃ対応も何もあったもんじゃない。ほかの部員は、何かあったら必ず副部長、もしくは各担当のデスクに報告するように」 「部長」  平井が受話器を持ったまま手を高く掲げた。 「なんだ、聞いてなかったのかよ。副部長に報告しろって」 「四番に犯人からです」  そう言って、平井が保留ボタンを押した。      12 [#地付き]10:17AM  体中が悲鳴を上げていた。  腰。肩。背中。足。体中の骨がぎしぎしと音をたてている。  死ぬってこんなに辛いことなのね。由紀子は呻き声を上げた。呼吸をするたびに、肺を太い針で刺されるような痛みが走る。  痛みの合間に、少しざわついた街の音が聞こえた。車が走っている。クラクションが鳴った。風の音もする。なぜだろう、とてもリアルに感じられた。  弱い冬の陽差しも、頬に触れる冷たい空気も、昨日の湿った雨の匂いも。まるで生きているようだ。いや、そんなことはあり得ない。なにしろあたしはビルの二十四階から落ちたのだから。転落した瞬間のことが脳裏をよぎった。  銃を撃った男。銃声。粉々に砕けたガラス窓。泣いていた純子。前を歩いていた太田課長。滑る靴。  そうだ、あたしは純子を助けようとしたのだ。腕を伸ばして、あの子のことを掴まえようとした。その時、足が滑ってそのまま窓から落ちた。後のことは何も覚えていない。  どちらにしても、百メートル以上の高さから落下したのだ。助かる人間などいるはずがない。あたしは死んだのだ。口の中に溜まっていた唾を飲み込んだ。ごくり、という音がした。  待って。  何か変だ。違和感を覚えて、由紀子は唇を噛んだ。死んだ人間はこんなことをするのだろうか。だいたい、人は死んでからも痛みを感じるものなのか。  閉じていた瞼をおそるおそる開いてみた。グリーンのプラスチック板の隙間から、きれいな青空が見えた。今朝、会社に来る時に見たのと同じ空の色。  体の上を滑るようにして、プラスチック板が落ちていった。ブラインド。目だけで左右を見渡した。  生きてる。あたしは生きている。でも、なぜ? あのとき、落ちたのは確かなのに。そして、あたしは今、どこにいるんだろう。  体を起こそうとした由紀子の唇から小さな叫びが漏れた。激痛。感電と似た衝撃が全身に広がった。ほんの少し力を入れただけなのに、体中を痛みが貫いた。声も出ない。  口だけで静かに呼吸を続けた。徐々に痛みがやわらいでいく。  何がどうなっているのかさっぱりわからないが、とにかく痛くても何でも今の自分がどうなっているのか把握しなければならない。動かなければ。  まず、手だ。手は動かせるだろうか。右手の人差し指に神経を集中する。素直に指が曲がった。  握ってみる。今度は開いてみた。動く。動かすたびに痛みが感じられるが、それでも右手は動くことがわかった。  次は左手だ。左手はどこにあるのだろう。片目だけ開いて、左手を探す。どこにも見えない。ゆっくりと頭を動かした。  それだけの動作で、首に電気が走った。ショックで目の前に火花が散る。少し時間をおいてから、もう一度試してみた。  なんとか首が動き始めた。自分の体ではないようだ。呼吸を停めたまま、首を回していく。  左肩が視界に入った。その先が見えない。どうなっているのだろう。落下の衝撃でなくなってしまったのだろうか。そんな馬鹿な。人形じゃあるまいし。  更に首を曲げた。限界まで曲げたところで、左腕のありかがわかった。自分の体の下敷きになっていたのだ。  慎重に体を持ち上げた。感覚がまったくない。体の左側に血液が流れ込んでいくのを、はっきりと感じ取ることができた。  肩の力だけで左腕を上に出した。真っ白になった指に赤みがさした。同時に痺《しび》れるような痛みが左腕全体を襲った。吐き気がしてきた。それでも耐えるしかない。  痺れが解けるのを待って両腕を動かしてみた。痛みはあるが、我慢出来ないほどではない。破れたシャツワンピースの袖をまくると、肘のあたりに大きな青痣《あおあざ》が出来ていた。  上半身を腕で支えて、体を起こした。右足が銀色に鈍く光る手すりの上に載っていた。ワンピースのスカート部分が、無防備に大きく開いていた。  左の袖が音をたてて破れたが、かえって手が動かしやすくなった。ねじれていた左の足首を、伸ばした腕で元に戻した。折れていないだろうか。爪先を振ってみた。痛みはそれほどでもない。慎重に両手で右の膝をはさんで、手すりから降ろした。  ようやく全身の自由を取り戻して、周りを見回せるようになった。自分がどこにいるのかを理解した瞬間、目眩《めまい》がした。  空中。  二十四階の窓から転落した由紀子は、作業を中断して停止していたガラス清掃のゴンドラに引っ掛かっていたのだ。あと三十センチずれていたら、そのまま地面に叩きつけられていただろう。  いきなり足が震えだした。立ち上がろうとしたが、痺れた足がバランスを崩して倒れた。その振動がゴンドラに伝わり、支えているワイヤーが耳障りな金属音をたてた。  ゴンドラを吊るしている四本のワイヤーのうち、建物と離れた側の一本が切れていた。左足の側にあるワイヤーも、つないでいる金属のネジが外れかかっている。落ちてきた由紀子を受け止めたときの衝撃で、頑丈に作られているはずのワイヤーが切れたのだ。  とっさに手すりをつかんだ。ワイヤーが一本切れているために、ゴンドラは傾いていた。その傾斜は僅かずつだが、角度を大きくしていた。 (ダイエットしておけばよかった)  今年三回目の後悔だった。慎重に立ち上がる。ゴンドラが大きく揺れた。建物と向かいあう形になった。目の前に大きなガラス窓があった。  ガラスさえなければ、フロアに飛び込んで行ける。二十センチも離れていないのだ。だが、ガラスは由紀子を拒むように、太陽の光を受けて輝いていた。  ガラスには大きな亀裂が入っている。転落した際、ゴンドラとぶつかった衝撃で出来たものだろう。  ガラスから目を逸らさずに、手探りでパンプスを脱いだ。下を見るのが恐かった。  握りしめたパンプスの踵を窓に叩きつけたが、亀裂は広がらなかった。逆に急な動きのせいで、ゴンドラがきしんだ。このままではワイヤーが保《も》たない。手すりを握りしめた左手の指が真っ白になっていた。  どうにもならないのだろうか。落ち着いて、お願いだから落ち着いて。パニックを起こして暴れ出しそうになる足を必死でなだめた。冷静にならなきゃ。  視野が極端に狭くなっていることに気づいた。このままではどうにもならない。今必要なのは勇気だ。こんなところで死にたくない。  膝を曲げて、重心を低くした。首だけを動かして、下に目をやった。足元を見てはいけない。なるべく遠くを見ないと。  テレビジャパン前の大通りを車が走っていた。通行人が豆粒のようだ。  何十人もいる。何百人かもしれない。大勢の人が歩いていた。誰か一人ぐらい、ここにあたしがいることに気づいてくれてもいいはずだ。 「助けて!」  大声で叫んだ。誰も見上げる者はいなかった。聞こえないのだろうか。夢中で立ち上がった。ぐらぐらする金属の手すりを握りしめて、もう一度大きく叫んだ。 「誰か、助けて!」  何も変わらなかった。柔らかい冬の陽差し。微かな風。  鈍い音と共にゴンドラが傾く。腰を抜かすようにして、由紀子はまた座り込んだ。視界の端にゴンドラのワイヤーが映った。支えている鉄枠の亀裂が、さっき見たときよりも大きくなっていた。  このままでは時間の問題だ。奇跡が起きて誰かがここにあたしがいることに気がついたとしても、救助が来るまでにゴンドラはワイヤーから外れて下に落ちてしまうだろう。  ガラス窓に向き直った。何としても、この窓を割らなければならない。それ以外に生き延びるチャンスはないのだ。でも、どうすればいいのだろう。  もう一度やってみるしかない。パンプスを使って、このガラスを割るのだ。そのためにはもっと近づかないと。手すりを掴んでいた指先に目をやった。真っ白だった。怖い。でもこの指を離さなければ、窓には近づけない。  一本ずつ指を外していく。まばたきをしていない自分に気がついた。怖い。死ぬのが怖い。死にたくない。  手すりから腕が離れた。棒状のパイプがぐらぐらと揺れている。そっと触れてみた。  ねじってみると、簡単に外れた。右手で持ち上げる。ずっしりとした重みが手に残った。パイプを逆手に持ってガラス窓を見つめた。これだ。  しっかりと足場を固めてから、由紀子はパイプを振り上げた。      13 [#地付き]10:20AM 「責任者と話したい」  スピーカーホンから男の声が流れてきた。編成部にいた全員が、部長席に近づいていく。鳴り続けている電話の音がうるさい。 「繰り返す。責任者と話したい」  周りの編成部員をぐるりと眺めてから、鶴川はハンズフリーのボタンを押した。 「編成部長の鶴川だ。そっちは」  内線表示のディスプレイを見る。2401。経理部からの電話だ。本当なのか。本当に、これは現実なのか。 「現在テレビジャパンは我々の制圧下にある」  威圧的な声が響いた。 「待ってくれ、何を言っているのかさっぱりわからない。スタジオを占拠しているのは君たちなのか」 「我々だ」  声が冷たく答えた。鶴川は左右を見た。不安そうな視線が交錯している。 「そっちはいったい誰なんだ。過激派か何かなのか」  鶴川の問いに、声は答えなかった。沈黙が続いている。どういうことでしょう、と囁く平井を睨みつけてから、もう一度口を開いた。 「何をしているのかわかっているのか。君たちがうちの社員を人質に取ったという報告が来ている。彼らは無事なのか」 「無事だ。我々の要求を君たちが受け入れる限りにおいては、だが」 「要求とは何だ」  質問を無視して声が続いた。 「我々は三十分ほど前、つまり九時四十五分、ここテレビジャパンのグランドスタジオ並びにその副調整室を占拠した。現在我々は二十階から二十五階までのフロアを完全に支配している。社員十数名と森中社長が人質になっていることを付け加えておく」 「社長?」  電話に向かって鶴川が怒鳴った。そうだ、と声が答えた。 「もうひとつ、女子社員の一人が二十四階の窓から外に転落した」 「待ってくれ、いま何て言った?」  すぐに調べろ、と小声で指示した。編成部員の一人がフロアの外へ走り出した。 「二十四階から女子社員が落ちただと? さっき人質は全員無事だと言ったじゃないか」 「彼女は人質ではなかった」  声が僅かに低くなった。鶴川は顔を上げた。 「本当なのか」  震える声で尋ねた。数人の女子社員が目を伏せた。いったい誰が落ちたんだ、とつぶやいた鶴川の近くで、経理部の中畑純子がこらえきれなくなったように泣き始めた。再びスピーカーから男の声が流れ出した。 「現在、二十階以上のフロアにいた社員が下に降りている。彼らの退去を確認した段階で、十階と二十階にある防火扉を下ろし、フロアを閉鎖する。つまり十階以上のフロアは、完全に我々の支配下に置かれる。状況は理解したか」 「わかった。しかし、君たちはいったいどういう目的でこのビルを占拠したのか。要求があるなら言ってほしい」 「それを話しても仕方がないだろう。君にはこの事件を解決する能力も権限もない。警察に連絡を取りたまえ」 「警察を呼んでいいのか」  不機嫌に唸《うな》った鶴川に、男が低く笑った。 「まだある。防火扉によるフロア封鎖と同時に、局内すべての電話を使用不能にする」 「そんなこと、出来るはずがない」  そうだろう、と同意を求めたが、デスクの女が首を横に振った。なぜだ、と言いかけた鶴川の耳に、男の声が響いた。 「君たちが�ブレイン�と呼んでいるシステムは二十階にある。従って電話はもちろんだが、局内の全機能はすべて我々の手中にある。そういうことだ」 「しかし、連絡はどうすればいい?」 「無論、この電話は別だ。連絡用にこの回線は生かしておく。内線の直通番号は、この0611だな」 「ああ。そっちは2401か」 「そうだ。我々は二十四階に人質を擁して立て籠もっている。なお、そちらから電話を掛けてきても対応は出来ない。警察その他外部と連絡を取る場合には、各自の携帯電話を使用するように。以上だ」  待ってくれ、と鶴川が叫んだ。このまま電話を切られてはどうにもならない。 「君たちは何をしたいんだ。要求があるんじゃないのか。金とか」  声は何も答えなかった。鶴川がデスクを平手で叩いた。 「金か? 金なんだな? 目的は」  返事はなかった。いったい何を考えているのか。意図がわからない。 「もう一度確認させてほしい。他の人質は無事なのか」  唐突に通話が切れた。見守っている部員たちの顔を見回してから、鶴川は警察に通報するために自分の携帯電話を取り出した。      14 [#地付き]10:21AM  お願い、割れて。  頭の上に構えた鉄パイプを握り直した。目の前のガラスが太陽の光を反射してまぶしい。構わずに力をこめて振り下ろした。  鈍い衝撃が腕に伝わり、反動で体が揺れた。ゴンドラをつなぐワイヤーが再び嫌な音をたててきしんだ。 (あとどのぐらい保つの?)  ワイヤーが切れるのが先か、それともあたしがガラスを割るのが先か。  目を見開いているためか、それとも緊張のためなのか、とめどもなく涙が溢れてきた。拭《ぬぐ》いたかったが、バランスが崩れるかもしれないと思うと余計な動きは出来ない。涙で視界を妨げられながら、由紀子はガラス窓を睨みつけた。  もう一度、パイプをゆっくりと持ち上げる。遠心力だけで叩きつけた。振動に反応して、ワイヤーが悲鳴を上げた。  喉の奥から叫び声が漏れた。抑えようがない。これは夢だ。悪い夢。そうに決まっている。  急に周りが暗くなった。いきなり夜? 違う、貧血だ。あたしはパニックを起こしかけている。圭の顔が浮かんで、すぐに消えた。 (助けて)  名前を呼んだ。お願い、何とかして。死にたくない。あなたの顔を見て、ちゃんとプロポーズの返事をして、結婚したい。せめて、もう一度会いたい。  混乱する意識の中、由紀子は目を開けた。金属の不協和音が耳に突き刺さってくる。厚さ十五ミリのガラスが行手を塞いでいた。亀裂が入っているとはいえ、ちょっとやそっとの打撃で割れるものではない。 (お願い)  馬鹿なことを考えている場合ではなかった。どうすればいい。どうすれば、このガラスを割ることが出来るのか。このまま今の体勢で鉄パイプをぶつけているだけでは、絶対にガラスは割れないだろう。  慎重に左手でワイヤーをつかんだ。斜めになっている足場から、ワイヤーにつながっているパイプの上に乗る。限界まで体を窓に近づけた。もう片方の靴も脱ぎ捨てた。伝線したストッキングのおかげで、爪先の踏ん張りが利くようになった。  そのままパイプを持ち上げる。思い切り力を込めて、ガラス窓にぶつけた。  確かな手応え。ガラスの亀裂が広がった。  だがその代償もあった。重い金属音と共に、ワイヤーが一本切れたのだ。水平だったゴンドラの足場が、いきなり垂直になった。脱いだパンプスがゆっくりと下へ落ちていく。  必死でワイヤーをつかむ左手に力を込めた。声も出ない。目が虚ろになっているのが自分でもわかった。  ワイヤーが切れるのは予測していた。そのためにパイプに乗ったのだ。端にいた由紀子が落ちることはなかったが、もう足場は一筋の棒でしかない。  さっきまで由紀子の体重を支えていたワイヤーが三本から二本に減り、まるであざ笑うかのような金属のきしむ音がはっきりと聞こえていた。  もう時間がない。揺れ動くゴンドラの上で、由紀子は自分の体がガラス窓に入った亀裂の部分に近づくのを待った。一秒が一分にも思える。いつ切れてもおかしくないワイヤー。闇雲にパイプをガラス窓に叩きつけたい衝動にかられた。 (でも、それじゃ駄目だわ)  運がよければ、それで割れるかもしれない。だが、ここまで来て運に頼りたくはなかった。亀裂が入ってもろくなっている部分に、もう一度打撃を加える。それなら、割れるかもしれない。少なくとも、その方が可能性は絶対に高い。  由紀子はゆっくりとパイプを振り上げた。そのまま、ゴンドラがガラス窓に一番近づく瞬間を待った。  長く待つ必要はなかった。近づいたタイミングに合わせて、ガラス窓の亀裂にパイプを打ち込んだ。  一度に二つのことが起きた。きれいにガラスが砕け散り、同時にゴンドラをつないでいたもう一本のワイヤーが切れた。  考えるより先に体が動いた。右足で思い切りゴンドラを蹴り上げる。そのまま窓枠に飛びついた。  どうやってフロアに入り込んだのか、後で考えてもどうしても思い出せなかった。気がつくと、冷たい床の上に座り込んでいる自分がいた。  緊張が解けたために、全身が震えている。両腕には無数の切り傷が出来ていた。割れたガラスで切れたのだろう。血が床にしたたり落ちていた。  化粧は剥げ落ち、落下の際に打ち付けた右の腿には大きな痣が出来ている。体中の関節が痛みを訴えていた。 (でも、生きてる)  震える体を抱きしめた。涙がフロアにこぼれ落ちる。声をあげて、由紀子は子供のように泣き続けた。      15 [#地付き]10:46AM  鶴川からの通報と相前後する形で、テレビジャパンが正体不明のグループによって乗っ取られた、という電話が何本も警視庁に入っていた。そのほとんどは、二十階以上のフロアから逃げてきた社員によるものだった。  悪戯《いたずら》の可能性を考慮した警視庁は状況を静観する構えを取ったが、銃で撃たれた男を収容した病院、さらにテレビジャパン内に置かれている交番からの連絡により、十時四十六分の段階で事件発生を正式に認知した。  その後の措置は迅速であり、所轄署の東京水上警察署に捜査本部を設置、直後に現場であるテレビジャパン六階編成部に前線本部を設けることを決めた。  その後入ってきた情報から犯人グループが銃器で武装していることが判明、また全員が迷彩服を着用していること、リーダーと目される男が�少佐�と呼ばれていることから、自衛隊退官者ないしは海外で傭兵《ようへい》経験があるのではないかという意見が捜査本部の中で強くなっていた。そのため動員計画は更に膨れ上がることとなった。  特殊急襲部隊《SAT》までもが緊急に招集される中、捜査の指揮命令が刑事部|特殊急襲部隊《SAT》の大島猛警視正に下ったのは、それから約三十分後のことだった。      16 [#地付き]10:56AM  十五人の男たちが、会議室の冷たいフロアに直接座らされている。閉じ込められてから、四十分が経過していた。  岡本圭は膝の間に顔を埋めながら、窓から落ちていった由紀子のことを考え続けていた。いったいどうしてこんなことになってしまったのか。 「おい」隣にいた役員の藤田が囁きかけた。「大丈夫か」  無視するつもりはなかったが、返事をする気力がなかった。何も言おうとしない圭の肩を、慰めるように藤田が軽く叩いた。  あの時、由紀子の唇がかすかに動くのを圭は見ていた。転落しながら、最後に叫んでいたのは圭の名前だった。どうして助けることが出来なかったのだろう。せめて手を伸ばすぐらいのことは出来たはずなのに。  深い悔恨が胸を締めつける。こんなことが起きるなんて。信じられない。  鼻水が床に落ちた。自分が泣いていることに、その時初めて気づいた。何も考えられない。両手で顔を覆った。あいつが死ぬなんて。そんな馬鹿な。嗚咽《おえつ》が漏れた。 「静かにしろ」  扉の前に立っていた迷彩服の男が銃口を向けながら命じた。だが圭は首を振り続けた。      17 [#地付き]10:58AM 「というわけだ」  受話器を置いた少佐が、椅子に浅く腰を下ろした。突発的な事態にも対応が利くように、やや前かがみな姿勢を取っている。電話をかける直前に会議室から迷彩服の男に連れてこられたアナウンサーの霧島が、デスクを挟んだ反対側で立ちすくんでいた。 「人質になった十二人に、君を含めて四人のテレビスタッフが加わった」  珍しい品種の昆虫を観察するように霧島を見つめていた少佐が、開いた両手の指を伸ばして突き合わせた。 「わたしたちを」震える声が霧島の口から漏れた。「どうするつもりですか」  さあ、と少佐が顎を電話機に向けた。 「それは彼らの問題というべきだろう」ゆっくりと体を起こした。「君に来てもらったのはほかでもない。相談がある」 「相談?」  意味がわかりません、と霧島が焦点の合わない目で相手を見た。  いったいどういうことなのか。相談なんてされたくない。早くみんなのところに戻してくれ。  何で俺だけがこんな獣のような男と話し合わなければならないのか。こいつらはどうかしている。狂っている。俺が対処できるような相手ではないのだ。  少佐が合図をした。すぐに迷彩服の男がパイプ椅子を運んでくる。足の震えが止まらない霧島の肩をつかんで、強引に座らせた。 「怯える必要はない」デスクに身を乗り出した少佐が話し始めた。「むしろ君たちにとっては非常に有意義な提案といえるだろう」  座ったままの姿勢で、霧島が顔を左右に振った。取り囲んでいる迷彩服の男たちが、装備の点検をしていた。重ねた手の甲に少佐が顎を載せた。 「君とテレビクルーの全面的な協力が必要だ。具体的にいえば、我々は今から一時間以内にこのフロアから声明を発表するつもりだが、放送に関して問題が生じないように準備を整えてほしい」 「そんなことは」  不可能です、と言いかけて霧島は口を閉じた。この男が言っている通り、二十階の�ブレイン�が彼らのコントロール下にあるのなら、カメラマンと音声がラインをつなぐことによって放送は十分に可能だ。そして彼らが六階の副調整室から連れてきたのは、まさにそのためのスタッフだった。 「君はカメラクルーに話して、セッティングの準備をさせたまえ。必要な機材は用意してあるし、私の部下も協力する。念のために言っておくが、君に拒否権はない。拒めば人質の誰かが死ぬことになる。だが我々はそのような事態を好んでいない。これはあくまでも相談であり提案なのだ」 「なるほど」  無意識のうちに霧島は目の前の机に手をかけた。自分が司会している番組でトレードマークにしているポーズだった。 「つまり、あなたがたには何らかの目的があり、それを訴えるためにテレビ局を占拠した。そういうことですか」 「その通り」 「そしてその主張を、番組を通じて放送しようと考えている」  迷彩服の一人が軽く手を叩いた。なるほど、そういうことか。霧島の足に感覚が戻ってきた。  この男たちは狂人ではない。いや、やっていることは狂っているかもしれないが、それなりに目的がある。話が通じないわけではなさそうだ。 「君たちから見れば、暴力的で強引なやり方に見えるだろう。その通りだ。ただ、これが最も効果的な方法なのだ、と我々は判断している」 「わかりますよ」  足を組んだ霧島が感情を込めて答えた。 「もうひとつ、君には番組の司会進行を務めてほしい。協力してくれるだろうね」 「司会?」  立ち上がった迷彩服の男が、霧島の前に薄いファイルを置いてすぐに退がった。開くと、そこには細かい文字が記された紙が数枚挟まれていた。 「質問は事前に用意してある。君はこの進行表に基づいて私を紹介し、質問をするのだ」 「つまり、わたしも出演するということですか」  そうだ、とうなずいた少佐が指を鳴らした。 「テレビジャックの犯人と、一対一のライブショーだ」声が低くなった。「こんな機会はめったにないと思うが、どうかな」  霧島はファイルを閉じた。  この男は狂っている。それは間違いない。だがこんなチャンスが二度と巡ってこないことも事実だ。  事件が解決すれば俺は一躍マスコミの寵児《ちようじ》となるだろう。子供の頃に見たあさま山荘事件を思い出した。視聴率は空前絶後の数字をたたき出すはずだ。 「君は損得勘定ができるはずだ。言っている意味はわかるだろう」 「ひとつだけ、よろしいでしょうか」  構わない、とうなずいた少佐が足を組み直した。 「協力さえすれば、わたしたち人質の安全は保証してもらえますか」 「つまらないことを心配しているんだな」少佐が外国人のように両手を肩まで上げた。「こちらの要求はひとつだけだ。なぜ我々がこのような行動を取るに至ったかを、日本中、あるいは世界中の人々に理解してもらいたい。それだけだ。君たちを傷つける意図など最初からない」  立ち上がった霧島が、控えていた迷彩服の男に声をかけた。 「テレビクルーをこちらに連れてきてもらえますか」少佐に顔を向けた。「わたしから話した方がいいでしょう」  飲み込みが早くて結構だ、と少佐が手を差し出した。その手を握りしめながら、霧島は微笑を浮かべた。      18 [#地付き]11:13AM  涙が止まらない。  由紀子はフロアに座りこんだまま、手の甲でまぶたを強く拭った。こんなにも人間は泣けるものなのだろうか。際限なく溢れ出す涙が、シャツワンピースの襟を濡らしている。  あれからどのぐらい時間が経ったのだろう。一分なのか、十分なのか、それとも一時間なのか。左手にはめていたエルメスの時計を見た。十一時十三分。 (ああ)  ため息が漏れた。文字盤のガラスに大きな傷がついていた。ゴンドラにぶつかって出来たのだろう。指でこすったが、傷は消えなかった。  今日まで二十九年生きてきて、一番高価な買い物だったのに。保険は利くのだろうか。いや、今はそれどころではない。由紀子は大きく首を振った。  服を確かめた。シャツワンピースの左袖が破れていた。背も大きく裂けている。これだって安くはなかった。剥き出しになった二の腕には血がにじんでいる。思い出したように、右の膝が痛みはじめた。  目の前に大きな段ボールの箱がいくつも置かれていた。窓に沿って並んでいるその箱に両手をついて、体を起こした。その拍子に派手な音をたてて袖がちぎれた。もうどうでもいい。  大きく裂けた裾をまくった。右の腿だけではなく左の膝頭にも、大きな青痣が出来ていた。 (ひどい)  全身を点検した。両方の腕と足に、無数の引っ掻き傷がついている。特に手のひらは血だらけだった。跡が残るかもしれない。またこぼれそうになる涙をこらえた。とにかく、あたしは生きている。それだけでも運が良かったと思わなければ。  ストッキングは破れ、穿いていないのと同じだった。靴もない。ゴンドラの上で脱いだことを思い出した。今頃パンプスは地上に落ちてしまっただろう。  散らばっているガラスの破片を注意深く避けながら歩きだした。とにかくここから逃げなければならない。一刻も早く下に降りて、助けを呼ばなければ。 (待って)  足が止まった。ここをこのままにしておいて、いいのだろうか。  あの迷彩服の男たちがフロアに入れば、散乱しているガラスの破片に気づかないはずがない。そして外のゴンドラを見れば、ここからフロアに入ったこともわかるだろう。どうにかしないと。  目の前にあった段ボール箱の端を破った。ちり取り代わりに使って、ガラスの破片を集める。そのまま割れた窓の外に捨てた。何度か同じことを繰り返すと、床の上がきれいになった。  それを確認してから、積まれていた段ボールの箱を肩で押して、窓際に移した。蓋をするような形になり、吹き込んでいた風が止まった。三つ並べた箱の上に、もう一段重ねた。  少し離れたところから見ると、穴は完全に隠れていた。割れているようには見えない。箱を動かさなければ、気づかれることもないだろう。  これでいいわ、とつぶやいて足を踏み出した。冷たい床の感触が素足に伝わる。ひと足ごとに右の膝と左の足首に痛みが走ったが、歩けないほどではない。  フロアを横切ってエレベーターホールに向かった。半透明のドアに顔を押し付けて辺りを見回す。誰もいない。ホールに出て、エレベーターのボタンを押したが、ランプはつかなかった。 (どうなってるの)  しばらくそのまま待ち続けたが、エレベーターが動く気配はなかった。階数を表示するデジタルの文字盤も消えたままだ。何度もボタンを叩いた。だが扉は開かなかった。エレベーターは停止している。 (階段)  エレベーターが動かなければ、非常階段で下へ降りるしかない。階段はエレベーターホールを挟んだ二つのフロアの両端にある。もう一度ドアを押して、さっき出てきたばかりのフロアに戻った。  未開封の段ボール箱が所狭しと置かれていることに、そのとき初めて気がついた。混乱していてわからなかったが、フロアにはデスクや応接セット、書類棚やコピー機、ロッカーや傘立てなど通常あるはずの備品が何もなかった。  デスクはドアの近くに三つだけある。あとはモニター用のテレビだけが、段ボールの梱包から解かれて台の上に置かれているだけだった。 (二十三階だ)  自分のいる場所がはっきりした。引っ越しが終わってから数週間経つのに、これだけ殺風景なフロアといえば二十三階しかない。  二十三階はコンピューターシステムの導入が遅れているので、しばらくの間空けたままにしておく、という総務からの連絡を経理部で受けたのは由紀子自身だった。  テレビのスイッチを入れてみた。画面に表情を強ばらせた女子アナウンサーの姿が映し出された。  しばらく眺めていたが、何も変わらない。テレビを消して、フロアの奥に進んだ。中から通路へ続いている小さなドアを開けて、非常階段へと向かった。  壁に手をついて体を支えながら進むと、通路の奥に鉄の扉があった。ロックはされていない。ドアノブを引いて重い扉を開ける。暗い階段を見下ろした。裸足のまま、ゆっくりと踏み出した。  段差がやや急なために、体重が足首にかかった。悲鳴が漏れそうになるのを堪えて降り続けた。老婆のような足取りで、ひとつ下の二十二階にたどりつく。扉には、庶務部と記されていた。  このまま一階まで降りていくのは難しい、と由紀子は腰に手を当てた。どうしよう。どうすればいい。 (そうだ)  このフロアの電話を使えばいい。とにかく誰でもいいから、外部と連絡を取ればなんとかなるはずだ。  扉を開けて通路に出た。右手のドアを押して、そのまま庶務部に入りこんだ。  ほとんど経理部と変わらない光景がそこにあった。整然と並んだデスク、コピー機、一定の間隔で並ぶパソコンのディスプレイ、個人用のキャビネット。  手近のデスクにあった電話を取り上げて、内線ボタンを押した。応答はない。発信音さえ聞こえなかった。外線ボタンを操作してみても、結果は同じだった。 (あいつらだ)  あの連中が電話を使えないようにしたのだ。ジャケットの男は、このビルを占拠したと言っていた。ということは、二十階の�ブレイン�も押さえたのだろう。  この新社屋へ移転したときの、森中社長の挨拶を思い出した。社内に置かれている数百台のモニターを通じて、社長は誇らしげにこう語った。 『テレビジャパン本社ビル、ゴールドタワーの特徴は、コンピューターによる集中管理システムにあります。番組制作はもちろん、社屋全体の維持に関する経費、つまり電気やガス、水道などの光熱費、電話や社内LANシステムなどの通信費、その他すべての経費が集中管理システムによって三〇パーセントも抑えられるという、画期的なインテリジェントビルなのです』 (あんたのせいで、えらいことになってるのよ、バカ社長)  由紀子は受話器を叩きつけた。エレベーターが動かないのも、電話が使えないのも、すべて�コンピューターによる集中管理システム�のせいだ。あの男たちはそれを利用したのだ。  どうしよう、やはり自分の足で降りるしかないのだろうか。机に直接座り込んで、左の足首に手を当てた。腫れてはいないが、歩き回ったために鈍い痛みが広がっていた。  下まで歩いて行けるだろうか。行けないことはないだろう。ゆっくり歩けば何とかなる。  だが、もし途中であの連中に出くわしたら、この足で逃げきれるとは思えない。すぐに捕まって、何もかもが終わってしまうだろう。考え込む頭の上で、庶務部のプレートが揺れていた。 (そうだ)  足首の痛みも忘れて由紀子はデスクから飛び降りた。ここは庶務部だ。ということは、安原英美がいる。  英美は由紀子の同期だったが、社の内外を問わず男性からの人気が高く、�歩くフェロモン�と呼ばれていた。あまりに男性からの誘いが多いために、彼女は携帯電話を三台所持していた。  一台は常に持ち歩いているが、残りの二台が会社のデスクに放り込まれていることは女子社員なら誰でも知っている。あれで外部と連絡を取ればいい。  探すまでもなく、英美のデスクはすぐに見つかった。名前が書いてあるわけではないが、ピンクのハローキティグッズが山のように載っている机は一際《ひときわ》目立った。引き出しを開けると、メーカーの違う携帯電話が二台転がっていた。 (英美ったら、なんてあんたはいい娘《こ》なの)  携帯電話を抱き締めた。英美、みんなはあなたのことを悪く言うわ。男の人に人気があるのを鼻にかけていい気になってる。まるでキャバクラ嬢のようだ。結局は遊ばれて終わりなんだよ。  いろいろ言われているけど、でもこれからは違う。あたしはあなたの味方よ。だって、あなたはあたしの命の恩人だもの。  ローズピンクの携帯電話を取り上げた。液晶画面には何の表示もない。電源のスイッチを入れた。画面に現れたのは「ダイヤルロック」という文字だった。  ロックを解除する暗証番号がわからなければ、この電話は使えない。どうせ誕生日に決まっているが、同期とはいえランチも一緒に食べたことのない英美の生まれた日など、わかるはずがなかった。  もう一台、スケルトンタイプの電話機を開いた。今度は問題なく画面が浮かび上がった。通じる。電話がかけられる。  叫び声をあげそうになる自分を抑えて、自宅のダイヤルを押した。呼び出し音が二回鳴ったところで、合成音が聞こえた。 「バッテリーがありません。充電してください」  そのまま声が途絶えた。画面には何も表示されていない。思わず由紀子は持っていた携帯電話を床に叩きつけた。  何を考えてるのよ、あの女。今度会ったらただじゃおかないから。  その時、扉の向こうでかすかな足音がした。反射的にロッカーの陰に隠れた。すぐにドアが開いた。片手で銃を持ち、重そうなザックを背負った男が入って来た。  由紀子は音をたてないようにロッカーの扉を開いて、そのまま中に入り込んだ。 [#改ページ] [#小見出し]  Part2 TV JACK[#「Part2 TV JACK」はゴシック体] (二月十四日金曜日 午前十一時二十七分〜午後二時二十九分)      1 [#地付き]11:27AM  桜田門警視庁庁舎の地下駐車場で、一台のパトカーがエンジンをふかしたまま停まっていた。運転席の制服警官が、落ち着かない様子で辺りを見回している。  助手席に座っていた小比類巻警視は、備え付けのデジタル時計に目をやった。十一時二十七分。 (遅い)  顔を上げた。フロントグラス越しにエレベーターが見える。待機を命じられてから、二十分が経っていた。  既に事件が発生したテレビジャパンには、捜査一課を中心に編成された捜査陣が向かっている。テレビ局が占拠されるという異常な状況下、刑事部、警備部などからスペシャリストが招集されていたが、捜査の主軸は特殊捜査班であり、指揮を執るのは大島猛警視正と決定していた。指揮官がいなければ、現場は動きようがない。 「どうなってるんだ」いらついた声を上げた小比類巻が車から降りた。「遅すぎないか」  うなずいた制服警官がダッシュボードに手を伸ばした時、無線が耳障りな音をたてた。割れた声が、今降りていく、という意味のことを言っているのが小比類巻にもわかった。  待つほどもなく、エレベーターのライトが点灯して、扉が開いた。駆け寄った小比類巻が敬礼した。 「こちらです」  降りてきたのは太り過ぎた小学生のような男だった。百六十センチ足らずの身長、ズボンのベルトの上に乗った巨大な腹。四十四歳だが、予備校生といわれてうなずく人間もいるだろう。丸い顔に人の好い笑みを浮かべている。  百八十センチを優に超える小比類巻が見下ろす形になるが、本人は気にしていないようだった。これを、とたすきがけにしていた大きな赤のバッグを差し出した。 「よろしく頼む」  低いが、それでいて明瞭な声で言った。深い森の中の静かな湖を思わせる声だ。  大島には交渉人として天性の資質があった。有能な精神分析医のように他人の心を察知する能力、高度な論理性、豊富な語彙、そして説得力。  だが何よりも重要なのはその声質だった。深く落ち着いた声音は、経験の深い舞台俳優に匹敵する。�神の声�と警視庁内で異名を取るその声こそが、大島にとって最も強力な武器といえた。  ずっしりと重いそのバッグを小比類巻が受け取った。怪訝な顔になった。 「資料なら用意してありますが」  ゴールドタワー、そして隣接するプラチナタワーの設計図などは既に手配が済み、捜査官たちの手にも渡っている。いや、と大島が首を振った。 「コントレックスだ。向こうにないと困る」  小比類巻がバッグのファスナーを小さく開けて中を覗いた。透明なペットボトルが十本ほど詰め込まれていた。 「こんな日に限って売り切れててね」歩きだした大島が唇を尖らせた。「買いにやらせたら、間違ってボルヴィックを総務課が持ってきて、それで遅くなった」  ボルヴィックだぞ、と大島が吐き捨てた。ため息をついた小比類巻が、パトカーの後部扉を開けた。  二年前、三十五歳の時に警備部から刑事部に異動を命じられた。特殊捜査班に配属されてからは、一貫して大島の下で働いている。一風変わった上司の性格は心得ていた。育ち過ぎた子供のような外見にもかかわらず、捜査に関しては天才的な能力を有していることも。ただし、捜査以外の能力には著しく欠けていることも。 「ボルヴィックなんて」乗り込んだ大島がつぶやき続けている。「信じられるかね、君。まったく、総務課は体質まで軟水じゃないのか」  そうですね、と相槌を打った小比類巻が助手席に座った。いちいち真剣に取り合っていては身がもたないことは、経験からわかっていた。  行ってくれ、と運転席の制服警官に命じた。ハザードを点灯させたまま、パトカーが出口を目指してゆっくりと進み始めた。      2 [#地付き]11:32AM  フロアに入ってきた男が後ろ手に扉を閉め、銃を腰のところで構えたまま辺りを見回した。二メートル近い巨体だった。  全身の筋肉が盛り上がっている。迷彩服を突き破りそうだ、と由紀子は思った。背中に重そうなザックを背負っているが、前屈みの姿勢はゴリラを連想させた。  男が銃を肩に担ぎ直した。胸のポケットから煙草の袋を取り出し、一本抜き取って口にくわえた。バーナー式のライターで火をつけて、深々と煙を吸い込んだ。  驚くほど大量の煙が口から吐き出された。煙草の半分が灰になって、床にこぼれ落ちる。人間とは思えない肺活量だった。  くわえ煙草のままで、フロアの中央をゆっくりと歩きだした。由紀子の隠れているロッカーの前を通り過ぎていく。 (お願い、こっちを見ないで)  体が緊張で強ばる。心臓が早鐘のように鳴った。ロッカーの小窓から見える男の歩調は変わらない。まっすぐに歩いている。  急に立ち止まった。床にかがみこむ。 (ああ)  思わず目を覆った。どうしてあんなところに携帯電話を捨ててしまったのだろう。  拾いあげた電話機を見つめていた男が、左右に顔を向けた。呼吸が止まった。  新しい煙草に火をつけた男が、ポケットに携帯電話を落とし込んだ。また歩きはじめる。不意に振り向いた。ロッカーに視線が向く。震えだす足を必死で抑えた。  しばらくそのままロッカーを見ていたが、ひとつ首を振ってそのままエレベーターホールへと歩を進め、扉を開けて庶務部から出て行った。  扉が閉まる音を確認してから、由紀子は溜めていた息を思い切り吐いた。ロッカーの金具を握りしめていた左の手が固まって動かない。あまりに強く掴んでいたため、手のひらに跡がついていた。  音をたてないようにして、そっとロッカーから出た。このままここにいたら、いつかは見つかってしまうだろう。  男が入ってきた扉から外へ出た。通路の奥はさっき降りてきた非常階段だ。急な階段が続いている。階段は途中で二つに折れていて、踊り場の奥に男性用と女性用のトイレが並んでいた。迷わず女子トイレの個室に入った。  緊張が解けた体が、一気に震え始めた。両肩を抱きしめたが、震えは収まらない。目をつぶった。  あの男はこのフロアを見張っているのだ。少佐と呼ばれていた男は、このビルを占拠した、と言っていた。それが本当なら、庶務部にいた人間はみんな強制的に退去させられたはずだ。  つまり、あのゴリラ男はフロアに社員が残っていないかを確認している。そしてもうひとつ、警察が外から入ってこないかどうかを見張っているのだろう。 (もしそうだとしたら)  由紀子は考え続けた。あの男はイーストエリアと、エレベーターホール、そしてウエストエリアの三カ所を往復することになる。いったいいつ戻ってくるのか。三分後。五分後。それとも十分後か。  待って。落ち着いて考えよう。便座に腰を下ろした。  あたしがこのフロアに入ってから、どれぐらい時間が経っただろう。電話で外部に連絡しようとしたり、英美の携帯電話を探したりで、少なくとも五分以上はいたはずだ。  ワンフロアがいくら広いといっても、往復してエレベーターと階段を確認するのに、五分もかかるはずはなかった。あの男は他の階も見て回っているに違いない。この上の二十四階か下の二十二階、もしかしたらその両方ともを一緒に見張るのがあの男の任務なのだ。  とすれば、あの男がここにもう一度戻ってくるまで、最低でも五分はかかる。実際には五分きっかりということはないはずだ。もう少し余裕はある。どうしよう。どこへ逃げよう。  そこまで考えて、男が上の階へ昇ったのか、下の階へ降りて行ったのかがわからないことに気がついた。二つ以上のフロアを見張っていることは間違いないだろうが、今男がいる位置がわからなければ逃げようがない。  上に逃げても、そこに男がいたらそれで終わりだ。もちろん下でも同じことになる。どちらへ行っても確率は半々だ。  あやふやな勘で逃げて、そのまま逃げ切れるものだろうか。そして逃げたとしても、圭のことはそのままになってしまう。それでは何の意味もない。どうすればいいのか。  落ち着いて。お願い、落ち着いて。  考えるのよ。由紀子はもう一度自分の体を両手で抱き締めた。三つ数えてからゆっくりと息を吐いた。  戦って勝てるはずはない。ヘビー級のボクサーと戦うようなものだ。確かに、あの男はあたしの存在にまだ気がついていない。でも、たとえ後ろからバットで殴ったところで、倒せるかどうかは疑問だった。体力の差がありすぎる。力でどうにかなるものではない。  どうしよう、このままずっとここに隠れていようか。いや、そんなわけにはいかない。いつかは見つかってしまうだろう。  由紀子は傷のついた腕時計を見た。トイレに隠れてから、もう三分は経過している。あと一分、一分だけ考えよう。  何だろう。何か、あの男にあたしが勝《まさ》っているものはないだろうか。  唯一あるとしたら、あたしがこの建物についてよく知っているということだ。だって、あたしはここで働いているんだもの。  何がどこにあって、どっちに行くとどうなっているのか、ドアの位置、デスクの配置、コピー機やキャビネットの場所、どこに何があるか、あたしにはよくわかっている。  もちろん、それぞれのフロアによって、部や課の違いはあるけれど、フロアの造り自体は同じだし、働いている人間のことも知っている。それだけがあたしにとって有利な点なのだ。  由紀子は考え続けた。      3 [#地付き]11:45AM 「十五分以内に現着の予定です」  ヘッドセットを着けたまま、助手席の小比類巻警視が振り向いた。後部座席に座っていた大島猛警視正が、そう、と他人事《ひとごと》のようにうなずいた。窓外に流れていく景色を無心に見つめるその姿は、初めて電車に乗った子供のようだった。  高速道路は空いていた。サイレンを鳴らしながら、パトカーは走り続けていた。大島の短い手足と不釣り合いなまでに大きい頭が、反対車線を走る車とすれ違うたびに揺れている。 「現場は……どうなってる?」  大島が右手に持っていたミネラルウォーターをひと口飲んだ。視線は外に向けられたままだった。 「既にテレビジャパンの社員は、必要最小限の人数を残して退避しています」  小比類巻の喉が低く鳴った。大島が長い説明を好まないことは、経験上わかっていた。 「六階編成部に前線本部を設けました。本庁及び捜査本部の置かれている水上警察署との双方向通話が可能になったと、さきほど報告が入っています」 「スタッフは」  警視庁捜査一課特殊捜査班で誘拐、ハイジャックなどの事件を専門に担当している大島は、三年前アメリカFBIにおいて半年間の研修を受けていた。現在その導入が進められている犯罪交渉人制度は、システム構築にあたってFBIのノウハウをそのまま踏襲している。使用する専門用語も同じだった。 「警備、監視、通信、広報、管理、その他スタッフも現着しています」  テレビ局が占拠されているという状況は、政治的な意味でも非常に危険性が高い。過激派などによるメディア操作は政府にとって最も忌避すべき事態だった。  警視庁は、第一、第二方面本部を中心に大規模な動員計画を立てるように命じていた。テレビジャパンの前線本部だけでも二百名、本庁の捜査指揮本部、周辺警備、水上署の捜査本部に詰める捜査官まで合わせると二千人態勢になる予定だった。 「二十四階の状況は」 「ヘリコプター二機によって目視を続行中ですが、太陽光がガラスに反射しているため、内部の様子は確認出来ません。また、排気ダクトを通じてCCDカメラを通そうとしていますが、ちょっと距離があり過ぎてこちらもなかなか」  自分の責任であるかのように小比類巻が短く刈った頭を掻いた。足を組み直した大島が、また水をひと口含んだ。  このような事件では、何よりも立て籠もった犯人の状況を知る必要がある。そのために、通常はCCDカメラを使って建物内の撮影を試みるが、今回の場合防火壁で閉ざされている十階から二十四階までは約九十メートルあり、それだけの距離を届かせるケーブルの用意が特殊捜査班にはなかった。 「想定外だからな」大島がミネラルウォーターでうがいをした。「今後は高層ビル犯罪への対処を考える必要が出てくるだろう。しかし、問題は今だ。さて、どうするかな」 「社内の監視カメラも、犯人の手によって操作不能です」  小比類巻が言った時、無線が鳴った。運転している警察官が現在位置を伝える。芝公園の出口を通り過ぎたところだった。 「現在、SATが待機しています。彼らが二十四階へ突入出来る状況になれば、急襲して犯人グループを制圧、人質の奪回も可能と考えてはいるのですが」  小比類巻の声がだんだんと小さくなっていった。犯人たちが閉鎖した十階及び二十階の防火扉は完全耐火構造になっており、突破することはほとんど不可能という報告が届いていた。 「いや、問題は二十四階ではない。二十階のコンピュータールーム、つまり�ブレイン�だ」  大島が太い指の関節を一本ずつ鳴らしていった。左手の小指だけが鳴らなかった。顔面が真っ赤になるほど力を込めて指を押さえると、かすかな音がした。満足そうに唇の端を上げた。 「ビル全体を管理している�ブレイン�が、奴らによって押さえられている。これがすべての鍵だ。どうすれば二十階に潜入出来るか。事件解決はそこにかかっている」  その通りですが、と小比類巻が声を潜めた。 「防火扉を開くためには�ブレイン�を押さえなければなりません。しかし�ブレイン�に入るためには防火扉を突破しなければならないわけです」 「卵が先か、鶏が先か、だな」肩をすくめた大島が窓の外を見つめた。「では視点を変えてみよう。他に可能性は」 「テレビジャパンの屋上にはヘリポートがあります」設計事務所から取り寄せたゴールドタワーの図面に目を通していた小比類巻が一点を押さえた。「ヘリコプターでSATを降下させてはどうでしょう」  難しいだろうな、と大島がオートウインドウのボタンに触れた。常に体のどこかを動かしている。交渉人としての能力は他に類を見ないほど大きいものがあったが、それ以外の部分では奇矯な言動が目立つ男だった。 「奴らも馬鹿じゃない。屋上に見張りぐらい置いているだろう」  では、と小比類巻がまた図面に目をやった。 「例えばですが、隣のビルからロープを張って突入部隊を渡架させるというのはどうでしょうか」  テレビジャパン新社屋のゴールドタワーは、隣接しているワールドメガバンク極東本社が入っているプラチナタワーとツインビル構造になっている。ビル間は六メートルに過ぎない。  自衛隊のレンジャー部隊なら十分に渡れる距離であり、もちろんSATにとっても不可能ではなかった。そのための訓練も積んでいる。 「だが、それはロープを渡せるとしての話だ。残念ながら、向かい合う二つのタワーには窓がない」  大島の指摘に小比類巻が図面を見直した。確かにビルの壁面に窓を示す表示はなかった。  ペットボトルを手にしたままの大島は資料を見ていない。にもかかわらず、図面を見ながら話している小比類巻よりもビルの構造を把握していた。  資料に一度目を通しただけで、細部まで完璧に記憶する大島の能力には定評がある。視覚した場面や映像をほぼ瞬間的に記憶、再現できる能力、いわゆる直観像素質者としても、また特殊捜査班きっての交渉人としても、大島警視正は半ば伝説的な存在だった。 「可能性があるとすれば屋上だけだが、さっきも言った通りだ。発見されれば人質に危険が及ぶだろう」無表情のまま大島が続けた。「SATはサーカスではない」 「現在レインボーブリッジを通過中」運転していた警官が小声で無線に呼びかけた。「あと五分ほどで大島警視正が到着します」  確かに、と小比類巻が首を捻った。 「では、どうすれば」  いくつか考えられることはある、と大島が目をつぶった。指がワイシャツのボタンに触れた。 「ひとつはエレベーターのシャフトを通じて昇っていくルートだ。ただしこれはエレベーターの現在位置による。SAT隊員の行動が阻まれるような位置に停止していたらどうにもならない。もうひとつは�ブリッジ�だ」 「ブリッジ?」  小比類巻が視線を走らせた。 「よく見てくれ。八階、十六階、そして二十五階の非常階段部分にブリッジと記されているはずだ」  言われるまま図面に目を向けた。大島が言った通り、三つのフロアに英語で Bridge という文字が破線で囲われていた。 「アメリカの貿易センタービル事件を例に出すまでもなく、高層ビル災害は消防や軍隊でも手がつけられない。高層階では逃げることさえ不可能な場合も多い。ただツインタワー設計の建物なら、このブリッジを備えることで隣のビルに逃げ込むことが出来る」  最新の建造物にはこの工法が取り入れられている、と大島が説明を加えた。美観を損ねるという理由で平常時にはビル外壁に格納されているが、非常時には互いのビルから橋を架けることが可能になっている。 「正確には八階と九階、十五階と十六階、二十四階と二十五階の間にある踊り場の外壁に備えられているのだがね」 「破線で示されているのはそういう意味ですか」小比類巻がうなずいた。「では、この橋を渡ってSAT隊員を二十五階に行かせることが出来れば」  しかし、このブリッジもまた�ブレイン�が管理している、と口元を曲げた大島が、ひとつずつ上から外したワイシャツのボタンを、再び下から嵌《は》め直し始めた。考える時の癖だった。 「火災などが起きた場合には、互いのビルの�ブレイン�から連絡が入り、それを受けた消防署が特殊信号を送ることで橋が架かる。逆に言えば、�ブレイン�からの要請がない限り橋は降りない」 「では、どうすれば」  肩を落とした小比類巻がバックミラー越しに大島を見つめた。まだわからない、と大島もミラーを通して首を振った。  パトカーがレインボーブリッジから一般道に降りた。強風に煽られて車体が揺れる。無線が鋭く鳴った。 「テレビジャパンの前線本部から入電です。至急ということですが」  運転席から警官がわずかに首を曲げた。うなずいた大島が手を伸ばしてマイクを取った。 「私だ」 「栗原です」  割れ鐘のような声が車内に響き渡った。先発して現場の統括をしている栗原警部だった。 「犯人から連絡です。責任者を出せと言っていますが、どうしますか」 「もちろん話す」迷いなく大島が答えた。「回線をつないでくれ」  了解、という声にノイズが混じった。すぐに、聞こえるか、という低いがはっきりした声が流れてきた。 「責任者だな」  そうだ、と大島が答えた。小比類巻と話していた時より、わずかだが声に威厳が込められている。強い意志を示す声音だった。 「私は警視庁特殊捜査班の大島だ。本件の責任者と考えてもらって構わない」  君が少佐か、と付け加えた。 「そういうことだ、大島警視。いや警視正かな」 「ずいぶんと警察の階級に詳しいようだ」大島が爪を噛んだ。「まさか、警察関係者じゃないだろうね」  馬鹿な、と少佐が吐き捨てた。 「それは失礼した」  マイクを握り直した。交渉人の言葉は棋士にとっての指手《さして》と一緒だ。一度指した手は変えられない。交渉において�待った�は許されないのだ。  考えこんだ大島の指が、ワイシャツの前ボタンをすべて外した。白いランニングシャツが露《あらわ》になる。ゆっくりと口を開いた。 「まず人質が無事かどうか、それを確認したい」 「もちろん問題ない」男の笑い声が響き渡った。「我々を粗暴犯と考えてもらっては困る」 「安心したよ、少佐」  感情を込めて言葉を返した。相手の出方次第で違う仮面をかぶるのも、交渉人にとって必要な資質だった。 「彼らの安全が保証されている限り、私は君たちの味方だ。まずそのことを知っておいてもらいたい」  わかっている、と少佐が答えた。 「交渉人の役割はそういうものだ」  大島が顎に手を当てた。既に分析は始まっていた。  優秀な交渉人なら、声を聞いただけで相手の年齢、出身地、育った環境、知性はもちろん、現在の心理状態まで把握することが出来る。可能な限り会話を長引かせ、情報の精度を高めるのが交渉人としての常套手段だったが、この場合その必要はない、と大島は判断していた。相手がプロフェッショナルであることは明らかだった。 「それでは尋ねるが、何か要求はあるのか」  ワイシャツの前をはだけたまま、ジャケットのボタンを上から掛け始めた。ピアニストのように指が忙《せわ》しく動き回った。 「無論ある。だがそれについては、三分後のテレビジャパンを見てほしい」 「テレビ?」  予想外の答だった。車に搭載されているモニターに目をやる。走行中でも画像を見ることが可能なように改造が施されていた。  画面ではアナウンサーがひっきりなしに口を動かしていた。ボリュームを、と手で指示した。小比類巻がリモコンで音量を上げた。  六階のグランドスタジオは、しばらく前に解放されていた。人質は全員降りてきている。占拠していた犯人たちは二十四階に上がった、という報告を大島は受けていた。  テレビジャパンはそのスタジオから緊急に生中継を始めている。�ブレイン�が犯人によってコントロールされているため、他のカメラはすべて使えなくなっていた。 「テレビを見ていればわかる。私は生放送で要求を伝える」 「なぜそんなことを」 「三分後だ」  唐突に電話が切れた。大島は腕の時計に素早く目を走らせた。十一時四十五分。アナウンサーが繰り返し同じ原稿を読み続けている。 「現在テレビジャパンは、正体不明の武器を所持した男たちによって占拠されています。テレビカメラが犯人によって固定されているために、この位置での放送しかできないことをご了承ください。繰り返します、本日午前九時四十五分頃、テレビジャパンに……」 「何が目的なのでしょう」  小比類巻が首を傾げた。座り直した大島が肩を揺すった。茶色のネクタイがすっかりよじれている。  バックミラー越しに、運転席の警官が驚きの表情を浮かべたまま見つめていた。ジャケットのボタンを外した大島が、はだけたワイシャツを直し始めた。 「とりあえず、テレビを見よう」  ボタンをひとつ掛け違えていた。舌打ちをして、最初からやり直し始める。 「本部、間もなく大島警視正が到着します」  台場駅を通り過ぎたところで、警官が無線で報告した。野次馬と殺到した報道陣がテレビジャパンを取り囲んでいるのが、大島と小比類巻にもよく見えた。 「想像以上だな」  つぶやいた大島がペットボトルに口をつけた。      4 [#地付き]11:48AM  テレビジャパンの二十四階では、テレビクルーが忙しく立ち働いていた。少佐が受話器を置くのを待って、カメラマンが指で輪を作る。二十階の�ブレイン�とカメラの接続が完了した、という意味の合図だった。 「ライン、つながりました」  機材を頭上に高く掲げたまま怒鳴った。ヘッドホンに耳を当てていた音声担当の男がマイクスタンドの位置を直した。  カメラを回す、という職業意識が彼らの動きを機敏にしていた。二十階の�ブレイン�では、クイーンが放送の準備をしている。少佐が手を叩いた。 「準備は整ったようだな。そろそろ始めよう。カメラを切り替えてくれ」  指さしたモニターには、青い顔で状況を説明しているアナウンサーの姿が映っている。わかりました、とうなずいたカメラマンが、無線で�ブレイン�に指示を送った。時計を見ていた少佐が霧島に声をかけた。 「三分経った。君のタイミングでキューを出したまえ。あとは打ち合わせ通りにすればいい。では始めよう」  霧島は大きく息を吸った。ゆっくりと吐き出しながら、指定された椅子に座る。少佐がテーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろした。  少佐の背後の窓から、レインボーブリッジを通過している車と、きれいに晴れ上がった空が見えた。もう一度深呼吸した。緊張で口から心臓が飛び出しそうだった。マイクを握り直した。 「では、それぞれ問題なければ」  カメラ、音声、照明と、順番にカメラクルーの表情を見た。強ばった顔が並んでいる。 「始めましょう。五秒前」 �ブレイン�でスイッチャーを務める少佐の部下のために、カウントを数え始めた。マイクからの声は、そのまま�ブレイン�のスピーカーに流れるようにラインがつながれていた。  いきなりモニターの画面が切り替わった。暗い目をした霧島の顔が大写しになる。 「突然ですが、ここで現場からの映像をお伝えします。テレビをご覧になっている皆さんもご承知の通り、本日午前十時頃、ここテレビジャパンが、武器を持った正体不明の集団に襲われました。その後犯人グループは私たちテレビジャパンスタッフをこの二十四階に拉致しました」  カメラが霧島の顔からパンする。照明マンと音声マン越しに、二十四階の窓から見えるレインボーブリッジを映し出した。 「現在、テレビジャパンはその機能のほとんどを彼らに掌握されており、特に二十階から二十五階までは完全にその支配下にあります。私たちテレビスタッフ、そして総務部、経理部の社員合わせて約十五人が人質として捕らわれている、というのが現在の状況です」  言葉に合わせるようにカメラが部屋の中に戻り、霧島の顔を再びアップにした。 「そして、ただいま犯人側からテレビの画面を通じて警察関係者と連絡を取りたい、という要求がありました。これは私が記憶している限り、かつてなかった事態です。つまり、テレビ局をジャックした犯人による生中継が始まろうとしているわけです。機材等、不備な部分もございますので、音声その他に問題が発生することもあるかと思われますが、ご了承ください」  そこまで一気に喋っていた霧島が、息を整えるために初めて間を入れた。 「それでは、犯人グループのリーダーである�少佐�に話を聞いてみたいと思います」  カメラが霧島の顔からゆっくりと動いて、少佐を正面から捉えた。厳しい表情でカメラを見つめるその姿には、冒し難い威厳があった。濃い茶色のサングラスと顎の周りにたくわえた鬚がその印象を強くしている。  座り直した少佐がサングラスに手を当てて合図を送った。霧島が質問を始めた。 「さて少佐、いや、その前に�少佐�とお呼びしてもよろしいのでしょうか」  構わない、と少佐が淀みなく答えた。 「それでは少佐、まずあなた方はどのような集団なのでしょうか」渡された資料を手元に引き寄せながら霧島が尋ねた。「政治的なグループなのか、それとも少佐という呼び名から考えて、軍事的なグループ、あるいはいわゆる過激派と呼ばれるような存在なのでしょうか」 「我々の理念については、この中継の過程で話す機会もあるだろう」低いが、それでいて透明感のある声で少佐が答えた。「今の段階で言えるのは、政治的グループ、思想的グループ、また過激派といわれるような集団ではない、ということだけだ」 「なるほど、では次の質問です。あなたがたは何人でこのテレビジャパンを占領しているのですか」 「警察に告ぐ」いきなり少佐がテーブルを激しく叩いた。「我々は総員十五名、それぞれが重火器を所持しており、もちろん弾薬及び爆発物についても数多く用意している。これは脅しではない」  少佐が傍らの迷彩服の男に声をかけた。フレームの外から近づいてきた男が、持っていた機銃とザックに詰め込んでいたプラスチック爆弾をテーブルに載せた。 「これは我々が用意している武器類の一部に過ぎない。アップに」  少佐の要求通り、カメラマンが差し出された機銃に焦点を合わせた。 「PSG−1、ドイツ製だ。十分に確認したまえ。そしてこちらは」オレンジ色の液体が詰まった細いガラスの瓶をカメラに向けた。「新しく開発されたプラスチック爆弾の一種だ。液状化しているために使用方法は多岐に及ぶ。通常のプラスチック爆弾と比較すると威力はやや劣るが、信管がいらないのが特徴だ。強い衝撃を与えて容器が割れれば、それだけで爆発する。プロならこれらが本物であることは理解出来るはずだ」  テーブルの上を片付けるように命じた。再びカメラが元の位置に戻った。迷彩服が爆発物をザックに収めるのを確認してから、ゆっくりと口を開いた。 「また、食料や飲料水なども準備している。必要であれば長期にわたってこの建物内に立て籠もることも可能だ」 「そのような武器類はどうやって調達したのですか」 「答える必要を認めない」  鋭い視線を向けた。霧島が肩をすくめた。 「さて少佐、警察に伝えたいことがある、ということでしたが」  カメラが少佐の顔に近づいた。サングラスをすかして、表情のない瞳が映った。 「連絡事項が二点ある。ひとつは、今後警察との交渉はすべてテレビを通じて行う」 「テレビ?」  霧島が言葉を挟んだ。そう、テレビだ、と少佐がうなずいた。 「警察との話し合いは」テーブルの上を指さした。「この電話で行い、交渉の過程そのものをすべて明らかにするため、生中継する。我々には訴えたい主張がある。我々と警察、あるいは日本という国家のいずれが正しいのか、それを判断するのはテレビの前にいる日本国民なのだ」  カメラに向かって指を突き付けた。 「もうひとつ、十階及び、二十階の防火扉の強行突破を禁じる。むしろこれは君たちのための忠告だ。防火扉には爆薬がセットしてある。震動感知型のスイッチなので、衝撃を受けると爆発が起きる可能性がある。止めることは我々にもできない。非常に危険な事態を招くことになるだろう。同じく、エレベーターシャフト内にも爆弾を仕掛けているので、シャフト内を通過しての侵入などは考えない方が無難だ」  少佐がカメラに向かってかすかに微笑んだ。冷たい笑みだった。同時にカメラが退がって、少佐と霧島のツーショットになった。 「以上ですか。何か具体的な要求はないのでしょうか」  尋ねた霧島に、もちろんある、と少佐がうなずいた。 「では、その内容を教えてください」 「警察に告ぐ。日本中の原子力発電所の機能を停止せよ」  霧島の口が開いたままになった。テレビ局の占拠と原発の停止に、どんな関係があるというのか。 「もちろん、いきなりすべての原発を停めるのは困難だろう。手始めにこのお台場一帯に電力を供給している、風見川原子力発電所の機能を停止してもらおう」  少佐が左手首に目をやるのと同時に、霧島も壁の時計を見上げた。十一時五十五分。 「あと五分で十二時だ。速やかな回答を要求する。繰り返す、午後一時までに、風見川原発の機能を即時停止すること」 「少佐、それはいったいどういう理由でしょう」  霧島の質問を、少佐が手で制した。 「午後一時の段階で我々の要求が受け入れられない場合、隣接しているプラチナタワーを爆破する」 「隣のビルを? 待ってください。ビル全体を爆破するつもりですか」  矢継ぎ早に発せられる少佐の言葉に混乱を隠しきれないまま、霧島の声が高くなった。対照的に落ち着いた表情で、少佐が指を一本立てた。 「我々は、諸君が想定しているような狂人ではない。これだけは伝えておこう。ワンフロアだけだ。ただし、どのフロアを爆破するかまでは教えられない、では、午後一時に」  いきなり少佐が席を立った。カメラが目標を失って、焦点がぼやける。すぐに乱暴に動いて、霧島の顔が映し出された。 「現場から霧島がお送りしました」  画面が特設スタジオに切り替わった。さっきまでニュースを繰り返していたアナウンサーの姿が映し出された。スタッフと話していた男が、映っていることに気づいて慌ててアナウンサーの顔に戻った。 「放送中、技術上の不手際があったことをお詫びいたします。さて、たった今、テレビジャパン占拠事件の主犯である�少佐�より、警察に対して要求がありました。繰り返します、たった今、�少佐�より、警察に対して要求がありました……」      5 [#地付き]11:59AM  大島警視正と小比類巻警視が足早に階段を上がっていった。案内しているのは編成部長の鶴川だった。長身の二人に挟まれた大島の姿は、まるで捕らえられた宇宙人のように見えた。 「犯人グループは、風見川原子力発電所の即時停止を要求、この要求が受け入れられない場合は、テレビジャパン社屋に隣接しているプラチナタワーを爆破する、と通告してきました……」  立ち止まった大島と小比類巻が顔を見合わせた。二人とも、耳には小型の液晶テレビに接続されたイヤホンを装着していた。 「何を考えてるんだか」  歩き出した小比類巻がぼそりとつぶやいた。飲みかけのペットボトルを右手に持ったまま、大島が短い足を忙しく交互に動かしている。  地下二階の駐車場から一気に五階の踊り場まで上ってきた鶴川が息を切らせながら、この上です、と親指を立てた。二人の捜査官が追い抜いた。 「出たら、左側です」  鶴川の声が追いかけてくる。わかった、と手を振った大島が太鼓腹にもかかわらず涼しい顔で辺りを見回した。 「マスコミの人間は鍛え方が足りないな」  すぐ目の前に、開いたままのドアがあった。ちょうど目の高さのところに�編成部�というプレートがあり、その下には、編成管理部と記されている。  中は広いワンフロアで、百人ほどの男たちが動き回っていた。警視庁刑事部捜査一課、鑑識課、警備部の捜査官によって臨時に編成された前線部隊だ。半分は濃紺のブルゾンを身につけている。他の者は少数の例外を除いてほとんどがグレーの背広姿だった。  この段階で、テレビジャパン社員は必要最小限の人数を残して、安全のため外部に退避している。つけっぱなしになっているモニターから、アナウンサーの声が流れていた。  大島と小比類巻が中に足を踏み入れると、テレビの前に集まっていた三十人ほどの捜査員たちが、黙礼をした。ペットボトルを手にしたまま大島が前に進んだ。 「犯人との連絡は」  ほとんど聞き取れない声でつぶやいた。どんなに緊迫した現場でも、感情を表に出したことがない。今日まで、どんな現場においても、声を荒げる大島を見たことのある捜査官はいなかった。  編成部長席に座ったまま電話に向かっていた男が立ち上がった。ただ一人、モスグリーンのジャケットを着たその姿はこの上もなく目立った。先着していた栗原警部だった。 「駄目です。二十四階の電話には誰も出ません。電話局の話では、おそらくモジュラーからコードを抜いているのではないかということです」  片手を挙げた大島が、代わりに席に着いた。テレビモニターでは、つい今し方の少佐と霧島アナウンサーのやり取りがリピートされている。警視庁科学捜査研究所から派遣された技師たちが画像をコンピューターに取り込み、分析を開始していた。 「至急、犯人の顔写真を手配。政治犯、思想犯、過激派、その他のリストを当たって、奴の正体を突き止めるように。公安、外事部にも協力を要請のこと。必ず奴は見つかる」  大島が初めて発した命令だった。 「了解しました」  栗原が電話に向き直った。 「爆発物処理班は」  座ったまま、大島がゆっくりと椅子を回転させた。 「五階で待機しています」  携帯電話を耳に当てたまま小比類巻が答えた。 「こっちに呼んでくれ」  ペットボトルに口をつけた。すぐに来ます、とうなずいた小比類巻が電話を切った。 「まさか、犯人が自らテレビ画面に出てくるとは思いませんでしたね」  重要なポイントだな、と大島がゆっくり首を振った。 「何のメリットもない行為だ。これであの男は、一生逃げることが出来なくなった。それとも、逃げるつもりがないのか」だとしたら非常に厄介なことになる、と目をつぶった。「奴は訴えたいことがある、と言った。顔を出すメリットがあるとすればそこだ。何を訴えるにしても、主体が明確であれば説得力は増す。おそらくそれを狙っているのではないか」  大島が口をつぐんだ。それ以上は聞かなくてもわかる。小比類巻の脳裏を、自爆テロという文字がよぎった。 「しかし、原発を停めろという要求にはどんな意味があるのでしょうか」  何とも言えない、と大島が肩をすくめた。 「思想上の理由か、それとも政治的な目的か。可能性の話をしても仕方がない。まずは犯人の正体を突き止めることが先決だ」  それはわかっていますが、と小比類巻が顎の先に指をかけた。 「だいたい原発の停止なんて、我々の管轄外ですからね。原子力発電所を監督しているのは経済産業省でしょう」  ドアが開いて、大柄な男が入って来た。肩の筋肉がつき過ぎているために、首が短く見えた。 「爆発物処理班の佐川です」  敬礼した。機敏な動きだった。中継は見ていただろうね、と大島が確認する。無言のまま佐川がうなずいた。 「率直に聞くが、一時間以内に隣のプラチナタワーに仕掛けられている爆弾を処理することは可能か」  しばらく黙っていた佐川が顔を上げた。 「もし、犯人が言っている通りの状況で、すべてのフロアに爆発物がセットされているのであれば」かぶりを振った。「一時間ではどうにもなりません。最低でも十二時間は必要でしょう」  そうだろうな、と大島が小さくつぶやいた。爆発物の捜索が経験者でも困難な仕事であることは常識だった。二十五あるフロアを調べるには、十二時間でも十分とは言えない。 「命令」  大島の声に待機していたスタッフが前に進み出た。 「前線本部は人命の安全を最優先事項とする。それにともない、プラチナタワーに対して退避勧告を行う。同時にビル周辺のマスコミ、騒いでいる見物人を安全地帯まで退がらせること。範囲については佐川班長が決定する」  目の前の大男を指さした。緊張した表情で太い首がうなずいた。 「もうひとつ、爆発物処理班は時間の許す限りプラチナタワー内で爆発物の捜索を進めるように。何か質問は」 「上が納得しますかね」  メモしていた手を止めて小比類巻が尋ねた。前線本部には、ある一定の範囲で裁量権が委ねられていたが、どこまでがその範囲内かは判断が難しい。本庁の見解を確認する必要があるのではないか、というのが小比類巻の懸念だった。 「私が本部長と話す。いずれにしても人命尊重の方針は決定事項だ」 「プラチナタワーはワールドメガバンクだけでなく、さまざまな会社やオフィスが入っている総合オフィスビルです」挙手した栗原が質問した。「我々の退避勧告に応じてくれるでしょうか」 「応じるかどうかは問題ではない」大島の声音は変わらなかった。「退避は絶対命令だ」  最悪の場合を想定すると、二次被害を出すことは絶対に避けなければならなかった。退避勧告に応じなければ強制退去させるしかない、というのが大島の方針だった。 「安全範囲の決定、ビル周辺の人間を排除、同時にプラチナタワーに退避勧告。ビル内爆発物を捜索」  小比類巻が命令を復唱した。大島が首を縦に振る。それを確認して佐川がまた敬礼した。 「では自分は下へ降ります」  緊張した表情のまま編成部から出ていった。他のスタッフも、それぞれが担当する班に連絡するため無線機の前に座った。本部に連絡を、と栗原警部に命じてから小比類巻が手近のパイプ椅子を引いて大島の隣に腰を降ろした。 「よろしいでしょうか」  無言のまま大島が視線を向けた。右手の人差し指がワイシャツの袖ボタンにかかっている。その姿を見つめながら、小比類巻が言葉を続けた。 「先ほどの話ですが、犯人の目的はいったい何なのでしょう。彼らは何を要求するつもりなのでしょうか。テレビに顔をさらしてまで、訴えたいこととは」  前例がないわけではない、と大島が言った。丸い頬が揺れていた。 「金嬉老事件でも、犯人はマスコミの連中を占拠していた場所に呼んでいる。あれは旅館だったかな。君も私も、子供の頃の事件だが」  金嬉老がマスコミを招いたのは、朝鮮人差別の実態を世間に訴えるという目的があったためだ。小比類巻が生まれた翌年に起きた事件だったが、それぐらいの知識はあった。袖口をまくった大島が、空になったコントレックスのボトルをデスクに置いた。 「もうひとつ言えば、自分たちの実力を誇示しているということもあり得る」  人数を申告したり、装備している武器についてまで言及するのはそれ自体をひとつの示威行動と考える必要がある、というのが大島の読みだった。 「あるいは、単なる出たがりなのかもしれない」  皮肉な笑みを浮かべながら言った。自分たちが相手にしているのがそのような人物でないことを、大島はもちろんだが前線本部に詰めている全捜査官が理解していた。 「いずれにしても、通常の事件とまったく違うことだけは確かですね」  小比類巻が緊張した眼差しを向けた。そうだ、と大島がうなずいた。 「我々特殊捜査班は、誘拐や籠城、あるいはハイジャックのような事件を扱う部署だ。普通この種の事件の場合、建造物に立て籠もった犯人に対処するために内部の様子を把握する必要がある」 「ええ。ですが、今回は鏡ひとつ用意しなくていいわけです」妙な事件です、と小比類巻が言った。「ましてやCCDのような特殊カメラもいらない。なにしろ放送用のプロ仕様のテレビカメラが入っていて、堂々と中継してくれているんですからね」 「本庁と電話がつながりました」  椅子を後ろに引いた栗原警部が叫んだ。ちらりと目をやった大島が、二本目のペットボトルのキャップを開けた。      6 [#地付き]00:01PM  庶務部フロアに戻った由紀子は、片端からデスクの引き出しを開けて携帯電話を捜した。デスクの電話機が使えず、下にも降りられない以上、外部と連絡を取る方法はそれしかない。  最初のうちは捜してから閉めていた引き出しを、開けたままにして次のデスクへと移っていった。あの男が戻ってくるより先に、携帯電話を見つけなければならない。引き出しを開けっ放しにしておけば、誰かがこのフロアにいたとわかるだろうが、やむを得ないと判断していた。それよりも重要なのは時間だった。  だが、誰のデスクからも携帯電話は出てこなかった。壁の時計を見上げた。あと二分。計算が正しければ、あの男が戻ってくるまであと二分あるはずだ。  その間に携帯電話を見つけて、非常階段から外へ出る。上か下かどちらかのフロアから、助けを求めるために電話をかければいい。  狂ったように引き出しを開け続けた。まだ一分ある。一分は残っているはずだ。庶務部四十人のうち、誰か一人ぐらいは逃げるときに電話を置き忘れている人間がいてもおかしくはない。由紀子が次の引き出しに手をかけた時、声がした。 「おい」  手が止まった。  おそるおそる振り向く。五メートル四方の正方形に配置されたデスクを挟んで、さっきのゴリラ男が立っていた。 「どこから入った」  肩に担いでいる銃を構えようともしていない。のんびりとした顔つきだった。頬がゆっくりと動いている。ガムを噛んでいた。 「どこって」  声が出た。同時に、固まっていた体が動き始めた。男から目を離さずに、正方形のちょうど反対側に位置するように体を移した。男はその動きを黙ったまま見ている。 「上よ」 「へえ」  馬鹿にしたような笑みを浮かべた男が、正方形の一辺を歩きだした。その動きに合わせて、由紀子も動く。再び正方形の対面に移動したところで、お互いに動きを止めた。距離は変わらない。奇妙な睨み合いだった。 「それで、これからどうするつもりなんだ」 「別に」  油断なく身構えながら答えた。冷静に男の様子を観察している自分がいることに、由紀子は驚いていた。  なぜだかわからないが、落ち着いている。たぶん、さっきまでの出来事があまりに強烈だったために、心がマヒしているのだろう。人間はどんなことにでも慣れてしまうものだ。  迷彩服を着込んだ男は、よく見ると日本人ではなかった。東洋系の顔立ち。おそらくは二十代後半。あたしより若いかもしれない。太腿の筋肉がはちきれそうだ。 (デスクを乗り越えてあたしを捕まえに来るだろうか)  男の顔を見つめた。馬鹿にしたような笑みはそのままだった。そこまでしなくても、どうせ捕まえてみせる。そう顔に書いてあった。 「来るんだ」男がザックを背負い直した。「あんまり面倒をかけさせないでくれ。俺も手荒なまねはしたくない」  そう言って、また横歩きで移動を始めた。男が歩いたのと同じ距離を由紀子も動いた。足に応接セットの低いテーブルが当たって転びそうになる。  倒れたらおしまいだ。  足を踏ん張って、バランスを取った。体勢を立て直す。再び正方形の端と端で、二人は対峙《たいじ》した。 「いいかげんにしてくれ」うんざりした表情で男が言った。「俺も遊んでるわけじゃないんだ」 「あたしだって」  こっちの方がよっぽど真剣だ。捕まったらどうなるか、考えるまでもない。 「諦めろよ。どっちにしても逃げ切れるものじゃないだろうが」  右に移ると見せかけてから、男が左へ走った。由紀子も慌てて左へ動く。無理な動きで足首にまた痛みが走った。駄目だ。このままじゃ。いずれ捕まってしまう。  いつまでもここで追いかけっこを続けているわけにはいかない。どうすればいいのか。  フロアの左右に目を走らせた。エレベーターホール、非常階段。どちらの扉から出るにしても、途中でこの男に追いつかれてしまうだろう。逃げるチャンスはない。  様子を見ていた男が低く口笛を吹いた。狩りが始まる合図。口元に薄笑いを浮かべたまま、のんびりと歩きだした。  目を見開いたまま、由紀子もデスクの周りを進んだ。シュレッダーとコピー機の前を横切る。男が反対側の応接セットの脇で足を止めた。 「いい運動になる」嘲るような口調だった。「そっちは動きが悪いな。運動不足なんじゃないのか」  答えずに由紀子は背後に目をやった。もしかしたら。  男の動きを目で追いながら、一歩だけ退がり、コピー機の電源スイッチを後ろ手で捜した。こんなことをしてもどうなるというわけではないかもしれない。でも何もしないよりはましだ。三台並んでいるコピー機のスイッチを次々に押していった。 「無駄な抵抗はやめなさい」歌うように男が言って、再び歩きはじめた。「結局、最後には捕まるんだぜ」 「ほっといてよ」  蟹《かに》のように横歩きをしながら、男との距離を一定に保った。正方形のデスクを挟んでの鬼ごっこがしばらく続いた。 「ねえ」  応接セットの前で足を止めた。男も立ち止まる。 「どうした。降参する気になったか」 「まさか」  何気ない風を装いながら、心の中で祈り続けた。お願い。奇跡が起こって。動いて。 「それって、本物なの?」  歩き出そうとしていた男が機銃に目をやった。 「当たり前だ」 「どこで買うの、そんなの」  不思議そうに男が由紀子を見つめた。無知な人間を蔑《さげす》むような視線だった。 「やれやれ」  業を煮やした男が、銃を肩にかけた。デスクに片足を載せて、体を持ち上げる。そのまま由紀子に向かって足を踏み出そうとした時、いきなり背後で大きな音がした。  光。  反射的に振り向いた男の目の前で、コピー機が動き出していた。  テレビジャパンが導入した最新のコピー機は、一定の時間使用されないと自動的に電源がオフになる。無駄な光熱費を節約するための機能だったが、逆に再稼働させるためには、もう一度電源を入れ直す必要が生じる。スイッチを入れると、予熱と呼ばれる待機時間の後に使用が可能になる。  コピー機が突然動き出したのは、由紀子がスイッチを入れたためだった。数分間の待機時間を経て、再稼働したのだ。  男にわずかな隙ができた。デスクに片足をかけたまま急に振り向いたために、上半身が揺らいでいる。その一瞬を逃さず由紀子は走り出した。  男が向きを変えてデスクから降りてくるのが視界の隅に映った。フロアの奥の扉を開いて通路に出た。非常階段に向かう。走って、足。もっと早く動いて。  ドアのノブに手がかかった。思い切り引っ張る。階段に出た。二段飛ばしで駆け下りる。背後でドアの開く音がした。  踊り場まで残りの階段を一気に飛んだ。着地で足首に激痛が走った。足音が後ろに迫っている。やっぱり無理だったのか。  男の指が肩に触れた。振り払って、また飛ぶ。足の痛み? そんなの関係ない。  二十一階のドア。ノブに手をかけ、強く扉を押し開き、通路に飛び込んだ。背中でぶつかるようにしてドアを閉める。大きな音。  ロックしなきゃ。ドアを背中で押さえながら、右手で探った。どこにあるの。鼓動が激しくなる。体内をアドレナリンが駆け巡っているのがわかった。手がノブに触れた。柔らかい感触。 (柔らかい?)  そんな馬鹿な。スチール製のドアが柔らかいなんて。わけがわからないままに振り向くと、信じられないものが目に入った。 (なに、これ)  ドアから腕が生えていた。  その手が何かを掴む仕草を見せて、ゆっくりと下に垂れた。そのまま動かなくなる。いったいどういうことなのか。  ドアに体を押しつけたまま、由紀子は考え続けた。何がどうなってるのか。だいたい、この手は何なの。おそるおそる、血の気を失っている手の甲を指で押した。 (気持ち悪い)  弾力を無くした皮膚の質感が指に残った。無反応な腕をしばらく見つめてから、扉をそっと引いた。戸口を塞ぐようにして、目を見開いた迷彩服の男が立っていた。悲鳴が漏れそうになる口を両手で覆う。もう駄目だ。  次の瞬間、男の体がゆっくり崩れた。そのまま背中から階段に倒れ込み、踊り場まで滑り落ちた。踵が段に引っ掛かって止まった。 (何なのよ)  泣きそうだった。ドアで自分の体を支えながら、男の様子を窺う。動く気配はない。右の腕があり得ない方向に曲がっていることだけがわかった。いつでも逃げられるように及び腰で近づいた。  しゃがみこんで、男の顔に手を当てた。わずかに息がかかる。気を失っているのだろうか。振り返ると、急な階段が目の前にあった。 (あのドアを開けたとき)  この男はあたしのすぐ後ろにいた。フロアに逃げ込もうとするあたしを捕まえようと、男は腕を伸ばした。  その時、ドアが閉まった。あたしが思いきり背中で押して閉めたのだ。そして、そのドアに右腕を挟まれた。  想像しただけで胸が悪くなった。考えるのは止めよう。あの勢いでドアに手を挟まれたら、折れてしまうのも当然だ。痛みで失神するのも無理はない。  立ち上がって、男の体を足で突いた。意識を取り戻す様子はなかった。 (どうしよう)  庶務部のフロアに戻って、ガムテープを持ち出した。男の両腕を体の前で巻いていく。次に足を縛り、最後に口を塞いで作業を終えた。 (さて、次だ)  男の背中から外しておいたザックを開いた。まず、小物を入れておく小さなポケットを調べた。煙草の箱が二つとガムが出てきた。一枚だけ取って口の中に放り込んでから、ザックの中身を床にぶちまけた。  拳銃が転がって、乾いた音をたてた。腰のベルトにも銃が差し込まれているから、これは予備のためなのだろう。ケースに入った銃の弾も出てきた。  テレビや映画でしか見たことのない物もたくさんあった。ダイナマイト、手榴弾、何だかわからない粘土のような塊《かたまり》、スタンガン、プラグの類、電線、ヒューズ、バッテリー、ライター、リード線、携帯電話と予備のバッテリー、小型の無線機、ナイフ。  さまざまな武器の類が次から次へと、踊り場のフロアを埋めていった。まるで蚤《のみ》の市だ。景気のいい光景だったが、何に使うのかさえわからない物がいくらあっても仕方がない。  携帯電話を調べてみたが、ダイヤルロック、という液晶表示が目に入ってすぐに諦めた。無線機はどう使っていいのか見当もつかない。これもザックの中に戻した。  もう一度庶務部のフロアに戻った。扉近くのデスクに、テレビジャパンの派手なロゴが入った小さなバッグが置かれていた。掴んで下に戻った。  小さいものだけ入れておこう。バッグの口を開いて、まず拳銃を入れようとしたが、大きすぎて入らない。どうしよう。そうだナイフ。ないよりはましだ。  それに手榴弾。どうやって使うのかもわからないけど、それでもいい。あとライター。それから何だかわからないけど、オレンジ色の液体が詰まっている小さなガラス瓶。  それだけのものを放り込むとバッグがいっぱいになった。スタンガンを持っていきたかったが、大きすぎて入らなかった。  最後に、傍らに落ちていた機銃を杖の代わりに拾いあげて立ち上がった。これで武装は完了だ。  いや、まだ終わっていない。もうひとつ、これが残っている。  由紀子はガムテープで手足を巻かれたまま、ミイラのように横たわっている男の体を見下ろした。      7 [#地付き]00:31PM  午後〇時三十一分、プラチナタワーからの退避が始まった。前線本部指揮官の大島警視正の命令によるものだった。縦社会である警察組織においては報告義務が常にある。この場合も例外ではない。  だが、現場からの報告はなかった。というより、その必要を誰も感じていなかった。すべてはテレビカメラによって中継されている。テレビモニターからアナウンサーの声が響いていた。 「……警視庁は犯人によるプラチナタワー爆破予告を受けて、タワー内の全オフィスに対して退避勧告を行いました。先ほどからワールドメガバンク社員をはじめとして、各テナント、オフィスから続々とビルの外に人々が出てきております。まさに人の波、といったところでしょうか」  カメラが動いて、プラチナタワーの正面エントランスを大写しにした。大勢の人間が誘導されるままに移動を続けていた。不安そうな顔で、先を争うように歩いている。 「確かに、妙な事件だ」  大島の口からつぶやきが漏れた。小比類巻の言葉を借りるまでもなく、警察が状況を確認するために配慮する必要はなかった。テレビ局のカメラが、現場の様子を克明にレポートしてくれている。 「やはり9・11の影響でしょうか」電話を切った小比類巻が声をかけた。「ビル爆破がリアルな出来事に感じられるということなんでしょう。ほとんどの会社が退避勧告に応じてくれました」 「壮観だな」  大島が持っていたペンで画面をさした。突き出されたマイクに向かって懸命に喋っている若いサラリーマン、疲れた表情で足を引きずっている中年の男。駆け出したところで転倒したOLがアップになった。 「それでも、いくつかの会社には拒否されたのですが」画面を見ながら小比類巻が報告を続けた。「最上階の結婚式場が一番問題でしたね。花嫁の両親が怒り出して、大変だったそうです。しかし、命に係わる問題ですから」  当然だ、と大島が小さくうなずいて先を促した。小比類巻が空咳をした。 「ワールドメガバンクでも少し揉めました。商品取引所で先物取引をするために貴金属、現金が約五百億円分用意されているということで、これは十七階のロワイヤル証券でも同じような問題が発生しています。しかし、最終的には納得してくれました」  プラチナタワー内の人間が全員ビル外に退去した後、ビル全体を封鎖することが決定していた。警察関係者以外の出入りは禁じられ、同時に厳重な監視下におかれるため、ビル内の安全性に問題はなかった。  既にこの段階で動員は二千人を超えている。SATまで出動している厳戒態勢の中、侵入できる者はいない。うなずいた大島がモニターを見ながら、退避自体に問題はなかったか、と尋ねた。 「数名が退避時に転倒するなどして怪我を負っていますが、いずれも軽傷です。問題ありません。プラチナタワーからの退避はあと十五分以内に完了する予定です」 「爆発物処理班は」  そちらは多少問題があります、と小比類巻がメモに目を走らせた。 「爆発物の捜索と、人命確認を同時に行っているのですが、時間が足りません。爆発の規模にもよりますが、場合によっては彼らに危険が及ぶ可能性があります」  小比類巻が壁の時計に目をやった。少佐が予告した時間まであと二十九分しかなかった。 「タワー内の各担当に連絡」椅子を回転させた大島が命令を発した。「爆発物処理班は十分後に捜索を打ち切り退避のこと。爆発の際には、割れたガラスなどが落下して非常に危険だ。安全地帯までの移動時間を考慮するように」  了解、と栗原がマイクに向かった。しかし、と小比類巻が首を傾げた。 「奴らは本当にプラチナタワーを爆破するつもりなのでしょうか。単なる脅しに過ぎないのでは」  額に太い指を当てていた大島が、左手を伸ばしてペットボトルを掴み、デスクに肘をついた。 「かもしれない。だが、万が一に備えるのも我々の任務だ」  そうだろう、と水を飲みながら時計を見た。爆破予告の時間まで、あと二十七分だった。      8 [#地付き]00:32PM  足元に男の体が転がっている。このまま置き捨てておくわけにはいかない。あの連中が見つければ、誰かがこのビル内にいることがわかってしまう。いずれは知られてしまうことだろうが、なるべくならそれを遅らせたかった。  由紀子はしばらく考えた末に、意識を失った男を非常階段の踊り場にあるトイレに隠すことに決めた。他に男の大きな体を隠す場所が思い当たらなかった。トイレの用具入れなら、この男でも入るだろう。  男の両足を引っ張って、女子トイレまで引きずっていく。筋肉質の男の体はあまりに重かった。額を伝う汗を手の甲で拭った。  数メートルの距離でしかなかったが、運び込んだ時には腕の感覚がすっかりなくなっていた。そのまま男の体を床に転がしておいて、トイレの扉を肩で押した。  入った左側に、清掃用具を入れておくためのボックスがあった。モップやバケツを外に出して、空いた空間に男の体を押し込んだ。  念のため、もう一度男の口の周りにガムテープを貼り付けた。鼻の下に指を当てて、息をしているかどうか確認する。とりあえず窒息死はしないだろう。  用具入れのドアを閉め、その上から大きく�バツ�の形にガムテープを貼った。使用禁止、と貼り紙をしたかったが、そこまでの用意はしていなかった。  トイレから出て階段を上った。バッグを提げたまま、通路からフロアへ続く扉をゆっくりと押し開けた。二十一階、総務部だ。  誰もいないことを確認してから中に入った。デスクの電話を全部試してみた。あいかわらず繋がる気配はない。諦めて非常階段に戻った。  結局、このまま歩いて下に行くしかない、とわかった。助けを呼ぶまで、圭は無事でいてくれるだろうか。  機銃を杖に、痛みがぶり返してきた足を引きずりながら階段を降り始めた。二十階と十九階の間にある踊り場まで出たところで、由紀子は立ち止まった。行手を黒い鉄の扉が塞いでいた。 (冗談じゃないわよ)  開閉スイッチを探したが、見つからない。膝のあたりの高さに、故障の場合は下記まで連絡のこと、という文字と管理会社の電話番号が記されていた。何の意味もない。電話があれば、もっと違うところにかけているだろう。 (どうすればいいの?)  ここから先には降りられない。下に行くためには、この分厚い防火扉を開けなければならないのだ。 (そうだ)  防火扉を開けるには、�ブレイン�で操作すればいい。出来るかどうかはわからないが、試してみる価値はある。  由紀子は二十階まで階段を戻った。非常扉を細く開ける。通路には誰もいなかった。すぐ右手の扉に手をかけた。中から機械の動く音が聞こえてきた。  フロアはコンピューターで埋め尽くされている。メインコンピューターと二台のサブコンピューター、そしてそれに付随するあらゆるシステムが、ディスカウントショップの閉店セールのように山積みになっていた。 「了解しました」  奥から声が聞こえて、由紀子は慌てて扉を閉めた。機械の作動音が聞こえなくなった。  もう一度静かに扉を開けた。隙間から中を覗きこむ。今の声はどこから聞こえてきたのだろう。  細い通路を挟んで、コンピューター機器類とデータを印刷するためのプリンターが森のように並んでいる。その横では数十台のディスプレイがデモンストレーションを繰り返していた。  視線をさらに奥に向けると、メインコントロールボックスが見えた。トイレに押し込んだ男と同じ迷彩服を着込んだ男が椅子に座っていた。  さっきの男ほど体格はよくない。というより、むしろ貧弱な体型だった。痩せた体に、迷彩服が大きすぎる。余った袖を二重に折っているのがわかった。声の主はその男だった。  男が無線機に向かって何か話している。細かい内容までは聞こえなかった。ときどき「エレベーター」「ドアロック」というような単語が切れ切れに聞こえた。それ以上は聞き取れない。  乗り出した由紀子の足が滑った。転びそうになった体をドアで支える。小さくドアノブが音をたてた。  聞こえていないことを祈りながら、後ろ手に扉を閉めた。素早く階段を駆け上がる。二十一階の非常扉の前に出たところで、大きく息を吐き出した。  さっきの見張りの男がいなくなったことがわかるまでには、まだしばらく時間がかかるだろう。考えなければならない。今までのことを、そしてこれからのことを。  どうすればこの建物から出られるだろうか。しかも自分だけではなく、圭も一緒でなければ意味はない。 (圭)  不安で胸が押しつぶされそうになる。あの人は無事なのだろうか。怪我はしていないか。生きていてくれるだろうか。  なんでこんなことに巻き込まれなければならないのかわからなかったが、ひとつだけはっきりしている。結婚も、親もどうでもいい。圭が無事ならそれでいいのだ。何とかしないと。 (でも、どうしたらいいの)  圭を救い出したとしても、どこから逃げればいいのだろうか。エレベーターを思い浮かべたが、使えないことは既に確認済みだ。  しかも今見てきた通り、�ブレイン�は彼らの支配下にある。エレベーターの運行そのものがコンピューターによって制御されている以上、動かすことはできない。このビルからは逃げられないのだ。  だとしたら、と由紀子は考え続けた。逃げられないのなら、逆に誰か入ってくるようにはできないだろうか。  ここで事件が起きていることは、既に警察もわかっているはずだ。当然、人質を救出するためにさまざまな策をたてているだろう。そのときに問題になるのは、あの防火扉だ。  防火扉さえ開けば、警察もビル内に入ることが可能になる。そうすれば助けてもらえるだろう。 (だけど)  結局同じことだと気づいた。防火扉の開閉も�ブレイン�が管理している。 (出るにしても、誰かが入ってくるにしても、結局は�ブレイン�だ)  だとすれば、と由紀子は考え続けた。コンピューターを動かしていたあの男がいなくなれば、何とかなるかもしれない。  男がいなくなった隙にコンピューターを操作して、エレベーターを使えるようにするか、防火扉を開く。そうすれば助かる可能性が生まれるはずだ。  もちろん、コンピューターを動かした後で捕まってしまうかもしれない。だが、防火扉さえ開けられれば状況は大きく変わることは間違いない。やってみる価値はあるだろう。 (でも、問題がある)  しかも、数限りなく。由紀子は眉をひそめた。  だいたい、いつあの男はあそこからいなくなるのか。確かにトイレぐらいは行くだろう。何かの理由で席を外すことだってあるかもしれない。でも、せいぜい数分のことだ。その短い時間で、あたしに何が出来るというのか。  ゆっくりと首が垂れた。もっと大きな問題があった。自分に、あのコンピューターが扱えるかどうか、ということだ。  社内のデスクトップパソコンならともかく、専門家でもないあたしにあの巨大コンピューターを動かせるだろうか。無理だ。経理部のOLに扱えるほど簡単な機械ではない。見ればわかる。  由紀子が大きなため息をついたとき、目の前のドアが開いた。      9 [#地付き]00:58PM  大島警視正は腕にはめていた時計に目をやってから、壁に掛かっている大型デジタル時計の液晶表示と見比べた。この十分間で五十回は同じ動作を繰り返していた。  何度やっても同じだった。二つの時計はまったく同じ時間をさしている。プラチナタワーの爆破予告時刻が迫っていた。 「退避は」  ヘッドセットを耳に当てていた栗原警部が、完了を確認、と叫んだ。 「プラチナタワー内に残っている人間はおりません。全て外へ退去しています。ただ」  大島が目を上げた。栗原の声が急に小さくなった。 「……ただ、人命検索のためにタワー内に入っていた五つの班のうち、消防は既に現場を離脱しておりますが、爆発物処理班の内藤班と山崎班が遅れています。両班の現在位置は十六階と十七階。あと二分で彼らがビルの外に出るのは不可能です」 「退避命令を聞いてなかったのか」小比類巻が怒鳴った。「十分後にビルを出るようにと、さっき伝えたばかりじゃないか」 「十九階に残存者がいたという報告を受けています」栗原が憂鬱そうに答えた。「ビル内のクリニックに通院していた老人で、トイレで昏倒していたところを発見されたとのことです。その搬出作業で、爆発物処理班の離脱が遅れたと」  無言のまま大島が編成部長席の電話を取り上げて、リダイヤルボタンに触れた。だが、返ってくるのは通話中を示す機械音だけだった。いつの間にかデスクには四本の空になったペットボトルが並んでいた。 「あと一分です」  小比類巻が時計を見つめながら言った。大島が受話器を戻した。それが合図であるかのようにテレビの画面が切り替わって、少佐の姿が映し出された。栗原がボリュームを上げる。 「予告した時間だ」画面の中の少佐が口を開いた。「警察との交渉を始める」  受話器を取り上げてダイヤルを押した。すぐに大島の目の前の電話が鳴った。不思議な光景だ、とその場にいた全員が感じた。まるでテレビドラマの登場人物がかけてきた電話に出るようなものだ。  ワンコールも鳴り終わらないうちに、大島は受話器を取り上げた。汗がひと筋、こめかみから流れた。 「一分前だ」  少佐の声が受話器とモニターから同時に聞こえた。 「わかっている」 「答えたまえ。イエスなのかノーなのか、理由は必要ない。結論だけで結構だ」  落ち着いた口調だった。大島の右手が忙しく動いて、ワイシャツのボタンを外し続けている。 「待ってほしい、少佐。原子力発電所の停止は、我々の権限では不可能だ。出来ることと出来ないことがあるのは、理解してもらえると思っているが」 「つまり、ノーということだな」  顔を上げた少佐が、カメラをのぞきこみながら、サングラスの位置を直した。 「そんなことは言っていない。ノーではない。今本庁が経済産業省と交渉している。もう少し時間が欲しい」 「仕方がない。私は警告した」 「待ってくれ、頼む」  かすかな音と共に、上から二番目のボタンがちぎれて落ちた。残念だ、と少佐が吐き捨てるように言った。 「爆破を決行せざるを得ない」 「そんなことをしたところで、どうなるものでもないだろう」  犯人グループが爆破を決行したとしても、警察としてはそれに対応出来る態勢が取ってある。周囲の人間は安全地帯まで後退させていた。  問題はまだビル内に残っている爆発物処理班の安全だった。彼らをビルの外に退去させ、安全な場所まで避難させなければならない。そのために大島は時間を稼がなければならなかった。 「何か他の要求はないのか」 「無論ある。しかし、最初からこれでは話にならない。残念だ」  画面の中で少佐が受話器を置こうとした。 「待ってくれ」表情を変えないままに、大島が声を上げた。「一分や二分爆破が遅れたところで、どんな問題があるのか」 「予告したはずだ。|1300《いちさんまるまる》時までに回答がない場合は、プラチナタワーを爆破すると」 「わかっている。君が実際に爆破を実行することも、十分に私は認識しているつもりだ。しかし、一時という時間に意味はないだろう。それが一時五分でも一時十分でも変わりはないはずだ」 「作戦行動に遅延は許されない」 「数分間がかね? 君はそれぐらいのことで崩れるような計画を立てる人間とは思えないのだが」  挑発的な発言に、前線本部の誰もが息を呑んだ。しばらく沈黙していた少佐が、受話器を握り直した。 「君は面白い男だ」  よく言われる、と憮然《ぶぜん》とした表情で大島が答えた。 「少佐、もう一度尋ねる。君はわずかな時間の遅れも許さない、融通の利かない管理主義者なのか、それとも秀れた指揮官がそうであるように、臨機に事態に対応できるタイプの人間なのか、それを聞いておきたい」  なるほど、とつぶやいた少佐が受話器を顎に挟んだまま窓に目をやった。 「それでは警視正、確認だ。プラチナタワーには誰も残ってはいないだろうな」 「もちろんだ。プラチナタワーの人間はすべて退去させた」 「結構。我々は無意味な犠牲を望んでいない」  間髪を入れずに大島が次の言葉を撃った。言葉だけが交渉人の武器だった。 「ただ確認のために警察官が十人ずつ二《ふた》班、タワー内部で捜索活動に入っている。彼らが出てくるまで、あと五分待ってほしい。その時間をもらえないだろうか」  手を広げて画面に向かって突き出した。 「既に約束の時間を過ぎている。これ以上は待てない」  冷たく少佐が言い放った。話を聞いてくれ、と大島が首を振った。 「タワーには二千人以上の人間がいたのだ。全員の退去を確認するのに一時間では足りない。君なら理解してくれるはずだ。あと少し、少しだけ時間をくれないか」  説得を続ける大島のそばに小比類巻が近づいてメモを渡した。 『爆発物処理班は退避中。現在十三階』  大島が親指を立てて了解のサインを出した。 「少佐、君も部下を持つ身ならわかるだろう。彼らに何かあったら、私はどう責任を取ればいいんだ」  理の通じない相手には情に訴える。会話を長引かせるためのテクニックだ。立場は理解している、と少佐がうなずいた。 「だが、我々の作戦にも段階がある。最初から譲歩するようでは、作戦行動の完遂は不可能だ。そして」  頬に冷たい笑みが浮かんだ。手の内が読まれていることを悟った大島の眉間に深い皺が刻まれた。 「露骨な時間稼ぎにつきあうほど、私も暇ではない」  それだけ言って、少佐が銀色に光るシガレットケースから煙草を抜き取った。 「そんなつもりはない。そういうことではないんだ」  声音こそ変わらないが、大島の拳が強く握られていた。指が白くなっている。 「警視正、話し合いは終了した。予定通り、プラチナタワーの爆破を決行する」 「頼む、少佐。あと三分でいい。時間をくれないか」  テレビに向かって大島が頭を下げた。しばらく沈黙が続いた。 「それではひとつだけ」少佐が煙草に火を点けた。「君の部下が今何階にいるのか、私にはわからない。だが、私が爆破するのは二十五あるフロアのうちひとつだけだ。もし不幸にも彼らがいるフロアが爆破されてその犠牲になったとしたら、それは彼らがその程度の運しか持っていなかったということではないか」 「少佐、人の命が懸かっている」静かに大島が言った。「運不運で済む話ではないだろう」 「そんなつもりではない」少佐が静かに笑った。「警視正、自分を信じたまえ。おそらく、彼らは無事に戻ってくるだろう」 「おそらく、では済まされない」大島の声がフロアに響いた。「聞いてほしい。こちらの捜索班は二班に分かれている。二十五分の一ではない。十三分の一で彼らは爆発に巻き込まれる可能性がある」 「祈るんだな、警視正」  通話が切れた。同時に、テレビの画面が切り替わった。数秒後、爆発音が響いた。大島の目の前で、コントレックスのボトルが一本倒れた。 「本当にやりやがった」  血走った目で小比類巻がつぶやいた。黙ったまま受話器を置いた大島がモニターを見つめた。 「何階だ? 報告しろ」  無線機に向かって栗原が怒鳴った。答は返ってこない。前線本部にいたすべての捜査官が、動きを止めて返事を待った。 「十一階全フロアの窓ガラスが大破……」  無線機からかすれた声が届いた。小比類巻ががっくりと頭を垂れた。  最後に連絡があった段階で、処理班が伝えてきた現在位置は十三階付近だった。十一階を通過している可能性は高い。最悪の事態だった。大島の目線は変わらない。まっすぐにモニターを見つめている。 「誰か。報告者は誰か」  栗原がマイクを握りしめた。再び雑音交じりの声が流れ始める。 「こちら監視班……聞こえますか、どうぞ」 「聞こえている。報告を続けてください」 「現在、割れたガラスの破片が路上に降り注いでいますが……怪我人……ません。マスコミその他に負傷……おりません」  小比類巻が栗原の手からマイクを奪った。 「そんなことはどうでもいい! 捜索班の無事を確認しろ。そこから中の様子は見えるか」 「こちらからは見えま……繰り返します、こちら……確認出来ません」 「見えなくてもなんでも確認しろ! 聞こえてるのか」  怒鳴りつけた小比類巻を、栗原が手で制した。もう一度状況を確認しようとしたとき、内藤です、という小さな声が無線に割り込んできた。 「内藤警部補か」  小比類巻が叫んだ。 「はい、十階の内藤です。全員無事です。内藤班は全員無事です」  声が割れていた。爆破の影響で電波状態が乱れていた。 「もうひとつの班はどうなんだ。山崎班はどうなってる。確認出来ないか」 「……聞こえません。もう一度お願いします」 「十三階にいた山崎班は無事か。確認出来ないか。どうぞ」  無線が切れた。栗原が周波数を切り替えて呼びかけた。 「山崎班長、山崎班、誰か応答してください。山崎班、応答してください」  無線機は何も答えなかった。栗原がもう一度呼びかけようとしたとき、ノイズが大きくなった。声が重なる。 「山崎……こちら山崎」  弱々しい声が無線から流れてきた。編成部に詰めていた捜査官たちの間から、どよめきが起こった。 「こちら前線本部」乗り出した小比類巻が叫んだ。「無事なのか」 「山崎です。九階にいます」  音声がはっきりしてきた。雑音が混じっていたが、意味は十分に伝わった。 「十一階から移動した直後に爆発が起き……た。運がよかったとしか言いようがありません。山崎班は全員無事……。今からプラチナタワーを降ります」 「了解」  栗原が力強く答えて、小比類巻にマイクを渡した。握りの部分が水に浸かったように濡れていた。 「山崎班、内藤班は降りてくるように。繰り返す、注意して降りてくるように」  小比類巻の声が編成部に響いた。静かにその様子を見守っていた大島が小さく息を吐いた。ゆっくりとワイシャツのボタンを掛け始めたその指が、かすかに震えていた。      10 [#地付き]00:59PM  扉を開けて出てきたのは、背の高い白人だった。整った顔が英国の有名なサッカー選手のように小さい。  非常扉の前で立っていた由紀子を驚いたように見つめていたが、状況を理解したのか、迷彩服の内ポケットからゆっくりと拳銃を抜いた。 「何をしている」  高い声でそう言った。流暢《りゆうちよう》な日本語で、アクセントもおかしなところはない。ただ、ほとんど裏声に近いので威圧感はなかった。  反射的に由紀子も杖にしていた機銃を構えた。勇ましいね、と男が馬鹿にしたように笑いながら、銃口を由紀子に向けた。 「銃を撃つのは君が思っているほど簡単ではない。射撃訓練をしていない人間に、銃を使いこなすことは出来ない」 「来ないで」  泣きそうになりながら由紀子が首を振った。階段を二段下がる。 「その銃はどこで手に入れた」  男が訝《いぶか》しげに見つめた。横顔に若さが残っている。答えず引き金に指をかけた。 「近づいたら撃つわよ」  無理だ、と男が耳を指で掻いた。 「君には撃てない。撃ったところで当たるはずがない。銃を捨てるんだ」  場慣れした様子で一歩前に出る。合わせるように、由紀子が一歩退がった。 「君はここの社員なのか」  男が尋ねた。 「そうよ。そっちは何なのよ」  男を凝視したまま答えた。緊張のあまり、まばたきをすることが出来なくなっている。 「この建物を占拠している犯人の一人だ」  空いている左手で器用にポケットからガムを取り出した。銀色の包装紙を剥いて、口の中に放り込む。頬の筋肉が力強く動いた。 「それにしても、君はついてない。女性社員は全員逃がす予定だったんだがね。いても仕方がないのに」 「だったらあたしも逃がしてよ。今からでも遅くないでしょ」  真顔で由紀子が言った。男が鼻を鳴らした。 「そうしたいところだが、防火扉を閉鎖してしまった今となってはどうしようもない。とにかく、一緒に二十四階まで上がろう。人質になるんだ」  また一歩近づく。同じ距離だけ後退した。 「では仕方がない」男が銃を構え直した。「それもまた人生だ」  目をつぶったまま、由紀子は引き金を弾いた。何も起きない。男がガムを噛みながら首を振った。 「銃には安全装置というものがついている。引き金を弾いただけでは、弾は出ない。こうするんだ」拳銃の安全装置を解除した。「これで発射が可能になる」  由紀子も安全装置を外そうとしたが、拳銃と機銃とでは構造が違うので、どこについているのかもわからない。もう駄目だ。こんなところで死ぬのか。  会社で死ぬなんて最低だ。あたしはそんなに仕事熱心じゃない。これは労災扱いになるのだろうか。  蒼白になった由紀子の顔を見て、男が苦笑いを浮かべた。 「撃ちはしない。一緒に来ればそれでいい」  膝の力が抜けた。命じられるままに階段を昇り始めた。 「前を歩いてくれ」  手招きした男の前を通って、二十一階総務部フロアに入った。右手に持っていた機銃を男が取り上げた。  そのまま背中に銃口が押し当てられた。自然に両手が上がった。並んでいるデスクの間を進んで、エレベーターホールに向かう。 「二十四階に行くんじゃないの?」  エレベーターは動かないはずなのに。男が小さく笑った。 「荷物があるんだ」  ドアを開けた。一番右手にあるエレベーターの脇に、大きなザックが置かれていた。男が片手で持ち上げた。  エレベーターの横には、ウエストエリア側の非常階段につながる細い通路がある。グレーのカーペットが見えた。ザックを背負った男が、重くてね、と由紀子の視線を受けて笑った。 「二十四階まで上がろう」  命じられた由紀子は、視線を通路に向けた。途中の給湯室の外に、吸殻が山盛りになっている灰皿がポットと一緒に並んでいた。 「手を下げてもいい?」  背後の男に聞いた。給湯室。 「構わない」  男が答えた。男はみんな同じだ、と思った。絶対的な優越感。反抗など出来るものではない、という響き。どこかで女を軽んじている。  だけど。追い詰められたらネズミだって猫を噛むこともあるのだ。 「それにしてもひどい格好だ。よく今まで誰にも見つからなかったな」  どこに隠れていたのか、と男が尋ねた。見つかったわ、と答えながら由紀子は左肩に掛けていたバッグの持ち手を握った。 「これはそのときの戦利品よ」  男が笑い声を上げた。何を言っている、という笑いだった。 「会社のロゴが入ったバッグが?」  答えずに、狭い通路に向かって足を進めた。不意に、大きく足元が揺らいだ。地震だろうか、と由紀子は思ったが、そうではないようだった。男が時計を見ながら、もうそんな時間かとつぶやいていた。おそらく、ビル内のどこかを爆破したのではないか。だが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。 「待て」  男が叫んだ。数歩進んだところで、そのまま振り向いた。男が虚をつかれたように立ち止まった。  バッグに手を突っ込む。どれだろう、余計なものなんか入れなきゃよかった。金属の感触。掴んで、そのまま出した。  手の中に手榴弾があった。そしてもうひとつ、ガラスの小瓶が薬指と小指の間に引っかかっていた。 (何、これ)  関係ない。そのまま腕を前に突き出した。 「退がって。爆発するわよ」  男が怯えた表情で一歩退いた。手榴弾をかざしながら、退がって、ともう一度叫んだ。  男が恐れているのが手榴弾ではなくて、二本の指の間に挟まったガラス瓶だということを、由紀子は気づいていなかった。      11 [#地付き]01:05PM  女が握っている瓶に入っているのは、液状になったプラスチック爆弾だった。振るだけなら何も起きないが、強い衝撃を与えて瓶が割れれば爆発してしまう。  女を撃つことは簡単だったが、その結果として女が倒れれば瓶が割れる可能性があった。ピンを外さなければ何も起きない手榴弾とはそこが違う。退がらざるを得なかった。 「退がんなさいよ、退がるのよ」  女が叫んだ。言われるままに後退する。視界の隅に通り過ぎてきたエレベーターホールが映った。  このまま退がってエレベーターホールに飛び込んだ方がいい。男は瞬時に判断した。そこから女を撃てば、倒れて爆弾が爆発したとしてもホールの壁が爆風の直撃を遮ってくれるはずだ。経験がそれを教えてくれた。  男は女の目を見据えながら後ずさった。興奮した女が両手を振り回している。爆弾の威力を知っていれば、あんな真似は出来ないだろう。ダイナマイト数十本分の破壊力があるのだ。無知は強い、と思った。 「もっと退がりなさいよ」  今にも泣きだしそうな女の声が響いた。言われなくても退がる、と男は両腕を上げた。  エレベーターホールの角まで後退した。ここは安全地帯だ。壁を背にして女の様子を窺った。叫び声が続いている。今だ。  男が銃の狙いを定めた瞬間、いきなり女が手の中の手榴弾とガラス瓶を投げ付けた。 (しまった)  攻撃するより回避行動の方が先になった。身を翻して、エレベーターホールの角からフロアに飛び込む。顎が床に当たった。頭を両腕で保護しながら体を海老のように曲げて、爆発の衝撃に備えた。  何も起こらなかった。  伏せたまま数字を十まで数えた。やはり爆発は起こらない。フロアに目をやる。手前に手榴弾が落ちていた。ガラス瓶はどこに。あった。少し離れたところに転がっていた。瓶は割れていない。カーペットの上に落ちたので、割れなかったのだ。  男は跳ね起きた。女を捕まえなければならない。逃がすわけにはいかなかった。どうせ逃げ道はない。ウエストエリアに入るか、階段に行くしかないのだ。通路に目をやる。  女の姿はなかった。当然だ。じっとしているはずがない。逃げたのだ。通路の奥まで走り、ウエストエリアのドアを蹴破るようにして開けた。フロアに人影はない。  どこだ。どこにいる。中に入って目で女を捜した。会議室、パーテーション、ロッカー。  隠れる場所がないわけではないが、ここではない、と直感した。人間がいるのなら、気配ぐらいは残っているはずだ。  フロアを飛び出して、階段に向かう。どっちだ。上か、下か。どちらへ逃げるにしても、足音が聞こえるはずだ。耳を澄ました。  何も聞こえない。  そんな馬鹿な。裸足だったとはいえ、走れば足音は残る。数十秒も経っていないのだ。なぜだ。なぜ足音がしない。  もう一度非常階段を見渡した。どっちだ。上なのか、下なのか。  階段を駆け降り、下のフロアの扉を開けた。誰もいない。すぐにとって返す。上のフロアに出た。人影はなかった。どうなっている。混乱を抑えようと、男は深呼吸を繰り返した。  二十一階に戻った。ウエストエリアを抜けて給湯室前の通路に出ると、そこにバッグが落ちていた。拾い上げて前後をもう一度確認した。女の姿はない。完全に消えていた。 「どういうことだ」  つぶやきながら、通路の中央で男は呆然と立ち尽くした。いったい何が起きた。どこへあの女は消えたというのか。  とにかく、報告するしかなかった。自分の失態を認めたくはないが、他にどうすることも出来ない。無線機をザックから取り出した。  どれだけ叱責されることになるのだろうか。男の唇が震え始めていた。      12 [#地付き]01:06PM  手榴弾とガラスの瓶を同時に投げた由紀子の目に、男がエレベーターホールに飛び込む後ろ姿が映った。  指に引っ掛かっていたガラス瓶が、手を振ったために外れて下に落ちた。膝に当たって、そのままカーペットの上に転がった。  それはどうでもいい。手榴弾はイメージ通りに男の方へ向かって放物線を描いている。  男が爆風を避けるために隠れた。今だ。今しかない。振り向きざま、由紀子は給湯室に飛び込んだ。  銀色に鈍く光るシンクが右側にあった。半分以上残ったアイスコーヒーのグラスが置き捨てにされていた。  左には社員用の食器棚が置かれ、目の前には飲食物の移動用リフトがあった。迷うことなくジュラルミンの扉を上下に開いた。中を覗き込む。暗い。闇が穴の中に広がっていた。  顔を引っ込めて、扉の横で点灯している表示盤に目をやった。数字は�20�となっている。リフトは二十階に停まっているのだ。  迷っている時間はなかった。いつ男が戻ってくるかわからない。リフト坑に足から入っていった。恐怖で膝が震えた。  爪先で鉄製の階段を探った。先週、リフトの事故で女子社員が閉じ込められた時に、エレベーター会社の作業員がこの穴に入っていくのを由紀子は見ていた。  故障などの不慮の事態に備えて、リフト坑には非常用の階段が設置されているという話を総務部員から聞いて感心したのだが、まさか自分が入るとは考えてもいなかった。  この階段で二十階まで降りればいい。それほど難しいことではない。ワンフロア降りるだけのことだ。距離があるわけでもないはずだが、下を見降ろすと目が回った。昔から高い所は苦手だった。 (でも、降りなきゃ)  伸ばした左手が壁に当たった。全身のバランスを取りながら、腕を伸ばしてリフトの扉を閉めた。見つかったら終わりだ。  いきなりの闇。何も見えなくなる。暗いのはわかっていたが、これほどとは思っていなかった。圧倒的な恐怖心が由紀子の体を縛り付けて、動けなくなった。  ゴンドラの上にいた時とは違う。あの時は無我夢中だった。死ぬほど怖かったけど、考えるより先に体が動いた。今は動くことさえ出来ない。 (落ちたら死ぬわ)  リフトは二十階に停まっている。落ちればその上に叩きつけられることになるだろう。二十一階から二十階まで、何メートルあるのだろうか。  死なないかもしれない。二、三メートル、長くても四、五メートルだ。自分に言い聞かせるようにうなずいた。大丈夫よ、由紀子。死にはしない。  でも、と首を振った。絶対怪我する。足の骨ぐらい折れてしまうことは確実だ。ううん、当たり所が悪ければ本当に死んでしまうかもしれない。 (駄目だ)  こんなに暗いとは思っていなかった。動けない。手、足、すべての筋肉が動くことを拒否している。このままではいつか手足の力がなくなって、落ちてしまうだろう。  左手を伸ばして扉を探った。ここから出よう。それしか考えられなかった。あの男があたしを捕まえても、人質になっても、そんなことはどうでもいい。殺されるとは限らないもの。  だが扉は開かなかった。ロック部分を押しても引いても、まったく動かない。 (痛)  爪が割れる感触。思わず手を引いた。重心を失った体が宙を泳いだ。  落ち着いて、由紀子。お願いだから落ち着いて。  鉄の棒に足をからめた。唇を強く噛んで、湧き上がってくる恐怖心を抑える。死にたくない。こんなところで死にたくない。  扉は開かない。おそらく外からか、リフトの中からでなければ開けられない構造になっているのだろう。だとしたら、どんなに怖くても降りるしかないのだ。  右足を浮かせた。大丈夫、両手と左の足は階段を押さえている。落ちるわけがない。  そのまま、一段下に足を降ろそうとした。届かない。どうして。そんなに段差があるはずないのに。  両手が鉄の棒を握りしめていることに気がついた。恐怖のあまり、手が離れていなかったのだ。  力が入り過ぎて、肘が動かなくなっている。足が下の段に届かないのも当然だった。  右手の力を緩めるためには、意志の力と時間が必要だった。怖かった。落ちていくことが恐ろしかった。  長い時間をかけて、右手を鉄の棒から離した。両膝が信じられないほどの早さで震えている。素早く下の段を探った。指が棒に触れる。掴んだ。  同時に足が動いた。階段を一段降りる。  もう大丈夫。怖いけど、暗いけど、あとは同じ動きを繰り返せばいい。何度も自分自身に言い聞かせた。落ち着いて、時間はいくらでもある。  五メートルほどの距離だった。その五メートルを、二十分以上の時間をかけて降りていった。人生で一番長い五メートルだった。  見降ろすと、暗闇の下にかすかな明かりが漏れていた。横に長い線。二十階だ。リフトとリフト坑の間にあるわずかな隙間から、光が漏れているのだ。おそるおそる伸ばした足が、棒ではなく平面に触れた。リフトの屋根だった。 (先週、見ててよかった)  一週間前の救出作業を思いだしながら、由紀子は屋根を足で探った。突起物にぶつかる。屋根部分のハッチだ。  階段の棒を左手で握ったまま、右の手を伸ばした。届かない。何度か繰り返しているうちに、ようやく指が突起物に触れた。そのまま強く引く。  屋根が開いて中が見えた。グリーンの非常灯がリフトの内部を照らしている。ゆっくりと体を屋根の上に移して、開いたハッチから中に潜り込んだ。  狭い。扉の位置がわからない。手で探ると、金属の冷たい感触が伝わってきた。扉。そっと上下に開いた。  隙間が広がって、外の様子が見えた。誰もいない。もう一度確かめる。人がいる気配はなかった。  大きく扉を開けて外に出た。懐かしい給湯室の光景が由紀子を迎え入れた。ふらふらと立ち上がる。体がシンクに倒れ込んだ。蛇口に手を伸ばした。緊張で喉が渇ききっていた。  勢いよく水が流れ始める。手のひらで受け、そのまま口をすぼめて水を飲んだ。 (アイスコーヒーのグラスがない)  きれいに磨かれたシンクには、何も置かれてなかった。当たり前だ。ここは二十階だもの。  力が抜けていく。逃げ切ったのだ。とにかく、ここまで。  だが、まだ終わったわけではない。始まってさえもいないのだ。  シンクの縁を掴んで体を支えた。足に力を込めて、辺りを見回す。蛇口を捻って、水を止めた。給湯室の出口から顔を覗かせた。誰もいない。  由紀子はゆっくりと外に向かった。      13 [#地付き]01:07PM  携帯電話を折り畳んだ手を、小比類巻がスラックスで拭った。汗で濡れた指の跡がくっきりと残る。ため息が漏れた。 「山崎班、内藤班、共に地上に降りたということです。全員の無事が確認されたという報告がありました」  運が良かったな、とつぶやいた大島が短い足を組み替えた。 「だが、まだ終わったわけではないようだ」 「どういう意味です」  顔を上げて荒い息を吐き出した小比類巻の肩を、大島が太い指でつついた。テレビモニターの画面に、キャスターの霧島の顔が大写しになっていた。 「こちらは二十四階です」ハンドマイクを握りしめた霧島が、かすれた声を上げていた。「テレビジャパンの占拠、プラチナタワーの爆破と、犯人たちの動きは予断が許されない状況となっております。ここで少佐から中継の要請がありましたので、画像を二十四階からお届けします」  アップになった少佐が眉間に皺を寄せたまま、組んだ手の甲に顎を載せていた。目を伏せているその姿勢は、祈りを捧げる敬虔《けいけん》な信者のようだった。 「警察は我々の要求を拒否した」  おもむろに口を開いた少佐が、左手で顎鬚に触れた。正面からカメラを見すえた。 「その結果、事前に通告した通りプラチナタワーの爆破を決行せざるを得なかった。我々にとっても厳しい決断だった」  暗い表情でカメラを見つめた。深刻そうにうなずいた霧島が、わかります、と囁いた。 「非常に残念だ。今後二度とこのような不幸な事態を招かないよう、警察関係者に強く警告したい」  再び沈黙が流れた。少佐がまた目を伏せた。 「悪いのはすべて警察、というわけだ」コントレックスのボトルに手を掛けたまま大島がつぶやいた。「とにかく、この男の演出力だけは評価出来るね」  規則的なリズムで組み合わせていた両手の人差し指を手の甲に打ち付けていた少佐が、ゆっくりと顔を上げた。 「もう一度警察に要求を伝えたい」  電話機に手を伸ばした。すぐに呼び出し音が鳴った。 「残念だ、警視正」声が編成部フロアに流れ出した。「君は状況を理解していると思っていたが」  何も答えずに、大島がねじれた受話器のコードを弄《もてあそ》んだ。ところで、と画面の中の少佐が上半身を前に傾けた。 「確認しておくが、負傷者は出ていないだろうね」 「おかげさまでね」苦々しい声音で大島は答えた。「フロアがひとつ違っていたら、十人の警官が殉職していたよ」 「不幸中の幸いだな」静かな声がした。「警視正、祈った甲斐があったな。だが幸運が何度も続くと思われても困る。次はどうなるのか、我々にもわからない」 「少佐、君は軍人だな」  不意に大島が言った。少佐が肩をすくめた。 「否定するつもりもないが、肯定もしない。そんなことは関係ないだろう」 「少佐という呼び名もそうだが、君の態度は訓練された人間のものだ」無視して大島が続けた。「計画を立案し、その計画通りに実行していくのは世界中の軍人に共通する習性だ。もうひとつ、君はさっき時間の呼称を1300と言った。それもまた軍人の習慣といえるだろう」 「だから何だというのか」 「まだある」画面の少佐に、大島が丸い指を突きつけた。「君は明らかに東洋人だ。そしてきれいな日本語を用いているが、アクセントに気になる点がいくつかある。結論から言おう。君は日本人ではない。つまり」 「警視正」少佐がテーブルを平手で強く打ちつけた。「ここは君の無責任な想像を語るべき場ではない。私の国籍が君といったい何の関係があるというのか」 「関係があるから言っている。君の国籍にこそ、君がなぜテレビ局を占拠しているのか、その理由が隠されていると私は考えて──」 「要求を告げる」立ち上がった少佐が怒鳴った。「今から一時間以内に、風見川原発の機能を停止したまえ」 「少佐、君たちと私たちは立場を異にしている。だが妥協点はあるはずだ。原発の件は脅しに過ぎない。そうだろう」ひとつひとつ慎重に言葉を選びながら大島が言った。「君たちには別の、真の要求がある。そうだな」  カメラを見つめていた少佐が、サングラスを直した。聞いてくれ、と大島が繰り返した。 「要求を言ってくれないか。今の段階で、君が何を目的としているのか、私にはわからない。だが、君たちがそこから降りてくれば、私は今後君たちへの助力を惜しまない。約束しよう」  唇を結んだまま、少佐は何も答えなかった。大島が説得を続けた。 「私は事件を解決したい。そのためには君の協力が必要だ。少佐、君には要求がある。そのためには私が必要なはずだ。つまり、私たちはパートナーシップを結ばなければならない。そうだろう」  感心したように何度も首を振っていた少佐が口を開いた。 「驚いたな、さすがにキャリア組は洞察力に優れている。無論真の要求は別にある。原発の停止はひとつの象徴に過ぎない」  象徴? と口の中で言った小比類巻が一歩前に出た。それを制した大島が無言のまま次の言葉を待った。 「ただし、意味はある。その意味については、君自身が考えたまえ。もうひとつ言えば、我々が本気であることを諸君に理解してもらうためでもある。要求が受け入れられなければ、我々はプラチナタワーの全フロアを爆破していくつもりだ」 「言ってくれ。何がしたいんだ」 「最終的な要求については後で伝える。まずは原発の停止だ」少佐が落ち着いた表情で言った。「いいだろう、君にもう一度チャンスを与える。風見川原発の機能を一時間以内に停止したまえ。この要求が退けられた場合には、プラチナタワーの別フロアを再び爆破する。もうひとつ、今度は人質の一人が犠牲になるかもしれない、と付け加えておこう」  答える代わりに、大島は時計を見た。一時十一分だった。 「今から一時間後ということか」 「そうだ。では」  少佐が受話器を置いた。通話が切れるのと同時に、小比類巻が立ち上がった。 「今のは」 「公安だけでは話にならない」眠そうに目をこすりながら大島が言った。「防衛庁の協力も必要だろう。間違いなく奴らは軍人だ。もしかしたら、正式な所属ではないかもしれないが」 「いったい、どうして」  消去法だ、と大島が手首の骨を鳴らした。 「少佐の外見は明らかにアジア人だ。モンゴロイドだな。だが微妙に発音に不自然なところがある。中国でもなく、韓国でもない。となれば国籍はほとんど限定されるだろう」  もうひとつ、と椅子を回転させた。きしむような音が響いた。 「原発は経済産業省の管轄だったな」 「直接には原子力安全委員会ですが、原子力発電所事業全体については、経済産業省の指導下にあります」  小比類巻が答えた。 「本庁に連絡を。奴らは本気だ」  時計に目をやった。一時十二分。既に一分が経過している。二度と取り戻すことが出来ない一分間が費やされていた。  これからの一時間がどれぐらいの速さで過ぎていくのだろうか。おそらく今まで警察関係者の誰も経験していない濃密な時間になることだけは間違いなかった。大島は静かに目をつぶった。      14 [#地付き]01:12PM  助かったのはいいけれど、と由紀子は辺りを見回した。二十階、エレベーターホール。 (また戻って来てしまった)  イーストエリアでは�ブレイン�の中で男がコンピューターを操作している。ひとつ上のフロアには、あたしを探している男がいるはずだ。選択肢は限られていた。非常階段で二十二階まで出るか、それとも。  回れ右をして、ウエストエリアに向かった。扉を静かに開ける。コンピューターの作動音が耳に響いた。誰もいないことを祈りながら、由紀子は室内に滑り込んだ。  部屋の様子はイーストエリアとほとんど変わらない。中央には細長い通路があり、それを挟むように右側は天井まで届きそうなコンピューターの山脈が連なっている。反対側には、プリンターなどの機器類が所狭しと並べられていた。  違っているのは、その配置がイーストエリアと左右が正反対であることと、迷彩服を着た男がコントロールボックスにいないという二点だけだった。 (寒い)  両腕で自分の肩を抱いた。長袖のシャツワンピースが破れて、ほとんどノースリーブのようになっている。 �ブレイン�内はコンピューターの品質管理のために、室温が十八度に設定されていた。�ブレイン�の一番の問題点は、そこで働く技術者たちが例外なく冷房病にかかってしまうことだ、という話を思い出した。  辺りを見回した。部屋の隅のラックに男物のジャケットが掛けてあった。ハンガーから外して袖に腕を通した。寒ささえしのげれば、誰のものでも構わない。  持ち主はずいぶん大柄な男のようだった。裾が膝まで届いている。でも、その方が寒さしのぎになるだろう。余った袖を三重に折りながら襟元を合わせた時、指がリングに触れた。 (圭)  お願い、誰かあたしとあの人を助けて。ここから出して。  フロアの中央に進んだ。コントロールボックスの後ろに、コンピューターの管理技術者が使っている休憩用のソファがあった。目の前のテレビのスイッチをつけた。  男のアップが映し出された。見覚えのある顔だった。エレベーターから出てきた男。経理部を襲った男。窓ガラスを銃で撃った男。犯人たちのリーダーだ。  憎しみを込めて、由紀子はその端整な表情をにらみつけた。この男さえいなければ、こんなことにはならなかったのに。  男が電話機に向かって何か話している。ボリュームを少し上げた。 「フロアがひとつ違っていたら、十人の警官が殉職していたよ」  声が聞こえてきた。アナウンサーだろうか。違う。説得力はあるが、訓練された人間の声でないことは明らかだった。ではいったい誰が話しているのか。 「不幸中の幸いだな」男がゆっくりと答えた。「警視正、祈った甲斐があったな。だが幸運が何度も続くと思われても困る。次はどうなるのか、我々にもわからない」  わからないってどういうことよ。思わず立ち上がった。本当に、これだから男は信じられない。 「少佐、君は軍人だな」  また声がした。どうやら話している相手は警察の人間のようだった。画面の中で、男がゆっくり首を振っている。テレビをつけたまま由紀子は考え始めた。  このままでは、いずれ彼らに見つかってしまうだろう。時間の問題だ。どんどん事態は悪化している。あたしの存在を彼らが知ってしまった以上、逃げ切れるものではない。どちらにしても二十階の防火扉が閉まっているのだから、外に逃げることは出来ない。  どこかに隠れてしまえばどうか。いや、それも無理だ。人間が隠れられるような場所には限りがある。確かに建物自体が広いのですぐに見つかるとも思えないが、早いか遅いかの違いだけだろう。  犯人グループも人手が余っているとは思えない。それでも何人かは捜しに来るはずだ。二十階から二十五階のフロアを調べればいいのだから、それほど時間はかからないだろう。  それに、もし犯人たちをやり過ごすことが出来たとしても、圭がいる。胸元に手を当てた。あの人と一緒にここを出なければ意味はない。考えるまでもなかった。  何も出来ないかもしれない。犯人たちはプロで、あたしはアマチュアだ。戦って勝てる相手ではない。それはよくわかっている。だけど、誰も助けてくれないのなら、あたしが圭を助けるしかないじゃないの。 (生きていれば、いい事があるんだよ)  圭の口癖を思い出した。そうだね、本当に。こんな最悪の事件が起きても、ひとつだけいい事があった。あたしにとってあなたがどれだけ大事な人なのか、やっとわかったような気がする。  ケンカばっかりしてたけど、それでもあなたと別れなかったのは、惰性や意地なんかじゃない。あなたと一緒にいるのが一番楽しかったからだ。  あの時ホテルのレストランで、自信のない顔をしたまま圭はダイヤのリングを差し出した。手が震えていた。なぜだろう。仕事の時にはいつだって自信満々のくせに。馬鹿なんだから。  でも本当に馬鹿なのはあたしだ。だって、あたしはまだプロポーズの返事をしていない。  由紀子は閉じていた目を開けた。どうすればいいのか。考えられることはひとつしかなかった。 �ブレイン�を動かして、防火扉を開く。もし可能ならば、エレベーターも動かせるようにする。  そうすれば警察も入って来られるはずだし、状況も変わっていくはずだ。運さえ良ければ、助かる可能性が生まれるかもしれない。  もちろん、簡単にはいかないだろう。でも、考えていても仕方がない。結果が同じなら、行動あるのみだ。  ソファから立ち上がった。とにかく、今は誰もいない。  扉に近寄って、細く開いた。エレベーターホールに人の姿はなかった。 (第一段階、突破)  由紀子はウエストエリアから外に向かって歩きだした。      15 [#地付き]01:19PM  窓の外を眺めていた少佐が振り返った。迷彩服の男が緊張に顔を強ばらせたまま敬礼した。青い目に脅えの色が浮かんでいた。 「緊急事態です」  顎に大きな擦り傷がついていた。しばらくその傷を見つめていた少佐が、何があった、と低い声で尋ねた。 「報告します。二十一階に女がいました」 「女?」 「確認出来ておりませんが、どうやらこのテレビ局の社員のようです」  冷ややかな視線を浴びて、迷彩服の顔色が蒼白になった。少佐が隣に立っていた金髪の白人に目をやった。 「ルーク、君は二十階から二十五階まで全フロアの捜索を完了した、と報告したはずだな」  白人が前に進み出た。 「間違いありません。人質以外のすべてのテレビジャパン社員は、全員十九階より下に退去させました」 「しかし、確かに女がいたのです」  顎の傷に手をやりながら男が言った。爆風を避けようとしてフロアにぶつけた時の傷だった。 「どこに隠れていたのだろう」ルークが首を捻った。「捜索は完璧だったはずですが」 「説明を」  短く少佐が言った。乾いた唇を舌で湿らせながら、迷彩服が口を開いた。 「二十一階を巡回中に、自分はその女を見つけました。確保しようとエレベーターホールまで追い詰めたのですが、逆に女はこれで自分を脅したのです」ポケットからオレンジ色の液体が詰まった瓶を出した。「やむなく隠れていた隙に、女は姿を消していました」  これは誰のものか、とルークが瓶を受け取りながら尋ねた。 「二十一階で争った際に装備を奪った、と女は言っていました」  答えながら肩に掛けていた機銃を差し出した。銃身の認証番号を確認した少佐の目に暗い光がよぎった。 「その女はどこにいるのか」 「わかりません。自分が身を隠していたのは十秒か、せいぜい二十秒ほどです。そのわずかな時間に物音をたてずに逃げるのは不可能なはずですが、エレベーターホールはもちろん、通路、非常階段、フロアのどこにもいませんでした。女は消えたのです」 「消えるわけがないだろう」  怒鳴り上げたルークを手で制した少佐が、窓の外に目を向けた。 「別命あるまで待機。君の処遇は後で決める」  窓の外を見つめている少佐の背中に敬礼して、迷彩服が部屋の隅に退がった。その場に残ったルークに、少佐が双眼鏡を渡した。 「見てみたまえ」  ルークがレンズ越しに見下ろすと、取材陣の集団が目に入った。腕章をつけた新聞記者、マイクを持ったアナウンサー、カメラを構えた男たち、照明を当てているテレビマン、携帯電話にかじりついているのはラジオ局の人間なのだろうか。道路にはテレビジャパン以外の全放送局の中継車が並んでいた。 「予想通りですね」  うなずいたルークが双眼鏡を返した。ところで今の件だが、と少佐が下の様子を見つめながら言った。 「失態だな」  無言のままルークが視線を床に落とした。 「……二十一階との連絡が取れなくなっていたことには気づいていました。無線の故障かと思っていたのですが、もっと早く確認するべきだったかと」 「判断ミスだな」  双眼鏡を目から外した少佐が窓を背にして向き直った。いつの間にか、その手に拳銃が握られていた。凍りついたような表情を浮かべたルークが、その手元を見つめた。 「すぐに捜し出せ」 「はい」 「時間はある。君の責任で女を捜すのだ。二十階から二十三階まで、ビル内を徹底的に捜索せよ。イーストエリア、ウエストエリア、エレベーターホール、非常階段、その他すべての場所を調べて問題の女を見つけるように」 「必ず」  背筋を正してうなずいたルークが腕の時計に目をやった。一時三十一分。 「私に撃たせるなよ」  それだけ言って、少佐が銃をジャケットの中にしまった。ルークの口から小さな息が吐き出された。 「必ず捜し出します」  当然だ、と少佐が胸に手を当てた。 「我々が今こうして生きていられるのは、過去のどんな場合にも、すべての不安要素を完全に排除してきたからだ。それを忘れてはならない。違うか」  言い捨てた少佐に、もちろんです、と答えたルークが足早にその場を去った。伸ばした指先が、細かく震えていた。      16 [#地付き]01:47PM  大島警視正の要望に基づいて、本庁の長崎部長と原子力安全委員会の須田委員がテレビジャパンに到着したのは約三十分後のことだった。編成部に設けられた捜査本部に入った二人を、小比類巻と栗原が出迎えた。  大島警視正は、と尋ねた長崎に、小比類巻がデスクを指さした。コントレックスのボトルが半透明の壁を作っていた。その後ろにいる、という意味だった。  小さく頭を下げて立ち上がった大島の膝がデスクにぶつかった。その反動でペットボトルがフロアに転がって、乾いた音をたてた。  失礼、とぼんやりした顔のままつぶやいた大島が先に立って、編成部に備え付けられている来客用のソファに二人を案内した。 「こちらは東京技術工業大学の須田教授。原子力安全委員会の委員だ」  長崎が紹介した。寝癖のついた白髪まじりの髪をかきあげながら、中年の男が頭を下げた。 「わざわざどうもすみませんね、教授」人なつこい顔で大島が言った。「お忙しいところ、本当に申し訳ない」  とんでもない、と須田教授がかぶりを振った。ところで、と大島が丸い頬をこすり上げた。 「教授、率直に言って、風見川原子力発電所の緊急停止は可能なのでしょうか」  それはもう、と須田が嬉しそうにうなずいた。その声は九官鳥のように高かった。 「原子力発電所には、安全管理のためにいくつものシステムが備えられていましてですね、地震その他の非常時において、当然ですが何よりもいわゆる臨界事故を防がなければなりませんから、最終的には手動停止という手段も含めて、原発を即時作動停止状態に導くことが可能になっております。これはフェイル・セーフと呼ばれているシステムで、特に地震大国である日本におきましては」 「本庁の見解を伝える」長崎が早口で言葉を挟んだ。「原発の停止は許可出来ない」  口の中で何かつぶやいた大島が、ソファに座り直した。両手の指を組み合わせて、胸の前で円を作った。 「では、本庁に何か代案は」  落ち着いた声だった。顔をしかめながら長崎が首を振った。 「原発を停止することなく、事件を解決するように」  命令だ、とほとんど聞き取れない声で言った。大島が苦笑を浮かべた。 「待ってください」  小比類巻が前屈みになった。その目が血走っていた。階級は二つ下だったが、現場の捜査官として抗議をせずにはいられなかった。 「技術上の問題がないのであれば、これ以上の被害を出さないためにも犯人の要求を呑むべきでしょう。違いますか」  長崎が視線を外した。部長、と小比類巻がテーブルを強く叩いた。 「言いたいことはわかる」  落ち着け、と大島が手を前に出したが、目を怒らせたままの小比類巻は姿勢を崩さない。仁王像のような顔を見上げたまま、長崎が銀縁の眼鏡のフレームに触れた。 「君たちの立場は理解している。だが影響が大きすぎるのだ。風見川原発は都下及び東京二十三区を中心に、北関東の一部に至るまで広範囲にわたって電力を供給している。それがストップした場合、交通機関をはじめ各方面に重大な影響を与えかねない。それはわかるだろう」 「もちろんです。しかし、何か事故があれば、原発は停止せざるを得ないわけでしょう。何年か前に起きた東海村原発事故のときも、原子炉を停止したはずです。ということは人為的な方法で原発を停止しても」 「あれは事故だ。今回とは話が違う」長崎の顔が歪んだ。「本音をいうと、原発の停止にはリスクが伴う。どのような事態を引き起こすのか予想もつかないのだ」 「説明しますとですね」須田が話を引き取った。「原発というものは一年間に最低一回、状況によっては数回、品質管理のための検査を行います。これは、万全の準備の下、予定を立てて実施されますので、今まで原子炉そのものに支障を来《きた》した事例はないわけです。ただ、突然の事故などのために緊急停止した場合には、停止後にどのようなことが起こり得るか、はっきりした結論が出ていないんですね。何しろ、実験するわけにもいきませんから。同時に、事件解決後には運転を再開することになるわけですが、これについても保証がないのです。従いまして私どもとしましては」 「今はそんなことを言ってる場合じゃないでしょう」我慢出来なくなった小比類巻が強い口調で話を遮った。「ここまでの事件の経過を見ていればおわかりの通り、犯人はプロです。しかも本物のプロなんです。奴らはもう既にプラチナタワーを爆破している。下手すれば連中は原子炉だって爆破しかねないんですよ」  それ以上の問題があるのだ、と長崎が細い目を吊り上げた。 「彼らの要求を受け入れたとしよう。そうなれば、今後原発を狙うテロリストの要求はすべて呑まなければならなくなる。安易に屈するわけにはいかないのだ」  確かに、とそれまで黙っていた大島が丸い顔を小刻みに振った。 「警察は犯罪者の、特にテロリストの脅迫に屈してはならない。これは絶対的な原則だよ、小比類巻警視」 「そういうことだ」現場の指揮官が納得したことに安堵した長崎が、ソファに深々と身を沈めた。「とにかく、原発の停止は認められない。これは本庁見解であり、最終命令だ」 「ですが、それでは彼らとどうやって交渉しろとおっしゃるんですか」  上からのしかかるようにして小比類巻が言った。ほとんど怒鳴り声に近い。顔と顔がぶつかりそうになって、長崎が体をソファに埋め込ませた。 「こちらの立場も理解してもらいたい」苦しそうに目を逸らした。「原発はアンタッチャブルな存在だ。我々が関与出来るものではないことぐらい、君だってわかってるはずだろう」 「ですが」  なおも抗議しようとした小比類巻の前に、大島が太い腕を差し出した。時計の針が一時五十分を指している。 「議論している時間はない」  わかっていますが、と口を尖らせたまま小比類巻が大きな体を元の位置に戻した。重圧から逃れた長崎が小さく息を吐いた。 「教授、ひとつ教えていただきたいのですが」  向き直った大島に、何でしょう、と事の重大さを理解していないのか、機嫌良く微笑みながら須田が言った。 「私がわからないのは、仮に原発の機能を停止した場合、犯人はどうやってそれを確認するつもりなのか、ということなんです」  ああ、それはいい質問ですね、と須田がうなずいた。講義を受けている学生に対するような態度だった。 「まず考えられるのは、原発内に犯人の協力者がいる場合ですね。これが最も確実性が高い。つまり運転停止を確認した段階で、犯人グループに電話その他の通信手段を通じてそれを伝える方法です」 「そんなことはあり得ない」長崎が吐き捨てた。「原発の従業員は厳重な身元確認がなされている。協力者などいるはずがない」  そうであることを願います、と大島がつぶやいた。 「では、もし協力者がいないとしたら?」  テーブルを二本の指で弾いた。そんなに難しく考える必要はないでしょう、と須田が寝癖のついた髪をまた撫でつけた。 「原子炉の運転を停止すれば、当然発電が止まります。結果として停電が起きるでしょう。おそらく犯人グループはこのビルを含めたお台場一帯、及び都内の停電を確認することで、原発停止を認知するのではないかと考えられます」  でしょうね、と大島が小さくうなずいた。 「停電はどのぐらいの範囲にまで及ぶのですか」  難しい問題です、と須田が腕を組んだ。 「確かに二十三区に電力を供給しているのは主に風見川原発ですが、それ以外にも都内には複数の発電所から電気が送られています。電気はいくつかの送電所に分散され、そこから各区域に分配されているわけですが、風見川を強制停止した場合どうなるかは予測が非常に困難です」  大事そうに抱えていた鞄を開き、几帳面にファイルされた資料を取り出した。 「二〇〇三年八月に北米地域で起きた大停電は、オハイオ州クリーブランドの火力発電所が電力系統から脱落したことを端緒として連鎖的に発生したものという調査結果が出ています。日本はアメリカと違い、電圧不安定、周波数異常、過負荷の異常現象の発生防止を原則として整備されていますので、風見川原発が稼働停止してもその影響が広範囲に及ぶとは考えられません。しかし需要に見合うだけの供給量がなければ、例えば都内の半分以上の地域で停電が起きるのは避けられないでしょう。あくまでも、ざっとした計算ですが」  テーブルの上に資料を広げた。細かい数字とグラフがびっしりと並んでいた。 「とにかく、原発が止まれば停電が起きるわけですね」  大島が言った。おそらくは、と慎重な口調で須田が答えた。学者らしい言い方だった。 「原発停止後、即時停電となるかどうかはわかりません。過去に事例がありませんから。しかしいずれにせよ電力の供給が止まれば、停電になることだけは間違いありません。時間の問題ですね」  待ちたまえ、と長崎が大きく手を振った。 「だが、そうなればこのビルも電気が止まってしまう。犯人たちが何を訴えたいのか知らないが、それではテレビ中継も出来なくなる。テレビを通じて何かを訴えるという彼らの目的そのものが潰《つい》えてしまうことにならないだろうか」  いや、そうではありません、と物憂げに須田が首を動かした。 「先ほど警察の方からいただいた資料によりますと」どこに入れたかな、と鞄の中をかき回し始めた。「どこのテレビ局でもそうですが、このテレビジャパンにも緊急時の自家発電システムが装備されております。停電が起きた場合には」  ありました、と笑みを浮かべて資料を取り出した。分厚いマニュアルの表紙に『テレビジャパン・エマージェンシー・システム』という文字が並んでいる。目次を指でなぞって、頁を開いた。 「ここに書いてありますが、�電力の供給が不十分になるため、緊急性のない場所、トイレ、廊下、駐車場、屋上のライトアップ、その他エレベーター、焼却炉、プールなどの配電をカットするが、放送及び社員の業務に支障を来さないように電力を確保する�ことを目的とした地下の自家発電機能が作動します。おそらく犯人たちも、このことを知った上で行動しているものと思われますが」  もう十分だろう、と長崎が立ち上がった。 「原発の停止は許可出来ない。そのことを前提にして犯人の説得にあたり、事件を解決してほしい」  あのですね、と口を開いた須田を小比類巻が睨みつけた。その眼光の鋭さに大学教授がソファの上で体を縮めた。 「しかし、それは不可能です。ここは彼らの要求を呑むべきではないでしょうか。もし拒めばどういう事態が生じるか我々には責任が」 「命令は伝えた」  長崎が言い放った。対抗するように小比類巻も立ち上がった。睨み合う二人の捜査官をよそに、もうひとつだけよろしいですか、と大島が丸っこい指で資料を指さした。 「教授、原発を停止せずに電気を止めることは出来ませんか」  須田がいきなり大島の手を掴んだ。強く握ったまま、その手を何度も振った。 「私もそれを言いたかったのです」せかせかとした動きで鞄の中から別のファイルを取り出した。「これは春日変電所のマニュアルなのですが」 「なるほど、この辺りは春日から電気が送られてきているわけですね」  うなずいた大島の前で須田が頁をめくった。いったい君たちは、と言いかけた長崎を無視して説明を始めた。 「あのですね、発電所というものは単純に言えば動力機によって電力を起こすわけです。しかし電力を起こすだけで配電は出来ません。発電所の電気を、送電線によって変電所まで送る必要があります。実際には更に配電線につながる二次変電所もあり、電力会社の違いによって多少の差異もあるので一概にはいえないのですが」 「何が言いたいのですか」  尋ねた小比類巻の鼻先で、うるさそうに指を振った。 「具体的に言いますとですね、この港区周辺に電力を配給している春日変電所からの配電を停止すればよいのです。もちろん、このあたりはかなり大規模な停電状態になりますよ。しかし、各方面の了解が取れれば、それほど大きな混乱になるとは思えませんが」  教授がおっしゃっているのはね、とソファに浅く腰かけたまま大島が微笑んだ。 「原発を停止しなくても、春日変電所からの送電を停めれば、犯人たちには原発を停止したように見える、ということだ」  大島の目を見つめたまま、ゆっくりと小比類巻がソファに腰を下ろした。 「彼らを騙《だま》すわけですか」  聞こえが悪いな、と大島が血色のいい頬を撫でた。 「本部の通達通り、確かに原発の停止には困難が伴う。警察がテロリストの脅迫に屈することは、絶対に避けなければならない。だが、出来ませんでしたでは犯人も納得しないだろう。つまり私が言っているのは、本庁も、犯人も面子《メンツ》を失わずにすむ妥協点というわけだ」  それなら命令違反にはならないな、と長崎がつぶやいた。小比類巻が須田の肩を強く叩いた。 「どれぐらいの規模で停電は起きるのでしょうか」  計算してみましょう、と須田がノートパソコンを鞄から取り出した。      17 [#地付き]01:51PM  エレベーターホール側の扉を細く開いて、由紀子は�ブレイン�の内部を覗き込んだ。  奥行三十メートル、幅は十メートルほどのフロアのほぼ中央にあるコントロールボックスで、迷彩服姿の痩せた男が無線機に向かってしきりに何か話していた。さっきと同じだった。他にすることはないのだろうか。  あの男が問題だ。席を離れるのを待つしかない。男が動いたら、その機を逃さずに行動する。それが唯一のチャンスになるはずだ。  すぐにわかったのは、男が退屈しきっていることだった。無線機を切ってからも、今度は携帯電話のアンテナをいじったりテレビモニターのカラーバランスを調整したりと、神経症の患者のようにしきりに体を動かしていた。何かあればすぐに飛び出していきそうだ。  そうでなくても、人間である以上トイレぐらい行くだろう。もしかしたら少佐と呼ばれている男から、別の命令が下るかもしれない。  どういう理由にせよ、あの男がフロアから出ていったら、その瞬間を狙ってコンピューターを操作すればいいのだ。うまく出来るかどうか、自信はなかったが。  男を見つめながら、由紀子はじりじりと入り口のドアを押し開けた。振り向かれたら終わりだ。だが、中に入らなければ何も始まらない。  いつ男が席を立つにしても、イーストエリアにはエレベーターホール側と非常階段側と、二カ所の出入り口がある。男がどちらから出ていくかは、そのときにならなければわからない。どのように動いても対処出来るポジションはひとつだけ、つまり�ブレイン�の中、男の真後ろだ。  社内見学で何度か�ブレイン�の中に入ったことがあったが、内部は常にコンピューターが稼働しているために、他のフロアとは比較にならないほど騒音で満ちている。余計な音さえたてなければ、気づかれる心配はほとんどないはずだった。  少なくとも、このまま入り口にへばりついて男を見張っているよりは安全だろう。これでは誰が通りかかっても、すぐに見つかってしまう。必要なのは注意深さと、そして勇気だ。  迷彩服の男が籠もっているコントロールボックスのすぐ後ろには、通路を挟んでコンピューター技術者の休憩用スペースが設けられている。さっきウエストエリアの�ブレイン�で由紀子が座ったのと同じ場所に、ソファが置かれているはずだった。 �ブレイン�内で働いている技術者たちが、その場所を�休憩室�と呼んでいることも聞いていた。ソファの下なら、少しぐらい見られてもわかるとは思えない。あそこまでたどり着けばいい。  男がいるのはフロアのほぼ中央だ。さまざまな機械類が設置されているので、十五メートルの距離を進むのも、伏せてさえいれば問題はないだろう。最初のこの段階、つまりドアを開けて入り込む時に見つからなければいいのだ。  踏み出すのよ、由紀子。  押し開いた扉の中から音が漏れてくる。一定の間隔でプリントアウトされた印刷紙が排出されてくるときの機械音。各階から入って来るデータが自動的にキーボードを動かすときの操作音。電源が入るときに流れる警告音。作業の開始を知らせるチャイム。フロア全体に流れているコンピューター作動時のノイズ。さまざまな音が聞こえた。  男が再び無線機を取り上げて何か話し始めた。入るのなら今しかない。  由紀子は音に紛れるようにフロアに足を踏み入れた。四つん這いになって前進する。そのまま、すぐ右手にある巨大コンピューターの陰に隠れた。ほこりの匂いがする狭い通路を這うようにして進み続けた。  男の背中が見えた。コントロールパネルに手をやりながら、何か話している。報告でもしているのだろうか。由紀子がソファの陰までたどり着いたところで、男がいきなり無線機を置いた。呼吸が止まった。  鼻歌が聞こえた。聞き覚えのあるメロディ。アニメの主題歌だ。�新造人間キャシャーン�。緊迫した状況の中で、この男だけは違う場所にいるらしい。  ソファの陰は完全に死角になっていた。男が振り向いても見えないだろう。床とソファの間にある隙間に体を潜り込ませた。  窮屈な空間だったが、何とか全身が入った。手足を伸ばす。肘と膝が痛い。男の足がぶらぶらと動いているのが見えた。あとは待つだけだ。  いきなり無線機が鳴る音がして、由紀子は体を強ばらせた。男が足を組み直した。 「もしもし。いや、こっちは問題ない。なさ過ぎて困ってる」  自分の冗談に満足したのか、喉の奥で笑い声をたてた。 「見てない。何の話だ」  沈黙が続く。しばらく間があってから、男が答えた。 「ここに来るわけがないだろう、俺がずっといるのに。いや、全然わからない。何しろ少佐に、ここから絶対に離れるなと命令されているんでね」  あんたは今どこにいるんだ、と男が言った時、非常階段側のドアが開く音がした。黒の編み上げ靴が足早にフロアを進むのが見えた。 「ここだ」 「勘弁してくれよ、ルーク」  コントロールボックスから乾いた金属音が聞こえた。男が無線機を放り投げたようだった。 「バッテリーの無駄だ」 「クイーン、異常はないか」  男の足がフロアの中央に近づいた。こっちを見ませんように、と祈りながら由紀子は手足を縮めた。 「ないね、見りゃわかるだろ。今日本で一番平和な場所はここさ」  ライターの蓋が開く音がした。一瞬の間の後、強い外国煙草の匂いが鼻をついた。おい、と鋭い声でクイーンと呼ばれた男が叫んだ。 「ここは禁煙だ、書いてあるだろう。�ブレイン内での喫煙は厳禁です��ブレイン内への飲食物の持ち込みを禁じます�意味がわかるかい」  フロアに火のついた煙草が落ちた。編み上げ靴がそれを踏みにじる。 「さっぱり」 「コンピューターは精密機器なんだ」解説するような声がした。「ちょっとした温度、湿度の変化にも弱い。ましてや煙や水分なんてもってのほかだ。このフロアにはスプリンクラーもないんだぜ」  ルークが鼻を鳴らした。興味がないのは明らかだった。 「もう一度確認するが、誰も入ってきたりしてないだろうな」  俺はずっとここにいたんだぜ、とクイーンがつぶやいた。 「気がつかないわけがないだろうが。それにしても、その女ってのは誰なんだ」 「わからんが、おそらくはここの社員だろう。逃げ遅れたのか、隠れていたのか。とにかく、見つけ出さないと面倒なことになる」 「ここの社員は排除したと言ってたじゃないか」  抗議するようにクイーンが言った。 「見落としはなかったはずだが」 「しっかりしてくれよ」クイーンが不満気に鼻を鳴らした。「いよいよこれからって時に」 「わかってる。たかが女一人だ、すぐ見つかる」ルークが低い声で言った。「何か変わったことがあったら必ず連絡してくれ」  わかった、という返事を受けて、ルークが素早い足取りで出て行った。ソファの陰で、由紀子は溜めていた息を静かに吐いた。  しばらく立ち尽くしていたクイーンが、乱暴に椅子に座り直した。尻のポケットから拳銃を取り出すのが見えた。それで安心したのか、また鼻歌を歌い始めた。  いったい、いつになったら動いてくれるのだろう。由紀子は静かにその時を待ち続けた。      18 [#地付き]02:08PM 「資源エネルギー庁より入電、問題はありません」 「東京水上署の了解とれました。交通課及び生活安全課員全員が警備にあたります」 「日本道路公団より連絡、台場インター閉鎖」 「特機、現場に到着しました」 「ゆりかもめの運行を停止する旨、連絡ありました」 「第一、第二方面本部より応援の警備八百人が到着」 「レインボーブリッジ、検問開始」 「春日変電所、電力配電停止措置を完了しました。いつでも要請あり次第電力ストップします」 「港区立港陽台中学は休校。生徒は帰宅させています」 「報道協定締結。事件終了まで、原発停止の件は報道されません」 「聖ヨハネ病院の患者を現在女子共立医大に搬送中。要手術の患者以外はそのまま病院内で待機」 「湊バス、運行停止」 「NTTより、事実関係の確認を依頼されました。処理します」  すべての情報が前線本部に集中していた。入って来た情報を大島をはじめとしたスタッフが処理して、関係者と作成したチェックリストの項目に印をつけていく。  春日変電所からの送電が停止されることで影響が出ると思われるあらゆる関係者の協力が得られない限り、作戦は失敗に終わる。時間内に全部で二百五十以上ある関係団体すべての了解が取れるかどうか、大島にとっては賭けだったが、全項目がフェルトペンで赤く塗りつぶされていた。 「時間は」 「二時八分です」  小比類巻が時計から目を離さずに答えた。大島が静かにペンを置いた。 「間に合ったな」 「正直、間に合うとは思っていませんでした」  額の汗を拭いながら小比類巻がうなずいた。送電の停止ははかりしれないほどの影響を各方面に与え、その被害は大きなものになるはずだ。現代においてライフラインの中心が電気であることを、捜査官たちは思い知らされていた。  通常の事件捜査では不可能な措置だったが、警視庁にも切り札があった。対テロリスト対策ということになれば、総理大臣に直結している内閣危機管理室が直々に動き、各省庁への命令が可能になる。  今回の場合、警視庁からの緊急要請に応え、総理官邸が各省庁の大臣・次官クラスに直接働きかけた結果、春日変電所からの送電停止を成立させていた。 「本庁に連絡を。春日変電所の送電停止に関するすべての措置を終了、犯人の要求あり次第、送電を停止する。以上」  了解、とうなずいた小比類巻が立ち上がった。頭を振った大島がコントレックスのボトルを掴んだ。  その時、壁の時計のデジタル数字が、14:10に変わった。同時にテレビの画面が切り替わり、少佐の顔が映し出された。 「こちらはテレビジャパン二十四階の霧島です」  カメラが流れるように移動した。マイクを握り直した霧島が、ひとつ咳払いをしてから口を開いた。 「テレビジャパンが正体不明の武装集団に占拠されてから、既に四時間余りが経過しております。犯人グループは警察との交渉をすべてテレビで生中継するよう私たちに指示、そして一時間前に放送がありましたように、彼らは東京都内に電力を供給している風見川原子力発電所の運転停止を要求いたしました」  カメラが引いて、向かい合うようにして座っている霧島と少佐の姿が画面に映し出された。 「この少佐からの要求を警察関係者が受け入れるかどうか、今から犯人と警察による交渉が開始されようとしております。こちらからは警察側の動きがまったくわかりませんが、少佐にはあくまでも余裕があるようで、先ほども勝算はあると力強く語っておりました。ただ今より、少佐が警察関係者に連絡を取る模様です」  実況を続けていた霧島の唇が動きを止めた。少佐がゆっくりと左手の人差し指で電話のリダイヤルボタンに触れた。しばらく間があってから、電話機に接続されたマイクが呼び出し音を拾った。 「電話です」  小比類巻がうながした。テレビから流れて来るのと同じリズムで、目の前の電話機が鳴っている。落ち着いた表情で大島は手を伸ばした。 「警視正」画面の中の少佐が囁くように言った。「忙しそうだな」 「おかげさまでね」  それだけ答えて次の言葉を待った。少佐がテーブルに置かれていたティーカップの把手を持ち上げた。 「さて、そろそろ時間だ。返事を聞かせてもらおう」 「我々は約束を守るつもりだ。原発停止の準備は整っている」  そう答えた大島が、傍らで携帯電話を握りしめたまま、指示を待っている小比類巻に目をやった。春日変電所は前線本部からの命令で、いつでも配電のシャットダウンが可能になっている。結果として台場地区を中心に港区の三分の一が停電することが予想されていた。  熱い、とひと口紅茶を啜った少佐が顔をしかめた。 「約束を履行したまえ。風見川原子力発電所の運転を停止するのだ」  大島が片手を挙げた。大島がうなずくのを確認してから、小比類巻が電話に向かって命令を発する。 「ご苦労だった」少佐が紅茶をティースプーンで掻き混ぜた。「よくこれだけの短時間で原発停止を認めさせたものだ」 「人命は原子力発電所より重い。そうだろう」  少佐の手が止まった。 「まさかとは思うが、原子力発電所ではなくて変電所で電気を停めるような、そんな姑息《こそく》な手段を使ってはいないだろうな」  カップに口を近づけながら言った。小比類巻の視線が泳いだ。 「我々は約束を守る」  眉一本動かすことなく大島が答えた。会話が途絶えた。その時、編成部の照明が一瞬明度を落とした。おや、とテレビ画面の中で少佐の顔がわずかに上を向いた。 「始まったようだ」  すぐに女性の声でアナウンスが流れ始めた。 『電気関係の事故が発生しました。予備電源に切り替えます。業務に支障はありません。繰り返します、電気関係の事故が……』  テレビジャパンの自家発電装置は�ブレイン�機能と組み合わされている。事故などの理由で外部からの送電が停止した場合、不要不急の場所、あるいは部署への電力供給は自動的に制限される設定になっていた。編成部内でも、三割ほどの蛍光灯が明かりを消している。  少佐が立ち上がった。左手に双眼鏡を持っている。窓の外に視線を送った。しばらくそのままの姿勢でいたが、安心したような笑みを浮かべて振り向いた。 「結構。なかなか興味深い眺めだ。見てみるかね」 「後でじっくり見させてもらうよ。それより少佐、我々は約束を守った。今度はそちらの番だ。人質を解放してくれないだろうか」  大島が抑えた口調で言った。ヴィーナスフォートのイルミネーションが消えているが、ともう一度少佐が顎を窓に向けた。 「見た方がいい。こんな光景はそうそう見られるものではない」  後だ、と答えた大島の声音がかすかに強ばっていた。その手がしきりにネクタイをいじり始めていた。 「我々は君の要求に従った。繰り返すようだが、人質を解放してほしい」 「それはどうかな」  椅子に座り直した少佐が冷笑を浮かべた。大島の肉厚な右手が受話器を握りしめた。 「どういう意味だ、少佐。現在、君も確認したように、この台場地区を中心として停電が発生している。すべてそちらの要求通り、風見川原発の運転を停止したためだ。我々は事態の解決を望んでいる。そのために、君たちの要求を受け入れた。そうではないかね?」 「そのようだな。ただ、問題がある。これだ」  少佐がカメラの前に腕時計を突き出した。 「それが」  どうした、と言いかけた大島が口をつぐんだ。まさか。 「時間だ。既に約束の時間を五分過ぎている」  文字盤で秒針が動き続けている。表示されている時間は二時十五分だった。 「先ほど私は、二時十分までに原子炉を停止するように要求した。警視正、時間は貴重なものだ。お互いにね」 「待ちたまえ、少佐」  理不尽な発言だ、と前線本部にいた全捜査官が思った。少佐が連絡を取ってきた段階で、既に時計の針は二時十分を回っていたのだ。 「時間が過ぎているも何もないだろう。五分だ。五分間で何が変わるというのだ」 「君はどうも勘違いしているようだな」少佐がジャケットの内ポケットから拳銃を取り出した。「ルールを決めるのは我々だ。君たちはそれに従うしかない。私が時間を決めたら、君はそれを守るしかないのだ」  拳銃を掴んだ少佐が腕をまっすぐに伸ばした。銃口はカメラに向いていた。画面がかすかに震え始めた。 「やめろ!」  小比類巻が叫んだ。とっさに受話器を手のひらで押さえた大島が動くな、と唇だけで言った。 「聞こう。いったいどうする気だ」  ゆっくりと少佐がカメラを見つめた。感情のない目のまま、拳銃をテーブルに置いた。 「五分後、プラチナタワーを再び爆破する。約束違反に対するペナルティだ」  大島が目配せした。すぐに小比類巻が外にいる警備担当者に連絡を取り始めた。 「だが、十分間の猶予を与えよう。それだけあれば、問題はないはずだ。既にプラチナタワー内に残っている者はいない。そうだな」少佐が拳銃の弾倉を抜いて弾丸を確かめた。「もちろん、周囲の警備、マスコミ関係者には退がってもらう必要があるだろう。警視正、この十分間は君の努力に対する報酬だ。これでも私は君の立場を考えているつもりだよ」 「待ってくれ、少佐。せめて一時間、いや三十分でいい。もう少し時間をもらえないだろうか。万が一にでもタワー内に残っている人間がいないかどうか、もう一度だけ確かめさせてほしい」  単なる時間稼ぎのための発言ではなかった。一時間の猶予があれば、爆発物処理班を総動員してプラチナタワー内を再捜索出来る。だが画面の中の少佐は無表情のまま首を振るだけだった。 「繰り返す、今から十五分後だ。それからもうひとつ、約束が守られない場合には人質の一人が犠牲になる、と先ほど伝えたが今回は見送ろう。これもまた、君への配慮だ。では、また連絡する」  モニターの画像が切り替わって、プラチナタワーの全景が映し出された。女性のアナウンサーがタワーを指さしながら実況し出した。 「小比類巻、プラチナタワーの周りにいる連中を退がらせろ。奴はやると言ったことはやるぞ」 「了解」  小比類巻が通信班に指令を伝えるために大股で歩き出した。編成部の前線本部に入ってきた捜査官の一人が、廊下の明かりがすべて消えています、と報告した。停電のためだった。 「わかっている」  計算済みだ、と大島が答えた。敬礼をした捜査官が足早に立ち去っていった。入れ替わりに戻ってきた小比類巻が、前回の爆発以降危険と思われる地帯からはマスコミや一般人はもちろん、警察も退避が終了しています、と報告した。  それにしても、とモニターを見つめた。 「奴は……何がしたいんでしょう」  指定の時間にわずか数分遅れたが、それでも原発停止というほとんど不可能な要求に、見せかけとはいえ警察は応じた。にもかかわらず犯人グループは爆破を強行するという。いったいなぜなのだろうか。 「最初から少佐はもう一度タワーを爆破するつもりだったのだ」大島が袖のボタンを外しながらぶつぶつと口の中でつぶやいた。「何かの示威行動なのか。それとも他に目的があるのか」  自分自身に問いかけ続けている。小比類巻が強引に割り込んだ。 「何のための示威行動ですか。彼らが本気であることは十分こちらにも伝わっています。時間に遅れたというのなら、それは奴らの連絡が遅れた、というべきではありませんか」  触れば火傷しそうな勢いで目を怒らせていた。対照的に落ち着いた様子の大島が、飲むか、と差し出したコントレックスのボトルを払いのけた。 「落ち着いている場合ですか」  こんなときにこそ冷静にならなければならない、と大島が水で喉を潤した。 「わからないことはまだたくさんある。私が不思議なのは、彼らが死傷者を出さないように留意していることだ。なぜそんな必要がある。テレビ局を占拠して、人質まで擁している凶悪犯なのに」  わからない、と首を振った。空になったボトルを小比類巻に渡した。 「買ってきてくれ。やはり十本では足りなかった」  無言のまま小比類巻が受け取ったボトルを強く握りしめた。プラスチックの容器が音をたててつぶれた。 「エビアンやボルヴィックを買ってこないように気をつけてほしい。私はコントレックスしか飲まない」  うなずいた小比類巻に背を向けて、大島がテレビモニターに目をやった。      19 [#地付き]02:21PM  スチール製のデスクに背中を預けたまま、岡本圭は何十回目かのため息をついた。どうしてあの時、離れた席に座ったのだろう。 (席が空いていなかったからだ)  編成部員の圭のデスクは経理部にない。由紀子は自分の席に座り、自分は空いていた椅子に腰掛けた。  危険な状況だという認識はあった。迷彩服の男たちが持っていたのが本物の銃器であること、何かの番組の仕込みではないこともわかっていた。にもかかわらず、守るべき唯一の人間から離れてしまった。なぜだ、と頭を抱えた。  近くにいれば。  助けられただろうか。一瞬の出来事だった。飛び出して腕を掴んで、抱き止める。そんな映画のような真似が出来たかどうかはわからない。  だが、手を差し伸べることぐらいは出来たはずだ。そうしていれば、もし救えなかったとしても、彼女に自分の想いを少しでも伝えられたのではないか。  それなのに俺は、何が起きたのかもわからないまま、呆然とあいつが窓から落ちていくのを見つめていただけだった。俺は馬鹿だ。  後頭部が鈍い音をたてた。無意識のうちに頭を振っていた。デスクに当たって、虚ろな音が響いている。  痛みは感じなかった。あいつはどうだっただろう。怖かったはずだ。痛かったはずだ。あんな落ち方をして、恐怖を感じない人間などいない。  思いきり後頭部をデスクに叩きつけた。激しい音がして、部屋にいた全員が顔を上げるのがわかった。どうでもいい。俺はここにいる他の連中とは違う。誰よりも愛している女を救えなかった。最悪の男だ。  首ががっくりと落ちていく。立てた膝の間に顔を挟んだまま、圭はまたため息をついた。      20 [#地付き]02:22PM  テレビの画面は、ホテル日航前の通りを映し出していた。信号機が停まっているために、数名の交通機動隊員が道路の中央に立って通行する車輛を誘導していた。  思ったより混乱は少ない、とモニターを見ながら大島は思った。車輛の通行量が通常と比較して異常に少ない。そのために、道路の流れはスムーズだった。  時折レインボーブリッジの画像が挟み込まれたが、こちらも現実とは思えないほどに空いている。橋の出口に配置された検問所では、所轄の交通課員たちもどうしていいのかわからずに手持ちぶさたな様子だった。  だが、当然のことかもしれなかった。テレビ局が正体不明の集団に乗っ取られ、その様子が実況生中継されている。社会人であれ学生であれ主婦であれ、誰もがテレビに釘付けになっているのだろう。  その証拠に、道路を走っている車輛はトラックやタクシーなど業務用の車しかいない。日本中のすべての人間が、テレビで事件の推移を見守っているはずだった。 『……このように、風見川原発停止及び大規模な停電による被害、混乱は現在のところ生じておりません』  画面の中から女性アナウンサーがレポートを続けていた。風が強いために髪の毛が乱れていた。 『交通関係だけではなく、病院、学校などの公的機関、またその他の施設からも、大きな問題が起きたという情報は入っておりません』  当然だ、とつぶやいて大島が空になったコントレックスのボトルを並べ替えた。そのために万全の手を打ったのだ。  時計を見た。あと三分。少佐が予告したプラチナタワー爆破の時刻が近づいていた。 「外はどうなってる」  問題はありません、と答えた小比類巻が、届けられたコンビニエンスストアのビニール袋をデスクに置いた。中には十本のコントレックスのペットボトルが入っていた。  大島が右手で蓋をひねるのと同時に、画面が切り替わった。映し出されたのは二十四階ではなく、五階特設スタジオだった。男のアナウンサーがアップになった。 「たった今、犯人からのメッセージが届けられました」  言葉を切って、不安そうにあたりを見回した。 「どういうことだ」小比類巻が画面を睨みつけた。「いったい奴は何を」  座りたまえ、と言いながら大島がボトルの水をひと口含んだ。 「ここまで来たら、少佐が何をするつもりなのか、見届けさせてもらおうじゃないか」  小さく空咳をしたアナウンサーが顔を上げた。ひとつうなずいて、読みます、と低い声で言った。 「『警察並びに関係者に告ぐ。我々はプラチナタワーの爆破後、我々の立場を明らかにする。以上』」  捜査本部にいた捜査官が、大島を除いて全員立ち上がった。アナウンサーが説明を始めた。 「このメッセージは、つい先ほど二十四階から届いたばかりのものです。内容について警察当局はまだ把握していないということです」  聞いてないぞ、と小比類巻が何度も拳を手のひらに叩きつけた。 「にもかかわらず私どもテレビジャパンとしては放送せざるを得ませんでした。といいますのも、犯人グループから『このメッセージが届き次第即時放送すること、放送がなかった場合には人質を殺害する』という指示があったためです。お待ちください」  アナウンサーが顔を横に向けた。女の手が伸びて、一枚の紙を渡した。 「現在、プラチナタワーには関係者の退避命令が出ております。もしも勧告を無視して残っている方がいる場合には、すみやかに退去されるように再度お願い致します。ニュースを繰り返します、ただいま犯人からのメッセージが届きました。以下、読み上げます。『警察並びに関係者に告ぐ……』」 「いろいろと仕掛けてくるな」  大島がコントレックスの空きボトルを積み木のように組みたて始めた。太い指が器用に動いていた。 「どういうことですか」  振り返った小比類巻が尋ねた。まだわからない、と手を動かしながら大島が答えた。 「囲碁の布石と一緒だよ。簡単にわかるようなら意味はない。一種の心理作戦かもしれないし、陽動作戦かもしれない。いずれにしても彼らは真の目的を明かそうとしている。私の予想が正しければ、少佐はすぐにでも電話をかけて来るはずだ」  その言葉が終わらないうちに、目の前の電話が鳴り出した。微笑を浮かべた大島が内線ボタンを押した。 「大島だ」 「見た通りだ」  前置き抜きで少佐が言った。冷たい声だった。 「交渉はすべてテレビを通じて行う。そう言ったのは、少佐、君のはずだが」 「皮肉な物言いだな。いいのか、そんな態度で」 「同じだろう」  大島が目をつぶった。 「同じ?」 「こっちがどんな態度に出ても、君は君のやり方を通す。そうじゃないのか。だとしたら、私が何を言っても気にすることはあるまい」  脳裏に少佐の姿を思い浮かべた。電話で、あるいは放送を通じて少佐が発言したすべての言葉を思い返した。何度も繰り返し、反芻《はんすう》するように分析を重ねていた。大丈夫だ。感情で動く男ではない。  なるほど、と少佐がかすかな笑い声をたてた。初めて聞く血の通った声だった。 「その通りかもしれない」 「どういうつもりだ。まだ続ける気か」  始まってさえいない、と声が元通り無機質なものになった。 「今からプラチナタワーを爆破する」 「いったい何のためだ。少佐、もう十分だろう」  保険だ、と少佐が短く答えた。言葉の底に揺るぎない決意が満ちていた。 「保険?」 「爆破後、我々は我々の立場を明らかにする。おそらく諸君にとって好ましい存在ではないだろう。だが要求は受け入れてもらわなければならない。我々が何者であろうともだ。我々はやると言ったことは必ず実行する。それを理解してもらうために、この爆破は必要なのだ」 「私はわかっているつもりだがね」真剣な声で大島が言った。「だからタワー内の人間はすべて退避させている」 「その方がいい。我々もいたずらに犠牲者を出すつもりはない」 「待ってくれ、少佐。建物の中で爆発が起きればどうなる。火災の可能性だってある。そうなれば消防も含め、犠牲者が出るかもしれないじゃないか。少なくとも、絶対に安全だとは誰にも保証できないはずだ」 「絶対に安全だ」あくまで少佐の声音は冷静だった。「我々は偶然に頼ったりしない。火薬の量は調節してある。計算では火災に結び付く可能性はゼロだ。万一出火しても、プラチナタワーの消火設備なら十分に消し止められるはずだ。さっきもそうであったように」 「すべて計算済みというわけか」  陰気な声で大島がつぶやいた。もちろん、と低く少佐が応じた。 「少佐、こちらは君たちの要求をすべて受け入れる用意がある。タワーを爆破しても意味はないだろう。人質さえ無事にこちらに引き渡してくれればそれでいい。要求を言ってくれ」  時間だ、と少佐が言った。 「待ってくれ。もうひとつだけ教えてほしい」大島の声がわずかに高くなった。「なぜこんなことをする」  時間だ、と繰り返した少佐が電話を切った。直後に爆発の振動が伝わってきた。目をつぶった小比類巻が、口の中で呪いの言葉を吐いた。  モニターの画像が、スタジオから外の中継に切り替わった。プラチナタワーの上層階から黒煙が勢いよく吐き出されていた。ロングヘアーを風になびかせた女性アナウンサーが、耳元を押さえながら興奮した面持ちで爆発の状況について実況を始めた。 「たった今、犯人グループの予告通り、プラチナタワーが爆破されました。爆破が起きたのは二十二階のようですが、今のところ確認は取れていません。被害の状況は、下からでははっきりとしませんが、北側、つまりゴールドタワーとは反対側の部分に仕掛けられた爆弾が爆発した模様です」  ヘリコプターによる空撮の画像が映し出された。プラチナタワーの窓から流れ出していた煙の色が、見る間に薄くなっている。少佐の言葉通り、火災は発生していないようだった。 「こちらから見える限りでは、爆破された階の窓ガラスが大破、割れたガラスの破片がさきほどから路上に降り注いでいます」女性アナウンサーの実況が続いていた。「私たち報道陣、またビル関係者は安全な場所まで後退しておりますので、負傷者は出ていない模様です。いったいなぜ、犯人グループがこのような爆破行為を繰り返すのか、その理由は謎に包まれたままです」  お待ちください、と言って耳のイヤホンに手を当てた。二、三度うなずいて顔を上げた。 「たった今、爆破されたのは二十二階という確定情報が入りました。繰り返します、爆破されたのは二十二階です。二十二階にはテナントとしてイーストサイドに東洋不動産、ウエストサイドにはワールドメガバンク本社が入っておりますが、両社共に社員の避難は終了済みで、全員の無事が確認されています」 「便利な事件であることだけは間違いないですね」テレビを見ながら憮然とした表情で小比類巻が言った。「報告の必要がありませんから」  その通りだな、と大島が苦笑した。普通の事件なら今頃本庁から問い合わせが繰り返されているはずだが、すべてがテレビで中継されているために、爆破がどこで起きたのかを確認する連絡が一本入ったきりだった。ワールドメガバンクの側です、と通信班が答えていた。 「それだけは彼らに感謝してもいいかもしれない」 「この騒ぎを起こすことが連中の目的なんでしょうか」  待て、と小比類巻を制した大島がテレビに顔を向けた。再び画面が切り替わり、二十四階にいるアナウンサーの霧島が映し出されていた。 「こちらは二十四階の霧島です。ただ今の爆破に関しまして、犯人グループより緊急の声明があるようです」 「何を言うつもりなんでしょうね」  小比類巻が首を傾げた。 「自分の立場を明確にする、と奴は言った」大島がテレビを睨みつけながらワイシャツのボタンをひとつずつ外し始めた。「その言葉がどういう意味か、これでわかる」  カメラが霧島からパンする。バストショットの少佐が画面に映った。正面からカメラを見つめて、ゆっくりと口を開いた。 「たった今、プラチナタワー二十二階に仕掛けた爆弾を爆破させた」冷静な口調だった。「この爆破は、犠牲を出すために行ったものではない。あくまで警察関係者への警告に過ぎない」  言葉を切った少佐が自分を指さしながら、内ポケットからシガレットケースを取り出した。 「我々は好んで破壊活動を続けているわけではない。ある目的のためにしていることだと理解してもらいたい」  唇を尖らせたまま、顔を霧島に向けた。霧島が脅えた表情で口を開いた。 「少佐、今あなたが言った目的というのは何でしょうか」  顔を上げた少佐の頬に、皮肉な笑みが浮かんだ。 「それを説明するためには、まず我々の立場を明確にする必要がある。そうすれば嫌でも我々の目的が明らかになるだろう。我々は」  少佐がアップを要求した。カメラが近づいた。 「朝鮮人民軍偵察局特殊部隊だ」  唖然としたまま画面に見入っていた小比類巻の横で、けたたましい音をたてて椅子が倒れた。シャツの前を全開にした大島が立ち上がっていた。編成部内にいたすべての警察関係者が携帯電話を取り上げていた。 「……これは」  騒然とする編成部の中で小比類巻がつぶやいた。 「そういうことだ」  立ったまま、大島が大きくうなずいた。      21 [#地付き]02:28PM  背の低い男が、隣の男の肩を叩いた。耳栓を外した男がうなずく。 「移動だ」  背の低い男の命令に、座っていた四人の男たちが立ち上がった。 「次の準備にかかろう」  無言のまま、男たちが背中の装備を降ろした。      22 [#地付き]02:29PM  コントロールボックスの痩せた男が動かなくなってから、三十分以上が経っている。 (まさか)  寝てしまったのかしら、と男の足を見つめながら由紀子は思った。男の姿勢はまったく変わっていない。ただ、思い出したように聞こえてくる�ガッチャマン�のテーマ曲だけが、男が居眠りしているわけではないことを教えてくれていた。 (早く動きなさいよ)  音を立てないように注意しながら、順番に手足を伸ばした。冷たいフロアに横たわっていたために、すっかり体が冷えきっている。少しでも寒さを防ごうと、ジャケットのポケットに手を入れた。硬いものが指に当たった。 (何、これ)  社員証だった。カードの表で、初老の男が微笑んでいる。システム管理部担当役員石光優功。部署と名前が記されていた。 (このジャケット、石光役員のだったんだ)  言葉も交わしたことのない役員だったが、由紀子は心から感謝した。石光がジャケットを置き捨てたままにしていなかったら、この寒さに耐えられなかっただろう。社員証をまたポケットに戻した。 (クリーニングして返しますから)  無事にここを出られたら、ですけど。  胸の内でつぶやいた時、フロアに無線機の音が響いた。男が動く気配がした。 「こちらクイーン」久しぶりに聞く、鼻歌以外の男の声だった。「停電の影響はありません。このビルすべての電気が止まったとしても、ここだけは大丈夫ですから。ご報告した通りの状況です、少佐」  電話の相手は少佐らしい。由紀子は耳に全神経を集中した。 「では一分後。了解しました」  電話を切った男が元の姿勢に戻った。一分後に、何か起きるのだろうか。由紀子は腕の時計を見た。二時二十九分。  歌が聞こえた。何の曲だろう。知ってる曲だが、タイトルが思い出せなかった。今度は鼻歌ではなく、声に出して歌っている。きれいなメロディだ。  男の歌が終わった。そのとき、振動が伝わってきた。小さくフロアが揺れる。体の上でソファがわずかに動いた。爆発だ。激しい揺れではない。地震でいえば震度三というところだろう。どこが爆破されたのだろうか。  コントロールパネルからリモコンがフロアに落ちるのが見えた。揺れが収まるのを待って、男がリモコンを拾い上げた。  いきなり目の前のテレビモニターから、興奮した女子アナウンサーの声が流れ始めた。爆破はプラチナタワーで起こった、と伝えている。  しばらくその声が続いていたが、霧島の声が割り込んできた。画面が切り替わったらしい。少佐が話す声が聞こえてきた。ボリュームが上がって、スピーカーから聞こえる声が鮮明になった。 「……朝鮮人民軍偵察局特殊部隊だ」  朝鮮人民軍偵察局? 特殊部隊? それって、つまり北朝鮮ってこと?  少佐が語り始めた。アメリカの帝国主義、覇権主義がいかに誤っているか、世界中がアメリカの政策に欺かれている、と強い口調で訴えていた。  そういうことだったのか。だからこの人達はこんな無謀なことをしているのだ。  少佐の演説を黙って聞いていた男がいきなり立ち上がった。反射的に頭を引いた。肩がソファの脚にぶつかって、鈍い音をたてた。  決して大きくはない音だったが、�ブレイン�の中では異質な音だった。男の靴が向きを変えた。そのまま動かない。 「誰かいるのか」  声がした。足が一歩近づく。 (どうしよう)  血の気が引くときには、本当に音がすることがわかった。逃げ出したかったが、この場所では逃げようがない。  どうしてあたしはいつもこうなんだろう。ソファの下で横になったまま由紀子は唇を噛んだ。  足音が聞こえた。ゆっくりと近づいてくる。どうしよう、黙って捕まるぐらいなら、いっそ飛び出してみようか。さっきの男と比べたらまだ勝ち目はあるかもしれない。いや、駄目だ。男は拳銃を持っている。 「おい」  声が少し震えていた。もう一度靴音。それよりも大きな音が響く。自分の心臓の音だった。もう駄目だ。声。 「誰だ」  またゆっくりと踏み出す爪先が見えた。ソファのすぐ後ろだ。 「出て来い。逃げられないぞ」  ここまでだ。諦めるしかない。男の言う通り、逃げ場はなかった。ソファの下から出ようとした時、鈍い音がした。  音のした方向に男が靴を向けた。由紀子も同じように首を動かした。非常階段へと続くドアの向こうから、確かにその音は聞こえた。  また、音。  もっとはっきりした、大きな音だった。誰かが、何かを叩いている。男の右の靴が由紀子に、そして左の靴はドアの方に向けられている。  お願い、助けて。  知っている限りの神様に祈った。あっちに行って。お願いだから。  男が歩きだした。向かっていったのは、非常階段の側だった。 (何があったの?)  あの音は何なのだろう。全身から力が抜けていく。由紀子は自分の手を見つめた。爪が食い込んだ手のひらに、かすかに血が滲んでいた。 [#改ページ] [#小見出し]  Part3 TV JUNGLE[#「Part3 TV JUNGLE」はゴシック体] (二月十四日金曜日 午後二時三十分〜午後四時二十七分)      1 [#地付き]02:30PM 「我々は朝鮮人民軍偵察局特殊部隊に所属している」  少佐が繰り返した。モニターを通して送られる鋭い視線を、大島は見つめ返した。  北朝鮮特殊部隊は多くの謎に包まれている。日本だけではなく韓国、アメリカの情報機関もその分析に力を注いでいるが、今日に至るまで実態には不明な部分が多い。内閣情報調査室ではその実在すら疑わしいとする声さえあったが、これを覆す事件が一九九六年九月に韓国で起きていた。  北朝鮮の潜水艦が韓国東部沿岸で座礁、乗組員は艦を捨て上陸した。発見した韓国陸軍及び警察は彼らを包囲、降伏を迫ったが、拒否した乗組員は山に籠もり籠城戦を始めた。  当初韓国警察は相手の人数を把握していなかったが、北朝鮮潜水艦は小型であるため乗員の数は限られていると考えられた。想定では最大限五十人、状況から言って彼らの武装が不完全であることは間違いなく、事態の解決は容易であると思われた。常識的な判断と言っていいだろう。  ただ、韓国警察が知り得なかった事実があった。座礁した潜水艦の乗組員は北朝鮮特殊部隊員だったのだ。初動段階で約千人の警察官が動員されたが、歯が立つ相手ではないと理解するのに時間は必要なかった。数十人の犠牲者が出た段階で警察は陸軍に協力を要請、軍もこれを了承した。  最終的に韓国陸軍及び警察が動員した戦闘部隊の数は、のべ六万人という膨大な数になった。そして事件後に判明したのは、北朝鮮特殊部隊の人数が二十六人でしかなかったという事実だった。  二千三百倍という圧倒的な兵力の差をものともせず、驚くべきことに彼らは約二カ月にわたり、韓国陸軍と警察による攻撃に耐え、時には圧倒することさえあった。  もちろんその理由として、韓国政府が彼らを射殺することなく生きたまま捕らえるようにと命令していたこともある。しかし、わずか二十六人で数万人の訓練された陸軍と警察を相手に二カ月間抵抗を続けたその実力は信じ難いものだった。  やむなく捕縛命令は撤回され、射殺命令が出された。結局二十六人のうち二十四人が殺害される、あるいは自決するという形で事件は終結した。  韓国警察は残った二人のうち一人を逮捕したが、もう一人は現在に至るまで行方不明のままとなっている。フィクションの世界でさえあり得ない話だったが、これは厳然とした事実だった。  この事件について、部署には関係なく警視庁内部では詳細な調査資料がキャリア、ノンキャリアを問わず警視以上の職にある者に回っていた。もちろん大島もその資料を読んでいた。 「そういうことか」受話器を握り直した。「君たちの立場は理解した」 「わかってもらえたようだな」  威圧的な声がした。少佐が正面からテレビカメラを見据えている。 「我々がなぜ原子力発電所の停止を求めたか、これで理解出来ただろう」  ここまで冷静さを失うことなく事件に対処してきた大島の目に、初めて焦りの色が浮かんだ。少佐の発言はそのまま原子力発電所への自爆テロを敢行する意思表示だった。そしてそれをはばむ手段が、日本の警察にはない。  だがその事実を指摘するわけにはいかなかった。二人の交渉はテレビを通じて全国に流れている。大島の発言次第では、一瞬にして日本中がパニックに陥るだろう。  無言のままの大島に、画面の中で少佐が口元を歪めた。わかった、と大島がワイシャツの第一ボタンを外した。 「少佐、とにかくこれで我々は互いの立場を明確に理解した。その上で尋ねるが、君たちの要求は何なのだ」 「そうだ。お互いを理解しあうことが重要なのだ。我々もそうだし、国家間もそうであるべきだろう。違うかな」  皮肉な笑みを浮かべた。 「政治の話は抜きにしないか。事態を解決するにはその方が早いと思うが」  大島の言葉に、少佐の表情が変わった。 「日本人はいつもそれだ。何もかも、結論を先送りにしてしまう。それでは何も解決されない。我々が望んでいるのは、そんなことではないのだ」  激しい勢いでデスクを叩いた。荒い息を吐き出した少佐が首を強く振った。 「難しい要求をするつもりはない。簡単なことだ。日本政府は、現在に至るまで続いている不法な制裁的経済措置を即刻解除するように。同時に他国、特にアメリカ政府に働きかけて同じく経済措置を撤回させたまえ」  それは無理だ、と言いかけて大島は口を閉じた。サングラスの奥で、少佐の目が狂信的な色を帯びているのがわかった。抗弁しても無駄であることは明らかだった。交渉の余地はない。 「まだある。日本の経済措置のために北朝鮮は莫大な経済的損失を被っている。これを賠償してもらいたい。要求額は二千億円。直ちに用意してもらおう。更に今後三十年間にわたっての経済援助を求める。ただし、これは我々が直接関与する問題ではない。金額及び期間については別に正式な会議の場を設けて決定する必要があるだろう。これは両国政府の判断と良識に任せる」 「少佐、君の要求について私個人としては理解出来る部分もある。だが、それは外交で解決するべき問題ではないか。少なくとも、このような犯罪行為を通じて出されるべき要求とは思えないのだが」  少佐の視線がわずかに左に逸れた。しばらく沈黙が続いた。向き直った表情は哀しみに満ちていた。 「北朝鮮は飢えに苦しんでいる」悲痛な声がした。「警視正、理解してほしい。こうしている今も、子供が、老人が、そして多くの人民が倒れ続けている。外交は無論重要だ。根本的問題は正当な方法で解決されなければならない。それは私もまったく同意見だ。だが、そんな悠長なことをしていてはすべてが手遅れになってしまう。これ以上人民が死ぬことに、我々は耐えられない」  受話器を握ったまま立ち上がった少佐が、まっすぐにカメラを見つめた。端整な顔が歪んでいた。 「我々がなぜテレビ局を占拠しているのか。すぐ隣の、同じアジアの国家の現状について、テレビを見ているこの国の人民に考えてもらいたかったからだ。日本も不況ということだが、飢餓のために死ぬ者はいないはずだ」  確かに、と大島が小さく答えた。椅子を引いて腰を下ろした少佐が、細い指を額に当てた。 「一方では、飢え死にする者があとを絶たない国がある。こんな不公平が許されていいのか。そんなはずはない。そうだろう」  声が掠《かす》れた。テーブルの紅茶をひと口含んで、先を続けた。 「警視正、君の指摘する通り、我々が今していることは明らかな違法行為だ。それについては否定しようがない。どのような政治体制下にある国家でも、容認することはないだろう。非難も裁きも、甘んじて受け止める覚悟がある。だがその前に、我々の要求を受け入れてもらいたい。そうすれば人質を解放する。もちろん我々全員も投降する」 「待ってくれ、少佐。それではこちらからも条件を提示しよう。君たちが人質を解放し、身柄を我々に委ねれば、正式な交渉の場を設けることを約束しよう。その席で君たち、もしくは君たちの国の政府が現状を説明してはどうだろうか」 「そうすれば事態が解決出来ると、君に保証が出来るのか」暗い声で少佐が言った。「我々が欲しいのは同情などではない。もっと実質的な援助なのだ。それも即刻にだ。そのために我々はこのような行動を起こした。やり方について問題があることは認めよう。だが貴様たちに非難される筋合いはない」  少佐が手を払った。テーブルのティーカップがはね飛んで、陶器の割れる音が響いた。しばらくの沈黙の後、大島が囁くように呼びかけた。 「わかった。言いたいことは理解したつもりだ」同情に満ちた声だった。「しかし少佐、これで君たちの目的は達成されたのではないか。人質を解放して、そこから出てきてみてはどうだろう。そして君たちの要求を公式の場で説明してみるべきではないだろうか」 「ふざけたことを言うな」怒鳴った少佐のこめかみでふくれ上がった血管が脈打つのが、テレビの画面越しにもわかった。「貴様にそんなことを言う権利はない。我々にはこれしかなかったのだ」 「少佐、お互い冷静になろう。我々だけが事態の解決を図れる。私と君だけが、尊い人命を守れる。そうだろう」  しばらくカメラを見つめていた少佐が、その通りだ、とつぶやいて椅子に深く座り直した。 「我々の要求が満たされれば、喜んで出ていく」一時間与えよう、と指を一本立てた。「すみやかな回答を希望する。一時間後にもう一度連絡する。要求が拒否された場合には、人質の命は保証出来ない」 「少佐、一時間ではとても無理だ。これは警察ではなく、政府が対応しなくてはならない問題であり、それは君にもわかっているはずだ」  疲れ切った表情から吐き出された言葉を、少佐は完全に無視した。 「人命が懸かっていることを忘れないように。今度は脅かしではない。一時間だ」  受話器を置いた。同時にテレビの画面が切り替わり、外のプラチナタワーが映し出された。 「警視総監から連絡が入っています」  小比類巻が携帯電話を差しだす。大島は時計を見た。二時三十一分。  目を伏せたまま、手を伸ばした。少佐が指定したタイムリミットまで、あと五十九分だった。      2 [#地付き]02:32PM (どうなってるの?)  何が起こったのかわからないままに、由紀子は男が出て行った扉を見つめた。  なぜあの男は非常階段の方へ向かったのか。なぜあたしは助かったのだろう。だいたい、どうしてあんな音がしたのか。  考えられる事はひとつしかなかった。腕を折って意識を失っていた迷彩服の男が、意識を取り戻したのだ。  あの時あたしはあの男の全身をガムテープで縛った。どうやったのかわからないが、意識を取り戻した男はトイレの用具入れから脱出したのだろう。  おそらくはまだ手も足も、ガムテープの拘束はそのままになっているのではないか。あれだけ何重にも巻き付けたのだから、そう簡単に縛《いまし》めを解くことが出来るとは思えない。  それでも踊り場を抜け、階段を転がり落ち、とにかくこのフロアの非常扉まで来た。腕は使えないはずだから、頭か足でドアを叩いている。だから音がしたのだ。それ以外に考えられない。  クイーンと名乗っていたコンピューターの前に座っていた男は、あたしがたてた物音を非常階段の方向から聞こえてきたと錯覚して調べに行ったのだ。  そこまで考えて、ソファの下から這い出した。体が強ばっている。両腕を振った。  今なら逃げられる。フロアの奥にあるドアとは反対側の、エレベーターホールへと続くドアに目をやった。でも待って。逃げるって、どこへ?  冷たいフロアに横になって、ずっと待っていたのはこの瞬間なのだ。コンピューターを動かして、防火扉を開けなければ。  逃げるか、戦うか。選択の余地はそれしかない。あたしの存在はもう犯人たちもわかっている。このまま逃げ切れるはずがなかった。だとしたら、せめて防火扉を開けて状況を変えなければ。由紀子は男が去ったコントロールボックスに入った。 「誰だ、そこにいるのは誰だ?」  怯えたように怒鳴る男の声が背後から聞こえた。振り向くと扉に向かって拳銃を構えている姿が見えた。緊張した背中が震えている。お願いだから、こっちを見ないで。  椅子に座り、コントロールパネルに目を落とした。目眩がした。 (全部英語だ)  実際には英語ですらない。�ブレイン�のコントロールパネルに表示されている文字は、すべてコンピューター言語だった。社内のパソコン教室の劣等生である由紀子に、そこに記されている文字が理解出来るはずもなかった。見ているだけで頭痛がしてきそうだ。 (たかが機械じゃないの)  おそるおそる手を伸ばして、キーボードに触れてみた。何も動かない。手当たり次第にキーを押したが�ブレイン�は動くそぶりすら見せなかった。 (愛想のないやつ)  由紀子はパネルを叩いた。視界の端に、片手で銃を持ったままクイーンが素早く扉を開くのが映った。 「おい、どうした」  叫び声がした。ガムテープで体を巻かれた人間を見つけたときの心境は、複雑なものがあっただろう。クイーンが外へ出た。そのまま扉が閉まった。 (どうしよう)  もう時間がない。クイーンがいつ戻って来てもおかしくはなかった。コンピューターを動かすのは諦めるしかないだろう。悔しいが、自分には出来ない。  防火扉は開けられなかった。エレベーターも動かせなかった。あたしには何も出来ない。自分の身を守ることで精一杯だ。  でも、このままでは何も変わらない。むしろ悪くなる一方だ。それなら──。  頬にかすかな笑みが浮かんだ。 (壊しちゃえ)  辺りを見回した。何かないだろうか。壊すための道具。机? 椅子? だが、そんなもので叩いたとしても、うまく壊れてくれるかどうかわからない。  しかもコンピューター機器はフロア中に溢れている。すべてを壊すだけの時間はあるだろうか。でも、と立ち上がった。やってみるしかないじゃない。  壁にモニターを設置するためのパイプが数本立て掛けてあった。あれでやってみよう。  コントロールボックスから飛び出して、パイプを一本取り上げた。持ち上げてみて軽さに驚いた。鉄ではない。硬化プラスチックの類だ。  これでは無理だ。こんなに軽くては、いくら打ちつけたところで、傷がつくかどうかさえ怪しいだろう。  だが、他に適当な物はない。パイプを掴んでコントロールボックスに戻った。勢いをつけてパネルに叩きつけた。  何も起こらない。すべてのランプはグリーンのままだった。やっぱり駄目なのか。パイプを投げ捨てて、スイッチをひとつずつひねった。変化はない。扉の開く音がした。振り向くと、クイーンがガムテープで縛られたままの男の体を引きずってフロアに運び入れているのが見えた。 「誰にやられたんだ」  クイーンの甲高い声がした。もう時間はない。逃げよう。唇を噛み締めたまま、由紀子はエレベーターホールへと向かおうとした。その足がドアの手前で止まった。フロアの隅に置かれていた赤い箱が目に入った。  消火器。  屈み込んで、表面に印刷されている注意書を読んだ。強化液蓄圧式消火器、と記されている。強化液。  クイーンが言っていたことを思い出した。 『コンピューターは精密機器なんだ。ちょっとした温度、湿度の変化にも弱い。ましてや煙や水分なんてもってのほかだ』  重い消火器を持ち上げた。そのまま引きずるようにして、コントロールボックスの前に戻った。社内見学会のときの、総務部長の誇らしげな声が頭をよぎった。 �このコンピューターは、総額三十億円というシステムで�  だからどうしたっていうのよ。 「何をしている」  振り向いた。泣きそうな顔をしたクイーンが立っていた。足元に倒れていたもう一人の男が顔を上げた。目が合った。笑いが込み上げてきた。なぜだろうと思いながら、由紀子はホースを外してコンピューターのパネルに向けた。 「やめろ!」  クイーンが叫んだ。もう遅い。レバーを強く握った。  いきなり辺りが白くなった。強烈な勢いで噴出された消火液が周りに飛び散る。男が拳銃を取り出して構えるのがわかった。 「撃ちなさいよ!」  叫んだ。撃てばいい。でも外れたらこのコンピューターがどうなるか、それはわかってるんでしょうね。  生き物のように動き回るホースをしっかりと掴んで、方向を一定にした。数秒も経たないうちにコントロールパネルが真白になった。 「なんてことを」  つぶやいたクイーンが、そのままドアのところでがっくりと膝をついた。ホースからはまだ消火液が吐き出され続けていた。  鈍い電気音と共に、パネルが青白い光を放ち始めた。呆然とした様子で見ていた床の男が、上半身を起こしながら呻き声を上げた。  並んでいたモニターの画面が、何の前触れもなしにいきなり消えた。同時にコンピューターが動きを停止する。最後に空になった消火器をパネルに思いきり強く叩きつけてから、由紀子はエレベーターホールに向かって走り出した。 「待て!」  男が叫んだ。一瞬振り向くと、銃を握った手が震えているのがわかった。それにしても、こういう時どうして人間は無意味なことを言うのだろう。 (待つわけないでしょ)  飛び込むようにしてドアを押し開け、エレベーターホールを駆け抜けた。二十階ウエストエリアを目指して、由紀子は走り続けた。      3 [#地付き]02:34PM  奴らの意図がわかりましたね、と小比類巻が言った。うなずいた大島が足を投げ出したまま椅子を回転させた。子供のような仕草だった。 「北朝鮮か」 「そうやって考えると、確かにすべてが符合します。彼が少佐と呼ばれていること、そして武器類をどうやって調達したかもです。手口が組織的であること、犯人たちが迷彩服を着ていたという目撃証言もこれで納得出来ますね」  目撃証言といえば、と大島がファイルをめくった。 「迷彩服を着た黒人がいきなり飛び込んで来て、とある」調書を読み上げた。「こっちには、犯人たちの中に白人もいたような気がします、という証言もあるな」  ファイルには事情聴取を受けたテレビジャパン局員の証言がまとめられていた。 「傭兵でしょうか」  小比類巻の問いに、可能性はある、と大島がうなずいた。少佐自身は本人も語っているように北朝鮮特殊部隊の所属なのだろうが、全員がそうとは考えにくい状況だった。 「おそらく密入国に失敗したのではないか。北朝鮮からの不法入国に関しては外務省も厳重な警戒態勢を取っている。やむなく傭兵を使ったと考える方が実状に合っているだろう」  大島がファイルを閉じた。厄介ですね、と小比類巻がつぶやいた。 「いずれにしても、彼らの目的は判明した。テレビ局を占拠したことも、そうやって考えていくと理解出来る。少佐は要求を述べると同時に、彼らの国の実状を我々に知らしめたかったのだろう。拉致問題などで日本の国論は北朝鮮に対して批判的だが、同情心を引こうということなのか」  そして原発についても、と付け加えた。小比類巻が暗い顔で下を向いた。原子力発電所について少佐が繰り返し言及しているのは、自爆テロを示唆していることは明らかだった。 「そのために、彼らはテレビ局をジャックする必要があったのだ」  うつむいたまま大島が新しいコントレックスを取り上げて、空になっていた別のボトルに水を注ぎ始めた。化学実験のような、真剣な表情だった。ほぼ均等な量になったところで、満足したようにうなずいて手を離した時、栗原警部が携帯電話を掲げた。 「本部長から入電です」  捜査本部にいた全捜査官が見守る中、大島が電話に出た。しばらく小声で会話が続いた。了解しました、と最後に言って携帯電話を切った。 「本庁はどう言ってるんですか」  小比類巻が尋ねた。座り直した大島が、また椅子を一回転させた。 「このまま奴らを放っておくことは、警察の威信に係わる問題になる。すみやかに事態を解決に導くように、というのが本庁の見解だ」  しかし、と言いかけた小比類巻を目だけで制した。再びボトルを取り上げて、水量を調節しながら先を続けた。 「たしかに、これで彼らの要求を呑むようなことになれば、事態は国際問題にまで発展するだろう。見過ごすわけにはいかない。命令は当然だ。さて、どうするかな」  そうです、と小比類巻がデスクを叩いた。 「どうやって奴らを逮捕するのか。問題はそこです。彼らは人質を擁しており、また武器も豊富です。そしてグリーンベレーと並び称される北朝鮮特殊部隊の、つまり現役の軍人なんです。我々に対処が可能でしょうか」  何も聞こえないかのように、大島は水量の調節に没頭している。完璧に等分になったところで、小さく微笑んだ。 「可能は可能だ。ここにいる捜査官全員が犠牲になれば、だがね」  小比類巻が目をつぶった。冗談だ、と大島が真面目な顔で言った。 「問題は、どうやって二十階の�ブレイン�に入るかだ。エレベーターも非常階段も使えないこの状況でどうするべきか。時間も限られている」 「ビルの設計事務所に照会していますが、通風孔とダストシュートからの侵入は不可能という結論が出ています」小比類巻が図面を広げた。「ダストシュートから上っていくには、二十階は遠すぎます。電力供給が停まったため、地下三階の焼却炉が稼働を停止したとはいえ、もし途中で転落した場合には間違いなく焼け死ぬでしょう。少なくともあと二時間経過しなければ、焼却炉は安全温度になりません」 「確認するが、十階の非常扉はどうなってる」 「こちらも耐火構造になっていますので、焼き切ることは不可能という報告が入っています」額の汗を拭いながら小比類巻が説明を続けた。「爆弾を仕掛けている、というのは少佐のブラフかもしれませんが、可能性がある以上強行突破は出来ません。エレベーターシャフトについても同様です」  大島が新しいボトルのキャップをひねった。再び水を注ごうとする手を小比類巻が止めた。 「我々はどうすれば」  何かないのか、と大島がボトルを手にしたままつぶやいた。どこかに道はないのか。視線が図面の上で忙しく動き回った。 「ヘリコプターで屋上に強行降下してはどうか。いや駄目だ、必ず奴らに見つかる」指がワイシャツのボタンを外し始めた。「ビル外壁を救急のレスキュー隊に昇らせて……いやそれも意味がない。レスキュー隊員が奴らを逮捕出来るはずもない」  あとは隣接するプラチナタワーとの間に設けられているブリッジしかありません、と小比類巻が首を振った。いや、それも無理だ、と大島が言った。 「ブリッジは�ブレイン�の指示がなければ動かない。最初からわかっていることだ」  小比類巻が目を伏せた。ゆっくりと顎を指で撫でながらその姿を見つめていた大島に、栗原警部が一枚のメモを渡した。文面に目を落としていた大島が、なるほど、とつぶやいた。 「たった今、北朝鮮外務省筋から政府に連絡が入ったそうだ。彼らは三十分後に平壌《ピヨンヤン》で記者会見を行う」  それは、と小比類巻が立ち上がった。 「好都合です。その場で彼らに事情を説明して、撤退を命じさせてはどうでしょう」  無理だな、と大島が物憂げに眉をひそめた。 「記者会見の内容だが、北朝鮮は事件にまったく無関係であり、少佐と名乗る人物は朝鮮人民軍の所属ではないことを表明するという。犯人グループの中に白人、あるいは黒人がいることがその根拠だとしている。事件はすべて日本及びアメリカが朝鮮民主主義人民共和国の名誉を傷つけるために起こした謀略だ、というのが彼らの見方だ。説得も何もない」  大島の言葉に、小比類巻が短い頭髪を激しく掻きむしった。 「そんな馬鹿な。無関係の人間が何でこんなことをするんですか」  続きがある、と無表情のまま大島が先を読み上げた。 「ただし彼らの要求に関して、日本政府が従う場合、人命尊重の見地から北朝鮮としてはこれを受け入れる用意があるということだ」メモを丸めてポケットに突っ込んだ。「無関係だが、そこから得られる利益について関心がないわけではないらしい。もっとも、少佐たちの行為は明らかに違法だ。国家が加担していると認めるわけにはいかないだろう」 「認めれば国際問題ですからね」  疲れきった表情で小比類巻がうなずいた。そういうことだ、と肩を叩いた大島が時計に目をやった。二時三十四分。少佐の指定したタイムリミットまで、あと五十六分しかなかった。 「全員、聞いてくれ」  大島が椅子に深く腰掛けた。周囲の捜査官たちが顔を上げた。 「彼らの要求を受け入れるかどうか、これは政府の判断も入ってくるだろう。しかし我々の立場は変わらない。これはあくまでも違法な暴力行為であり、不法侵入、器物破損、暴行、監禁、傷害その他あらゆる面から見て許し難い犯罪だ。我々は人質を犠牲にすることなく、事件を解決しなければならない。今後の展開によっては強行突入も検討していく必要がある。君たちはそれを頭の中に入れておくように。いいね」  うなずいた捜査官たちが、一斉に散らばっていった。      4 [#地付き]02:42PM  テーブルの上に手を置いたままの少佐を、霧島が上目遣いで見つめた。夢遊病者のような目付きだった。 「何か言いたいのか」  威圧的な声が響いた。いえ、と霧島は顔を伏せた。 「諸君に対して害意はない」体を引いた少佐が、わずかに乱れた髪の毛を整える。「指示に従っている限り安全は保証しよう」  ルークが入ってきた。表情を殺してはいるが、隠しきれない緊張の色が漂っていた。その様子を敏感に察した少佐が立ち上がった。渡された無線機に耳を当てた。 「私だ」 「少佐、緊急事態です」  甲高いクイーンの悲鳴が漏れてきた。窓際に体を移した少佐が、落ち着け、とたしなめるように言った。 「報告したまえ」 「コンピューターが、�ブレイン�が破壊されました」  少佐が無線機から耳を離して、辺りを見回した。霧島たちテレビクルーはもとより、待機していた数人の迷彩服も不安気に見つめている。無表情のまま声を低くした。 「誰がそんなことを」 「女です。おそらくはここの社員だと思われますが」  女。  例の女のことだろうか。少佐はジャケットの上から胸を押さえた。 「�ブレイン�の損傷はどの程度なのか」 「参りました。コンピューターのメインコントロールパネルに、消火器の消火液をぶちまけていったんです。聞こえますか」  無線機から雨垂れのような音が聞こえていた。 「�ブレイン�の損傷はどの程度なのか」  少佐が同じ質問を繰り返した。 「たった今、電源を落としたばかりで、再起動するまでははっきりしません。現時点で明確なのは、メインコンピューターの機能が停止してしまったということです。この復旧作業には、相当な時間がかかると思われます」 「続けたまえ」 「絶縁部分がすべてアウトになったので、コントロールパネルは使えません。例えばですが、ライトのひとつもこちらでは動かせなくなりました」  無線機を掴む少佐の手がかすかに白くなった。 「逆に言えば、ゴールドタワー全館の状態は現状のまま、ということになります。空調も、照明も、電話も、すべて変更は不可能です」 「なるほど。では外部から防火扉を開けることも出来ないわけだな」少佐が爪でジャケットについた汚れを引っ掻いた。「そう考えてもいいのか。これは重要なポイントなのだが」 「そうです。その意味で我々にとって決してマイナスではありません。繰り返しますが、現在の状況を変えるためには、�ブレイン�の機能を回復する以外に方法はないのです」  それならいい、と少佐が爪の先に溜まった汚れを弾いた。 「外部からの侵入が不可能ならばそれでいい。例のルートを除いては、だがね」 「しかしエレベーターも操作不能になっています。どうしますか」  そいつは参ったな、と爪の表面を見ながらつぶやいた。だが、言葉ほどには困っていない様子だった。 「それほど大きな支障にはならないだろう。十分に想定範囲内だ」 「私は今からウエストエリアに移動します。テレビ中継に関しては、メイン機能に事故が起きた場合、あちらのコンピューターでバックアップ対応出来るようになっていますので」  そうだったな、と少佐がうなずいた。放送事故に対する処理はテレビ局にとって最優先事項だった。 「つまり、最後の放送については問題ありません。ですが今後そちらからの指示があっても、テレビの中継以外は対処出来ません」 「結構。こちらから命令するのは、もうそれしかない。いや待て、ブリッジを架ける作業が残っている」 「それは問題ありません」クイーンの声がわずかに明るくなった。「非常橋は災害用に設置されているので、ブレインに事故があっても稼働するように回線が分かれています。消防署の側にアクシデントがない限り、ブリッジは降ります」 「わかった。それならなおさら問題はない。君は可能な限り、コンピューターの復旧に努めてくれ。あまり時間はないがね。だがエレベーターが動くとすれば、その方が助かる」  やってはみますが、と自信のなさそうな返事が戻ってきた。 「難しいかもしれません。もうひとつ、所在不明だった隊員を発見しました」クイーンが名前を言った。「例の女に襲われて、右腕を負傷しています。私の見たところ、折れていますね。かなりひどい状態です」 「歩けるのか」 「それは大丈夫だと思いますが」 「ではこちらに上がるよう伝えてくれ。事情を確認したい。それからもうひとつ、その女がどこへ逃げたのかわかるか」 「わかりません。エレベーターホールに逃げたあと、上下どちらかのフロアへ向かったと思われますが」  どちらへ行ったかは、と語尾が濁った。そのまま無線機のスイッチを切った少佐が顔を上げた。立ち尽くしていたルークの顔面が蒼白になっていた。 「申し訳ありません」  押し殺すような声が響いた。ジャケットの内ポケットに少佐が手を伸ばした。ルークが押されたように半歩下がった。出てきたのはシガレットケースだった。 「いずれ責任は取ってもらう」 「わかっています」  答えたルークが額の汗を拭った。問題はこれからだ、と少佐が手近の椅子に腰を下ろした。 「作戦遂行時に障害が起きることは珍しくない。その後のリカバリーにこそ部隊の真価が問われる」 「どうしますか」  どうもこうもない、と煙草に火をつけた。 「任せる。やるべき仕事をしたまえ」 「処理の方法は」  それも任せる、と言って灰をそのまま床に落とした。 「殺す必要はないが、どうにもならなければ仕方がないだろう。とにかく我々の邪魔にならないようにすることが先決だ。政府及び警察が方針を決定するまで、あと二時間はかかるだろう。その間に問題を処理したまえ」  出来るな、と念を押してから時計を見た。二時四十二分。了解しました、とルークが敬礼した。 「人質の様子はどうだ」 「そろそろ移動の時間です。問題はありません」  足早に立ち去るルークの背中を見つめながら、少佐がテーブルの灰皿に煙草を強く押しつけて消した。窓に近づく。外では相変わらずマスコミを中心とした群衆がタワーを仰ぎ見ていた。      5 [#地付き]02:44PM  息を切らせながら、由紀子はウエストエリアの階段を駆け上がった。  コンピューターが本当にその機能を停止したかどうかはわからない。だが、あれだけ消火器の液剤で水浸しになった以上、少なくとも部分的には壊れたはずだ。  これであいつらも、今までのようにすべてをコントロールすることは出来なくなるだろう。いい気味だ、と心の底から思った。  二十二階を越えて、二十三階の通路に出た。エレベーターホールを駆け抜けてイーストエリアに向かう。このままウエストエリアにいては危ない、と感じていた。  ドアを開けて、フロアに足を踏み入れた。コンピューターの機能を狂わせたことによって、電話が通じるようになったかもしれない。はかない希望を抱いてドア近くにあったデスクの電話機を取り上げたが、反応はなかった。  仕方がない、と由紀子は受話器を放り投げた。そんなに何もかもうまくいくはずがなかった。  辺りを見回した。フロアにはいくつかのデスクと山積みになった段ボール箱、そして放送用の機材が無造作に置かれているだけだ。テレビジャパン新社屋の中で唯一、引っ越し作業が終わっていない二十三階フロアは、物置のようだった。 (あの時、このフロアに飛び込んだんだっけ)  あれからどれぐらいの時間が経ったのだろう。宙吊りのゴンドラ、落ちていったパンプス。  膝頭が震え始めた。どうしてあんなことが出来たのか。自分でも信じられない。  屈んで、窓に目をやった。積み上げられている段ボールの陰になって見えにくいが、大きなガラス窓の下に穴が開いていた。あそこから入ったのだ。同じことをやれと言われても、二度とは出来ないだろう。  立ち上がった由紀子の耳に、階段を駆け降りる足音が響いた。あれだけの騒ぎを起こしたのだから、連中だって捜しに来るに決まっている。隠れる場所はない。すぐ横にあったデスクの下に飛び込んだ。  ドアの開く音。すぐ閉まり、足音がそのまま遠ざかっていった。二十二階に由紀子がいると考えたのか、それとも�ブレイン�に直行したのか。  いずれにしても、フロアに入って来なかったのは幸運だった。何もないフロアという先入観が、わざわざ捜す必要はない、と思わせたのかもしれない。 (とにかく、今は逃げないと)  這い出して、服の汚れを払った。でも、どこへ。どこへ逃げればいいのか。  このフロアにいても意味はない。隠れる場所がないのだ。どうせなら二十二階に逃げればよかった。�ブレイン�から遠ざかることだけを考えていたために、上へ上へと来てしまったのだが、失敗した、と思った。ジャケットのポケットに入っている役員証を握りしめた。  これがあれば役員会議室に隠れることが出来たのに。だが、今さら二十二階には戻れない。 (そうだ)  一つだけ可能性がある。あそこなら。  フロアを抜けてエレベーターホールに出た。どこだっけ。目で捜した。あった、あれだ。  粗大ゴミを投棄するダストシュートの蓋を開けた。なんともいえない臭気が鼻をつく。腐った野菜と、ガソリンが入り交じったような臭いだ。咳き込みそうになった口を慌てて押さえた。  覗き込むと、太いプラスチックのチューブが真っ暗な闇につながっていた。リフト坑の中を思い出して、胸が悪くなった。 (大丈夫だろうか)  落ちてしまえば、ダストシュートの先はそのまま地下三階の焼却炉につながっている。犯人たちに殺されるのもご免だが、焼け死ぬのはもっと嫌だ。  不安はあったが、もうここしか隠れられる場所はない。フロアに戻って、入り口に置かれていた段ボールの箱を開けた。中身を床にぶちまける。誰が入れたのか、アイドルの写真集が大量に溢れ出た。 (どういうつもりなんだか)  空になった段ボールの箱を持って、ダストシュートの前に戻った。 「いたか」  反対側のウエストエリアから、男の怒鳴り声が聞こえた。 「いない。二十二階は捜した。二十一階もだ」  別の男の声が返ってくる。 「よし、このフロアに全員集めろ。俺はイーストエリアを捜す。非常階段のチェックを忘れるな。トイレや給湯室もだぞ」 「わかった」  走る足音。ドアの開閉音。もう迷っている時間はなかった。急いで、由紀子。見つかったら終わりよ。  折り畳んだ段ボールをダストシュートの口に突っ込んだ。チューブの中で段ボールが歪む。幅は一メートルほどだ。  足で踏みつけるようにして、体をダストシュートの中に沈み込ませた。閉じた蓋のわずかな隙間から光が入ってくる。左右の手のひらをチューブの壁に押し付けた。  何でこんなことになってしまったのか。もう涙も出なかった。下に敷いた段ボールが由紀子の体を支えているが、それだけではもちろん足りない。  両手を思いきり伸ばして、壁に押し付けていなければ落ちてしまうだろう。足も開いて、素足を硬化プラスチックの壁に付けた。全身のバランスを取ることだけを考えた。  止まった。  体の位置が安定して、動きが止まった。不自然な体勢のまま、由紀子は頭上を見つめた。ダストシュートの蓋は閉まっている。よほど注意深く覗き込まない限り、見つかることはないだろう。  安堵した由紀子の鼻を腐敗臭が襲った。あまりの強烈さにめまいがする。爪先の力が抜けて、また体がずり落ち始めた。慌てて全身に力を込めた。 「こっちのフロアにはいない。そっちはどうだ」  エレベーターホールに靴音が響いた。男の怒鳴り声が聞こえてくる。 「いない。どこへ行ったんだ?」 「わからん。もう一度捜そう。二十一階まで戻るんだ」  足音が遠ざかっていった。口から小さな嗚咽が漏れた。 (いつまでここにいればいいんだろう)  吐き気が込み上げてきた。そっと左手を離して、由紀子は鼻を押さえた。      6 [#地付き]02:59PM  乱暴に小会議室の扉が叩かれた。その音に、捕らわれていた男たちが顔を上げた。入ってきたのは二人の迷彩服の男だった。 「出ろ」  顔を真っ黒に陽焼けさせた男が顎をしゃくった。もう一人、クラシックスタイルのレイバンのサングラスをかけた男は何も言わない。無言のまま機銃の弾倉を点検していた。  テレビジャパンの社員たちが不安そうに互いを見やった。命令に従うべきなのだろうか。  迷っている顔を見渡して、出ろ、ともう一度色黒の男が言った。苛《いら》ついた様子はない。落ち着いた声だった。 「みんな、立て。言う通りにしよう」  役員の藤田が周囲を見渡しながら腰を上げた。虚ろな目の森中社長に手を貸して立ち上がらせた。 「私たちをどこへ連れていくつもりなのか、それを教えてほしい」  答える必要を認めない、と色黒の男が肩をすくめた。 「諸君は我々の支配下にある。命令に従うように」  サングラスが銃口をゆっくり上げ、藤田の隣に立っていた岡本圭に照準を合わせた。 「下手な動きはしない方がいい」解説するように色黒が言った。「あんたが死ぬだけじゃ済まない。あんたの後ろにいる連中も巻き添えを食うんだぞ」  圭の腕が静かに下がった。その背後にいた数人の社員が慌てたように後ずさった。 「岡本、やめろ」  藤田が低く言った。答える代わりに、圭は顔を背けた。      7 [#地付き]03:01PM  平壌で行われた北朝鮮政府による記者会見は、午後三時一分に始まり、三時六分に終了した。  事前に日本の外務省が入手していた情報通り、北朝鮮は公式見解として現在日本で起きているテレビ局占拠事件が自分たちとまったく無関係であることを表明した。同時に、すべてはアメリカ及び日本による謀略であると付け加え、今後の三国間における外交交渉を有利に進めるための布石を打った。      8 [#地付き]03:08PM  テレビジャパン編成部に設けられた前線本部と警視庁の捜査指揮本部との間に新たに敷かれた専用のテレビ電話回線を通じて、今後の方針についての意見交換が引っ切りなしに続いていた。  犯人グループの要求を受ける形で、経済制裁措置の解除と二千億円の賠償金を用意するべきであるとする大島警視正の要請と、あくまでもテレビ局舎を不法占拠している籠城犯として対処するように、という本庁の意見は対立し、相容れることはなかった。  時間を稼いでくれ、と管理者に共通する非情な声で本部長が命じた。 「現実問題として、二千億の金を一時間で用意することは不可能だ。それは奴にも理解出来るだろう。そこから交渉の糸口を見つけてはどうか」 「その場しのぎを繰り返していても、いずれどこかで時間切れになりますよ」  皮肉であることがわかるように大島は口元を歪めた。本部長の目が鋭く光った。 「タイムリミットが来た時に警察が彼らの要求を呑むつもりがないとわかった場合、いったいどういうことになるのか」大島が言った。「あまり考えたくはありませんが」  ディスプレイの中で本部長の顔が固まった。ゆっくりと口が開いて、その場合は、というかすれた声がした。 「多少の犠牲が出ても、やむを得ない事態であると認識している」  本部長がイヤホンを外した。通信終了の合図だった。あと何分だ、と大島が強ばった声で尋ねた。二十一分です、と小比類巻が答えた。 「少佐の連絡を待つしかない」  ペットボトルをデスクに置いた。テレビ電話のディスプレイが真っ暗になった。      9 [#地付き]03:22PM (気持ち悪い)  由紀子はくわえていたハンカチを強く噛んだ。涙が止まらない。喉の奥から絶え間無く胃液が迫《せ》り上がってくる。  地下三階のごみ焼却炉から漏れてくる悪臭のためだった。ゴールドタワー内のレストランなどが廃棄する腐った生ゴミの臭い、煙草の吸い殻などのニコチン臭、焼却炉に溜まった飲み物の残りが発酵した臭い、ビニール、ペットボトルなどの不燃物を燃やしたときに発生する有毒ガス、機械油の臭い。  さまざまな臭いが、ダストシュート内に充満している。それが由紀子の鼻孔と涙腺を絶え間無く刺激していた。  チューブ内の空気は汚れきっている。人が入ることなど想定されていないため、換気設備はついていない。焼却炉自体も熱を放出し続けていた。ダストシュートの中はまるでサウナのようだった。  呼吸をするたびに嘔吐感が突き上げてくる。気分が悪くなって、頭が割れるように痛んだ。  わずかな救いは、理由はわからないがダストシュート内の温度が徐々に下がりつつあることだった。そうでなければ、もっと前に耐えられなくなっていただろう。  狭いチューブの中で首をねじ曲げ、腕の時計に目をやった。隠れてから四十分近くが経過していた。壁に押し当てている手足が白くなっていた。 (限界だわ)  これ以上ここにいたら気が狂ってしまうだろう。捕まった方がよっぽどましだ。  足音や話し声が聞こえなくなってから、既に二十分以上が経っていた。捜すのを諦めたのか、それとも他のフロアを調べているのか。  どちらにしても由紀子一人を捜すのに、それほど長い時間を割くことができるとは思えなかった。もっと他にしなければならないことがあるはずだ。 (出よう)  だが、昇れるだろうか。ダストシュートの蓋までは一メートルほどしかないが、安定した今の体勢を崩せば、滑り落ちてしまってもおかしくはない。  見下ろした。暗い闇が続いている。落ちれば地下の焼却炉に直行だ。  体が震えた。そんなわけにはいかない。もう一度、圭に会うのだ。  痺れた腕と肘で、チューブの斜面を登り始めた。左の小指を伸ばして、数センチ上にずらす。下手に動けば、滑ってしまうだろう。慎重に、と言い聞かせながら体を尺取り虫のように動かし続けた。わずかずつ距離を稼いでいく。  壁に押し付けていた手と膝に、既に感覚はない。それでも由紀子は諦めなかった。 (リフトよりましだ)  心の中でつぶやいた。かすかにだが、ダストシュートの蓋から明かりが漏れている。周りの様子を見ることが出来るため、それほど怖くはなかった。  両手と両足のうち三点を固定させていれば、落ちることはない。時間さえかければ必ず登りきれるはずだ。痺れた指先を振って、力を込めた。  テレビで見たフリークライミングのことを思い出した。あの人たちはほとんど垂直の壁を、指だけで登っていく。それに比べれば傾斜だって全然ゆるやかだし、距離だって短い。上まで行けないはずがない。  顔を上げる。目の前にダストシュートの蓋があった。手を伸ばすと、縁に指が触れた。そのまま懸垂の要領で体を持ち上げ、頭で蓋を押した。いきなり視界が明るくなった。足が外れて、下に敷いていた段ボールがずるずると落ちていく。  開いた隙間から、目だけで外を覗いた。エレベーターホールには誰もいない。静かに外に這い出た。  倒れ込むようにして、フロアに横たわる。手足を伸ばした。白くなっていた指先が徐々に赤みを取り戻していくのがわかった。  久しぶりに鼻で呼吸をした。冷たいフロアに触れた頬の感触が、泣きたいぐらいに気持ちいい。 (天国だわ)  死ぬまでそうしていたかったが、そんなわけにいかないこともわかっていた。両手をついて立ち上がった。  ウエストエリアの方から音がした。声も聞こえる。誰かいるのだ。  もう動きたくない、という足と膝をなだめながら、イーストエリアのドアを開けて中に飛び込んだ。どうする。どこへ隠れよう。  ジャケットのポケットに手を入れた。指が固いカードに触れる。そうだ、これがある。  フロアの奥へ走った。通路に続く扉が見える。ここは二十三階、階段を降りれば二十二階。そして二十二階には、二十五階の特別役員会議室とは別に役員会議室がある。この役員証があれば中に入れるはずだ。  役員会議室はその名が示す通り、役員専用の会議室だった。役員証を認識用のカードリーダーに通さなければ入室出来ない。セキュリティ対策のためだったが、カードリーダーは役員証の持ち主が誰かまでは判断しない。  非常階段を飛び降りて、二十二階のドアを薄く開いた。中を覗き込む。誰もいない。だが問題はここからだ。  役員会議室は今いる二十二階イーストエリアの反対側、秘書課があるウエストエリアの一番奥にある。つまりイーストエリアと、エレベーターホールを抜けて、更にウエストエリアを突っ切っていかなければたどり着くことは出来ない。  その途中に誰かがいれば、見つからないはずがなかった。もっと安全で、危険の少ないルートはないだろうか。  目をつぶって、ビルの構造を思い出す。首が力無く垂れた。他に道はない。  上のフロアから声が聞こえてきた。こっちへ来るだろうか。  ドアをゆっくりと開いた。音がしないように後ろ手で閉める。人の気配はない。まっすぐ前を見つめたまま、由紀子は二十二階ウエストエリアを目指して歩き始めた。      10 [#地付き]03:28PM  モニターの画面がテレビジャパンの外観を映し出していた。ヘリコプターからの空撮なので、時々画像が揺れている。  アナウンサーは沈黙していた。新しい情報は何も入っていない。語るべきこともないのだろう。奇妙に静かな時間が流れていた。  編成部に設けられた前線本部も静寂に満ちていた。事態の推移を見守っている本庁から五分ほど前に確認の電話があっただけで、その他の通信手段はすべて沈黙を守っていた。少佐の予告したタイムリミットを前に、前線本部に詰めていた捜査官はもちろん、事件の関係者全員が二十四階フロアからの中継を待っていた。  近づいてきた小比類巻が指を一本立てて、腕から外した時計を大島の前に置いた。あと一分。  小さくうなずいた大島が、ペットボトルの水に口をつけた。表情に変化はない。腕を組んだままテレビの画面を見つめているだけだ。  電話機の受信ボタンが点滅を始めた。ナンバーディスプレイに数字が表示される。2401。 「二十四階、少佐からです」  小比類巻がグリーンの光を指さした。わかっている、と軽く大島がうなずいたが、腕を伸ばそうとはしなかった。出ないのですか、と低く尋ねた小比類巻に向かって、空のペットボトルを振った。 「同じことだ」  モニターを顎で示した。画像が切り替わり、キャスターの霧島が現れた。心なしか顔色が青ざめていた。 「こちらは二十四階の霧島です。ただ今、一時間前に要求した不法な経済措置に対する賠償金二千億円と制裁措置の撤回について、少佐が警察に電話をかけているところです」  大島が無言のままパソコンを閉じ、指を伸ばして受信ボタンに触れた。 「一時間後に連絡をすると伝えていたはずだ」  画面に少佐が映った。無表情な顔だった。 「たった今、政府との最終確認を終えたところだ。理解してほしい」  抑えた声で大島が言った。わかった、と少佐がうなずいた。 「長い話は不要だ。結論だけ聞きたい。我々の要求に応じるのか、それとも拒否するのか」  大島が左右を見た。誰もが目を伏せている。意を決したように口を開いた。 「率直に言うが、まだ結論が出ていない」  なるほど、と囁くような声がした。 「理由のひとつは、君たちと北朝鮮政府の関係だ。先ほど平壌で記者会見が行われたが、北朝鮮は君たちと一切関係はないと正式に発表した。これをどう解釈するべきか、意見が分かれている」  当然だ、と少佐が言った。 「我々は国家の命令で動いているわけではない。現在ある人民の窮状に際して、自発的にこの挙に出たのだ。無関係であるとする政府は正しい。それに警視正、仮に我々が正式な命令でこのような行動に出ているとしても、それを国家が認めると思うのか。そんなつまらない言い訳をして時間を稼ごうと思っているのなら、それが間違いであることを示そう」  テーブルの上に載っていた、小型ラジオのような機械に手をかけた。待て、と大島が叫んだ。どこまでがブラフでどこまでが本気なのか、まったくわからない相手だった。 「少佐、私を信じてほしい。拒否するつもりはまったくない。人命尊重が我々の方針である以上、要求には応じる。原子力発電所を停止するようにという要求を受け入れていることからも、それは理解してもらえると思っている」  画面の少佐が小さくうなずいた。しかし問題がないわけではない、と大島が先を続けた。 「二千億円の現金を一時間で用意することが、現実問題として不可能なのだ」  少佐が煙草を薄い唇にくわえた。それで、と先を促す。 「二千億円といえば重量だけでも相当なものになる。財務省の計算では、二万キログラム、つまり約二十トンだ。二十トンの現金を運ぶのがどれぐらい困難か、想像はつくだろう」  煙を吐き出した少佐が、かすかに顔をしかめた。 「四トントラックを五台用意すればいいだけの話だ。そのままこのテレビジャパンに乗り付けてもらおう。後は我々がやる」 「トラックの準備は既に終わっている。だが、金を積み込むにも人手がいる。金額の確認も必要だ。準備には時間がかかる。とても一時間で済む話ではない。少佐、あと一時間待ってもらえないだろうか。現金の用意はもちろんだが、経済制裁についても会議の場を設けるようにしよう。現在外務省が交渉中だ。私を信じて待ってほしい。その間、人質には手を出さないと約束してくれないか」  少佐が受話器を顎に挟んだまま宙を見つめた。煙草の先から灰が落ちた。 「時間的に状況が厳しいのは、君にもわかっているはずだ」大島が説得を続けた。「金はもちろんだが、これは国家間の問題だ。そう簡単に結論は出せない。頼む、あと一時間でいい。一時間遅れたからといって、何か問題が生じるわけでもないだろう。少佐、聞いているのか」  聞いている、とつぶやいた少佐が煙草をもみ消した。 「了解した」  言葉を重ねようとした大島の口が止まって、一瞬の間をおいてからもう一度動き出した。 「構わないのか」  おかしなことを言う、と少佐が丁寧に灰皿の灰を一カ所に寄せた。 「そちらが言い出した話だ。最初に通告した通り、この時間をもって交渉を停止しても我々の側に問題はない。その場合は人質が犠牲になるだけの話だ。だが我々は人民の血が流れることを好まない。可能な限り譲歩する用意もある。警視正、君が言う一時間の猶予はその範囲内だ」 「わかった」  ワイシャツの裾をベルトの外にはみ出させたまま大島が答えた。少佐が新しい煙草に火をつけた。 「事件の早期解決を願うなら、どのような手段を使ってでも至急金を揃えることだ。あと一時間もあれば十分だろう。ただし、次は遅延を許さない。今度遅れた場合は、人民の無意味な血が流れることになる。我々の譲歩にも限界があることを理解するように。以上だ」  念を押すようにそう言った少佐が、受話器を置いた。カメラがパンして霧島をアップにした。 「交渉はいま視聴者の皆さんがお聞きになった通りです。警察側は一時間の猶予を要請、犯人側もこれを呑んだ模様です。わたしも人質の一人として、事件の解決を心から願っておりますが、今後どのような状況になっていくのか、まったく予断を許しません。緊迫した空気が流れております。以上、現場より霧島がお伝えしました」  大島が目をつぶったまま、左の手のひらを剥き出しになったランニングシャツで拭いた。リモコンをモニターに向けた小比類巻がボタンを押して、ボリュームを下げた。      11 [#地付き]03:35PM  霧島がマイクのスイッチをオフにするのを待って、少佐は中継の終了を目で指示した。ターリーの赤いライトが消えるのを確認して、口を開いた。 「聞いた通りだ。警察側の回答を、あと一時間待つ」  霧島が無言でうなずいた。手を後ろで組んだ少佐が席を立った。思い出したようにカメラクルーの方を向いた。 「そのカメラは、録画も可能なはずだな」 「もちろんです。番組でもよく使っていますが」  カメラマンが答えた。 「では撮影の準備をしてもらいたい」  はい、とうなずいてから、何を撮るつもりですか、と聞き直した。私だ、と少佐が胸を張った。 「作戦の終了と成功を本国に報告する必要がある。もちろんインターネットを通じて連絡は続けているが、映像も同時にあったほうが望ましい」  デジタルカメラですから十分に対応可能です、と霧島が横から口を挟んだ。 「パソコンに接続すれば、世界中どこにでも映像を配信出来ます。そうだよね」  そうですが、とカメラマンが答えた。では頼む、と少佐が背を向けた。  カメラマンを中心にテレビクルーがセッティング作業に取り掛かり始めた。それを確かめた少佐が、窓際のソファに移動した。  ジャケットのポケットから文庫本を取り出し、そのまま向かいの椅子に長い足を投げ出して座った。少佐、と静かな声がした。 「よろしいでしょうか」  ルークだった。本から目を離さずに、無表情のまま少佐が片手を挙げた。 「顔色が冴えないようだな」 「女がまだ見つかりません」  ルークが報告した。 「そのようだな」  ページをめくりながら少佐が静かな声で言った。落ち着きなくルークが周りを見渡した。 「二十階から二十三階まで、徹底的に捜索しましたが発見出来ておりません。いったいどこに隠れているのか」 「まったく、不思議だ」本をテーブルの上に置いて、少佐が腕を頭の後ろで組んだ。「確かに巨大なビルだ。とはいえ、人間が隠れることの可能なスペースはそうはないはずだが」  ひとつ咳をしたルークが傍らの本を取り上げて題名を見た。『キリマンジャロの雪』とあった。 「ヘミングウェイですか」 「知っているのか」 「いえ。どんな話でしょう」 「『キリマンジャロはアフリカの最高峰と言われている。その西の山頂近くに、一頭の豹《ひよう》の屍《しかばね》が横たわっている。それほど高いところで、豹が何を求めていたのか、説明し得た者は一人もいない』」  暗誦した少佐が足を組み直した。優れた文学は常に教訓的だ、とつけ加えた。 「警察からの要請で、回答は一時間後に変更された。時間は十分にある」 「予定通りですね」  二人が視線を交わした。少佐が小さく顎を引いた。 「そう。予定通りだ。彼らは常に結論を出すことを恐れる。つまりあと一時間が確保されたというわけだ。もう一度捜してみたまえ」 「はい」 「あと一時間、つまり外部からの電力供給停止から二時間が経過すれば、すべての障害はなくなる。次の警察との交渉が終わり次第、最終段階に入るからそのつもりでいてくれ」 「了解しました」  ルークが敬礼した。 「一時間後だ。すべてはそれからだ」  少佐が再び本のページを開いて、活字に目を通し始めた。      12 [#地付き]03:36PM  台車を前にして、男が呻き声を上げた。迷彩服の下に着込んでいるシャツが汗で濡れていた。 「まだあるのか」  そう言うな、と背の低い男が黒いビニール袋を開いた。 「だからといって、残しておくわけにもいかないだろう」 「そりゃそうですが」  粘着度の強いビニールテープで口を巻いたビニール袋を台車に積み上げた。やれやれ、と男が首の骨を鳴らした。 「これだけあると、有り難みも薄れますね」  男たちが笑い声を上げた。 「さあ、急げ。時間がないぞ」  背の低い男が命じた。男たちが作業を再開した。      13 [#地付き]03:37PM  テレビ電話のモニターに、不機嫌な表情を露骨に浮かべた本部長の姿が映し出されていた。 「どうするつもりなんだ」  どうすると言われても、と大島が大きく伸びをした。 「私は本部長の命令通りにしただけです。時間を引き延ばせ、という指示通りに」 「そんなことを言っているのではない。大島警視正、君は独断で犯人に金を渡すという約束をしている」忘れてはいないだろうな、と念を押した。「こちらはそのような事態を想定していない。現金で二千億など、日銀でも不可能な金額だ」  もともと金を渡すつもりはありません、と大島が答えた。 「とにかく、一時間の猶予が生まれました。この間に何としてでも奴らがいる二十四階フロアに突入しなければなりません。次は少佐も遅延を許しはしないでしょう」 「可能なのか」  可能だろうが不可能だろうが、と大島が袖をまくった。 「そうしなければ人質が犠牲になるだけです」  モニターの本部長が頭を抱えた。 「わかった。とにかく大至急検討する。自衛隊にも協力を要請しよう」  やっとスイッチが入ったようだな、と通信ボタンをオフにした大島がつぶやいた。 「しかし、金が用意されていないことを知ったら、少佐はどうするでしょう」  そう尋ねた小比類巻の顔を、大島が不思議そうに見つめた。 「それは少佐自身に尋ねるべきだな」 「どういうことですか」  二千億円だぞ、と短い足をデスクに載せた大島が口を開いた。 「さっきも言ったが、二千億といえば総重量で二十トンある。エレベーターが動いていない以上、この金を二十四階フロアに届けることは絶対に不可能だ。つまりビルから降りて来ない限り、彼らには金が用意されたかどうかについての確認が出来ないのだ」 「ではどうするつもりなのでしょう」  選択肢は二つしかない、と大島が明快に言い切った。数学を教える教師のような言い方だった。 「エレベーターを動かすか、もしくは彼ら自らが降りてくるかのどちらかだ。もしエレベーターで運べということであれば、我々が金の代わりにエレベーターに乗り込み、二十四階を急襲する。彼らが降りてくるようなら、そのまま逮捕だ」 「ですが、全員が降りてくるとは思えません。少なくとも人質を盾にするでしょう」  君は木を見て森を見ていない、と大島が笑った。 「誰が、何人で、降りてくるにせよ、その段階でエレベーターもしくは非常階段が使用されることになる。つまり、道は開かれるのだ。そうなれば突入も可能になるだろう」  しかし可能であればその前に決着を付けたい、と小比類巻の肩を叩いた。 「おそらくこの一時間については、奴らも油断しているだろう。事件発生から既に六時間が経過している。疲労もピークに達しているはずだ」  もし別のルートが開かれれば、と独り言のように大島がつぶやき始めた。自らに対し質問を発しては、回答を検討していく。小比類巻の存在は壁と同じだった。      14 [#地付き]03:40PM  背中を汗が伝って落ちるのがわかった。フロアを一気に駆け抜けたかったが、足音を気づかれるのが怖かった。慎重に進まなければならない。わかってはいたが、どうしても速足になってしまうのを止められなかった。 (落ち着いて)  由紀子、落ち着くのよ。焦っても無意味だ。両手を固く握って、自分に言い聞かせた。  いまこうしている瞬間にも、誰が入ってくるかわからない。とにかく、役員会議室に逃げ込むことが肝心なのだ。  イーストエリアを抜けて、エレベーターホールにつながるドアの前に立った。ため息が漏れた。動悸が激しくなっていた。  耳をすませた。話し声はしない。足音も聞こえなかった。口の中で三つゆっくりと数えてから、ドアを細く開いた。  煙草の香りが鼻をついた。自分は喫わないので、匂いには敏感だ。目をドアの隙間に当てて辺りを見回した。  エレベーターホールで立ったまま煙草を喫っている男の背中が見えた。紫煙が漂っていた。 (どうしよう)  迷っている時間はなかった。このまま進むべきなのか、それとも戻ってフロアの横にある通路からウエストエリアを目指すべきなのか。  だが、どう行くにしても男に見つかってしまえば、何もかもが終わってしまう。どうすればいいのか。  ドアを閉めて、そこから離れた。フロアに目をやると、奥にテレビがあった。 (そうだ)  近づくと、ラックにリモコンが置かれていた。電源を入れる。映し出されたのはテレビジャパンの外景だった。バックにアナウンサーの声が流れていた。すぐにスイッチを切った。  ラックを探すと、DVDデッキが置かれている棚にヘッドホンがあった。テレビのイヤホンジャックに端子を差し込んだ。  もう一度テレビのスイッチを入れた。音は聞こえない。ボリュームを大きくした。画面の下に音量という文字が浮かび上がり、30という数字で止まった。音が最大になったという意味だ。  テレビの電源をリモコンで切ってから、ヘッドホンの端子を抜いた。そのままドアまで下がる。  手を伸ばした。リモコンの電波はどれぐらいの距離まで届くのだろうか。五メートル。それとも十メートル。ボタンを押したが、画面はそのままだった。 (もっと近づかないと)  だが、ドアからあまり離れてしまっては、あの男が入ってきた時に見つかってしまう。もう一度周りを見た。庶務部は経理部とほぼ同じ造りになっている。郵便物を整理するスペースが裏にあるはずだ。  奥へ回ると、思った通り三坪ほどの空間があった。まとめて届けられる郵便物を整理するためのデスク、封筒類や手提げ袋、段ボール箱を置いておくラック。  由紀子は段ボールを開き始めた。ガムテープで留めて、ひとつひとつ箱にしていく。  それほど時間はかからなかった。三分ほどで大きな空の段ボールが八個完成した。  それをドアの脇まで運んで、積み上げた。四つずつ使って、高さ一メートルほどの壁を二つ作る。軽いので作業は簡単だった。  二つの壁を組み合わせて、八の字型に開いた。最後に板状のままの段ボールを屋根にして載せる。この裏に隠れていれば、通り過ぎただけでは見えないだろう。  少し離れたところから、最終的な確認をした。ドアから入ってくる限り、まず気づかないだろう。  そのままテレビに近づいた。これでやるしかない。数メートルのところでリモコンのスイッチを押した。すぐに凄まじい音量でアナウンサーの声がフロアに響き始めた。 「……未確認の情報ですが、現在警視庁及び警察庁首脳による特別対策本部が設置されたということです。また北朝鮮に対して、外務省から解決のための協力要請が出されているということですが……」  段ボールのバリケードに飛び込んだ。間に合って。  勢いよくドアが開いて、迷彩服の男が入ってきた。周囲を見回している。息を殺して、男の姿を見つめた。  拳銃を構えたまま、男がフロアに足を踏み入れた。しばらく様子を見ていたが、音の正体がテレビであると気づいて緊張を解いた。素早い足取りでフロアの奥に向かう。 (今だ)  足音を立てないように神経を集中させて、段ボールの陰から立ち上がった。開かれたままのドアに向かって進む。肩越しに、男がテレビを消すためにメインスイッチを押しているのが見えた。  エレベーターホールに出る。ウエストエリアはもうすぐ目の前だ。ドアに手をかけた。 「待て」  怒声がした。振り向く。目が合った。  ドアノブを回した。開かない。どうして。悲鳴が聞こえた。自分の声だ。 (馬鹿、押すんじゃなくて、引くの)  焦りが混乱を呼んでいた。思い切りドアを引く。開いた。  フロアに飛び込んだ。背後でガラスの割れる音がした。男が銃を撃ったことを理解するまで数秒かかった。  恐怖で足がもつれた。デスクに顔からぶつかるように倒れたが、もう痛みは感じない。立ち上がって走り出した。  男の足音が聞こえる。足をひきずりながら奥を目指した。 「待て」  フロアの一番奥にある役員会議室の前で由紀子は振り返った。拳銃をまっすぐに構えた迷彩服の男がドアの前に立っていた。ポケットの役員証を、お守りのように右手で掴んだ。 「そこまでだ」  低い声で男が言った。銃口は由紀子に向けられたままだ。 「捜したんだぜ。いったいどこにいたんだ」  男が後ろ手にドアを閉めた。二人の間の距離は二十メートルほどだった。 「答えたくないわ」  それにしても妙な臭いだな、と鼻をひくつかせながら男が銃を構え直した。 「まったく、面倒をかける女だ。さて、おとなしくしてくれよ。これ以上逃げると、次は本当にあんたを狙って撃たなきゃならなくなる。そんなことはしたくない」  言いながらゆっくりと近づいた。距離が縮まった。無意識のうちに後ずさる。背中が役員会議室の扉にぶつかった。 「わかったわ。もう逃げない。だから撃たないで」  男が足を緩めた。 「急に素直になったな。まあいい。そのままこっちへ来るんだ」 「行くから、銃を下ろして」  叫んだが、男は首を横に振るだけだった。 「こっちに来るんだ」同じ言葉を繰り返した。「あんたの同僚や先輩も、そろそろ二十五階に移る頃だ。あんたも人質になるんだよ」  由紀子はうなずいた。気づかれないようにそっと右手を後ろに回して、扉を探った。どこよ。どこにあるの。涙が出そうになった。 「まあ、よく頑張ったよ」歩き出した男が声をかけた。「どこに隠れてたのかは知らないが、女一人で心細かっただろう。だがもう十分だ」  あった、これだ。  右手の役員証をカードリーダーに通した。  警告音とともに、扉が開いた。背泳の選手のように、由紀子は中に飛び込んだ。銃声が響いた。      15 [#地付き]03:49PM  倒れ込んだまま顔を上げた。役員会議室の中央に飾られていた年代物のアンティーク時計の文字盤が、きれいに砕けている。本当に撃ったのだ。  体が震えた。立てない。首だけで前を見た。  男が片手に拳銃を構えたまま、会議室に向かって走ってくる。由紀子は膝立ちのまま分厚い合金製の扉に飛びついた。  叩きつけるようにして閉めた。銃声。目の前で閉まった扉が、弾けるような音をたてた。弾丸が当たったのだろうか。  電子ロックのランプが青から赤に変わった。乱暴に扉が叩かれ、ノブが激しく左右に動いたが、開くことはなかった。オートロック機能が働いて、鍵がかかったのだ。  役員会議は社の最高決定会議であり、経営の基本方針もこの会議室で決まる。過去にテレビジャパン旧社屋で会議の内容が外部に漏れたことがあったために、総務部は機密保持に神経質になっていた。  オートロックだけではなく、盗聴防止システム、外部からのハッカー対策として室内で使用するコンピューターには何重ものファイヤーウォールを張り巡らせている。誰も入ってくることは出来ない。 「開けろ」  ドア越しに男の威嚇する声が響いた。扉のわずかな隙間から声だけは聞こえた。馬鹿じゃないの、と由紀子も怒鳴り返した。絶対開けないわ。開けるわけないじゃないの。 「この役員会議室はね、役員証がなければ開かないのよ。何をしたって無駄だわ」  手のひらを見つめた。ガラスの破片で切ったのか、中指の下が擦れて血が滲んでいる。知っている、とまた声がした。 「さすがに役員専用だけのことはある。前に入った時は清掃業者を装ったが、暗証コードは毎日変えているようだな。たかがテレビ局が、大層なことだ」  目の前でもう一度ノブが動いたが開かなかった。どうしてこの男はビルの構造に詳しいのか。何のためにこの部屋に入ったのだろう。 「いつの話よ」 「三週間前。落成式の後だ」  素早く周囲に視線を走らせた。別の出口はないのだろうか。 「開けないのなら、それはそれで構わない」落ち着いた声で男が続けた。「ここで死ぬか、二十五階に上がって君の同僚と一緒に死ぬか、どちらかといえばその方がいいだろうと思っただけの話だ。拒否するのなら仕方がない」 「何言ってるのかわかんないわ」  いきなり銃声が二度響いた。同時に、電子ロックの点滅が消えた。 「こういうことだ」男の声がこだました。「俺も入れないが、君も出てこられない」  そっと立ち上がってドアに近づき、ノブに手をかけた。空回りする感触が手に残るだけだった。男が鍵を壊したのだ。それならそれでいい。膝の力が抜けて、床に座り込んだ。 「もういいでしょ、放っておいて。どこへでも行けばいいじゃない」座ったまま叫んだ。「あたしは誰かが助けに来るまで、ここにいるから。もう邪魔しない。約束する」  役員会議室は豪華な造りだった。大理石の大テーブルと、それを取り囲む二十脚ほどの背の高いアンティーク椅子、ゆったりとした応接ソファ、最新式のオーディオセット、ホームシアターシステム。  いくつかのスイッチがあることに気づいた。立ち上がって、そのひとつに触れてみると、いきなりテーブルが割れて、パソコンのモニターが浮かび上がってきた。金のかかったシステムだ。  それ以外にもさまざまな設備が整っていた。会議の模様を録画するためのビデオ機材、同時通訳システム、葉巻入れやヒーリング用のキャンドルまである。奥には巨大な冷蔵庫があった。トイレもついている。あとはシャワーがあれば完璧だ。 「さあ、それはどうかな」  そう言った男の足音が遠ざかっていった。小声で何か話し始めているのがわかった。 「どういう意味よ」  由紀子はドアに向かって叫んだ。誰と話しているのだろう。答は返ってこなかった。      16 [#地付き]03:58PM  手元のモニターを見つめたまま、カメラマンが首を左に向けた。  肩をすくめた霧島が目だけで問いかける。テーブルに肘をついたまま、右手で左の手首を掴んでいた少佐が、視線に反応するように顔を上げた。 「以上だ」  カメラマンが録画停止ボタンを押すと、ターリーの赤いライトが消えた。確認を、と迷彩服の一人が小さく囁いてから、モニターの前に座って、そこに映る画像を見つめた。  カメラに正対して語りかける少佐の姿が再生されていた。背後の窓からテレビジャパンの向かいにあるホテルグランドヴィーナス二十階の展望レストランが見えた。 「音声、チェック。レベル5、問題ありません」  ヘッドホンを耳に当てていた音声マンがうなずいた。照明機材を下ろした男がほっとしたようにため息をついた。 「テープを」  少佐が手を伸ばした。デジタルビデオカメラから録画したばかりのテープを取り出したカメラマンがそのまま渡した。 「これを二十階のクイーンに届けてくれ」  受け取ったルークがひとつうなずいた時、胸の無線機が耳障りな音をたてた。インカムを手で押さえながら、こちらルーク、と返事をした。 「少佐、二十二階からです」声を潜めた。「例の女を発見した、ということですが」 「待て」  少佐が席を立った。テレビクルーから離れたところで、改めて自分の無線機の回線をオープンにした。 「私だ」 「女がいました」  息せききった男の声が響いた。 「いったいどこに隠れていたのか」  少佐が眉を顰《ひそ》めた。わかりません、とかすれた声で男が答えた。 「気がついた時には目の前にいました。二十二階にいたのです」 「捕らえたのか」  それが、と更に声が低くなった。 「二十二階ウエストエリアの役員会議室に逃げ込みました。ご存知の通り、あそこだけは電気系統が別なので、我々には開くことができません。やむなく、ドアロックを破壊して閉じ込めたのですが」  困ったものだ、と顎鬚を整えながら少佐がつぶやいた。ルークが近寄ってきた。 「どうしますか」 「これ以上不測の事態が生じては困る。ドアを爆破して女を捕らえてもいいが……いや待て、役員会議室と言ったな」  少佐が腕の時計を見た。午後三時五十八分。 「計画では十六時三十分ジャストに十九階を爆破する予定だったが、これを中止しよう」 「それは……どういう意味ですか」  怪訝そうにルークが眉間に皺を寄せた。無線機を握り直した少佐が皮肉な笑みを浮かべながら口を開いた。 「君が今所持している装備で、役員会議室の爆弾を爆破させることは可能だな」  もちろんです、と声がした。 「役員会議室に仕掛けておいた爆弾のタイマーに時刻を打ち込めば、起爆装置が作動し、爆発します」  結構、と少佐がつぶやいた。 「警察に与える効果としては同じだ。我々が本気であると信じるだろう」  つまり、十九階ではなく二十二階の役員会議室を爆破するということですね、とルークが確認した。その通りだ、と少佐がうなずいた。 「他班に連絡を取ります」  ルークが自分の無線機を切り替えた。爆破時刻は予定通りだ、と少佐がうなずいた。 「十六時三十分ジャスト、変更はない」 「了解しました。では役員会議室の爆弾のタイマーをセットします。爆破予定時刻は十六時三十分」  無線機を通して男が復唱した。少し待て、と少佐が言った。 「今、他のフロアと連絡を取っている。爆破の規模としては小さいが、間違いがあってはならない。二十二階ウエストエリアには誰も近づかないようにする必要がある」  やり取りを繰り返していたルークが、問題ありません、と報告した。 「各班、所定の位置を確認。二十一階ウエストエリアに見張りを立てていますが、念のためこちらに退避させた方がよろしいでしょうか」  その必要はない、と少佐が横を向いた。 「上下フロアにまで爆破の被害は及ばないはずだ。危険があるとすれば同じ階だけだ。爆破完了まで近づかなければいい。それで十分だ」  わかりました、と小さく首を振ったルークが再び無線機に向かった。では、と少佐が言った。 「聞いた通りだ。君は爆弾を作動させたまえ。その後はすみやかに二十二階から退避、こちらに上がってくるように」  了解、という返事を確認して少佐は無線機を切った。各班への連絡、終了しました、とルークが報告した。 「問題ありません。五分以内に、二十二階フロアからは全員が退避します。それともうひとつ、二十階�ブレイン�のクイーンから連絡が入っています」  無線の回路を切り替えた少佐が、私だ、と呼びかけた。甲高い声が響いた。 「コンピューターの修復は不可能です」  少佐が不愉快そうに無線機を耳から遠ざけた。 「もう少し抑えて話してくれ」  申し訳ありません、と今度は極端に声が低くなった。 「やはりエレベーターの使用は難しいと思われます」  少佐がゆっくりと首を回した。視線を避けるように、その場にいた全員が顔を背けた。やむを得ない、というつぶやきが薄い唇から漏れた。 「面倒だが仕方がないだろう。プランを変更すれば問題はない」  合図をした。迷彩服の一人がうなずいて、外に出ていった。報告がもうひとつあります、とクイーンの声がまた大きくなった。 「あと十分ほどで、電力供給の停止から二時間が経過します。つまり、焼却炉が使えるということに」  興奮したクイーンの金切り声が響いた。だが、今度は少佐もそれを咎《とが》めなかった。 「それを待っていたのだ」無線機を握る左手に力が籠もった。「では警備のスイッチを切り替えよう。クイーン、今ルークから連絡があったはずだが、爆破するフロアが十九階から二十二階に変更になった。だが計画は変わらない。十六時三十分の爆破後、信号を送るのだ」  了解です、とクイーンが応えた。 「どのフロアでも構いませんが、火災報知機を作動させてください。それを受けて、こちらで信号を発信します」  少佐が無線機を切った。 「すべての準備が完了した」  小さくうなずいた少佐に、ルークが敬礼した。 「この階の火災報知機でよろしいですね」 「もちろん」  少佐が窓際に歩み寄った。外の風景に目をやる。長かったな、と低い声でつぶやいた。 「あとは、彼らがいつ気づくかだけですね」  横に立ったルークが、同じように下を見つめた。 「それほど長く待つ必要はないだろう」少佐がそっとガラス窓に指を当てた。「あの大島という警視正は、我々の予想よりも有能だ。助かったな。逆にどうしようもない男なら、この計画は根底から崩れてしまうところだったが」 「まったくです。確かにあの男なら、我々の出すサインにすぐ反応してくれるでしょう」 「今の件を全員に連絡しておいてくれ」  もう一度少佐が時計を見た。四時五分。ソファセットに腰を降ろして、長い脚を組んだ。 「あと二十五分だ。問題は、それまでの退屈な時間をどうするかだが」  苦笑を浮かべた。ルークが無線機を取り上げた時、少佐の口が小さく開いた。 「ルーク」 「はい」  無線機を手に、何でしょうか、と目を上げた。 「命拾いしたな」  無表情のまま少佐が言った。うつむいたままルークが連絡を取り始めた。      17 [#地付き]04:05PM  役員会議室はウエストエリアの一番奥に位置している。窓からは台場の海が一望できた。冬の夕暮れは早い。黄昏に染まる海が美しかった。沖を一隻の客船が通り過ぎていくのが見えた。 (それどころじゃないわ)  動物園の熊のように、由紀子は会議室の中を歩き続けた。出口はないのだろうか。  四十坪ほどの大会議室に、出入り口はひとつしかない。そしてその鍵は壊されてしまっている。どうすることも出来ない。  喉が渇いていることに気づいて、冷蔵庫を開けた。酒の瓶がずらりと並んでいた。 (何なのよ)  会議と称して、役員達はいったい何をしているのだろうか。手前の瓶を取り出した。シャンパンのピンクボトル。中段にワインと日本酒が並んでいた。下段にはビールがぎっしりと詰め込まれている。  中段の奥にミネラルウォーターの瓶が数本あった。ペリエだ。蓋を開けて、喉に流し込んだ。炭酸の感触が心地よかった。 (どうしよう)  今までは自分のことで精一杯だった。逃げることがすべてだった。  だが、少なくともここにいる限り誰も入ってくることは出来ない。この建物の中で唯一安全な場所と言ってもいいだろう。  不意に圭の顔がよぎった。どこにいるのだろう。無事なのだろうか。誰でもいい、あの人を助けて。それからあたしも。  ドアを叩く物音がした。あの男が戻ってきたのだ。いつまでここにいたところで、どうにもならないことはわかっているはずなのに。 「ここにいたってしょうがないでしょ。それとも、あたしのことをずっと見張ってる気なの? ここからは出られないって、わかってるでしょ」 「見張ってるつもりはない。こっちもそれなりに忙しいのでね」  男が答えた。それはそうだろう。この巨大な建物を占拠するだけでも、どれだけの手間がかかることか。 「だったら」  もういいじゃない。内心の苛立ちを隠しきれないまま、ペリエの瓶を片手に由紀子は怒鳴った。 「だが、このまま放っておくわけにもいかない」冷静な声で男が言った。「また我々の作戦を妨害されても困る」 「だから、もう何にもしないって」  男の笑い声が聞こえた。おかしくて笑っているわけではないようだった。 「君のすぐ後ろに古い時計があるだろう」  振り向くと、宝石で縁取られた大きな年代物の振り子時計が飾られていた。文字盤のガラスは砕けていたが、振り子は動いている。針は四時五分を指していた。 「振り子のところに扉がある。そこを開いてみろ」  確かに小さな扉があった。鳩でも出てくるのだろうか。ガラスの小窓を開ける。手を伸ばして、その奥にある金属製の薄い蓋を引いた。赤と青、そして黄色のコードが目に映った。  コードは時計の奥へ入っているので、その先は見えない。見えるのはもう一方の端につながっている機械だけだ。表面にデジタル盤がついている。表示されている数字は00:00だった。 「さて、よく見ているんだ」  男の言葉と共にデジタルの数字が、24:00に変わった。23:59、23:58。見る間に、数字が減っていく。 「何よ、これ……何なの」 「今、時限爆弾の起動スイッチを入れた」  男が朗らかな声で言った。目眩がした。大理石のテーブルに手を置いて体を支えた。 「二十四分後、この部屋はきれいに吹き飛ぶことになる。もちろん中にいる君もだ」  また笑い声が響いた。今度は本当に笑っているのがわかった。23:06。気分が悪くなってきた。 「後片付けが大変よ。止めた方がいいんじゃないかしら」  それだけ言うのがやっとだった。まったくだ、と男が感情の籠もらない声で答えた。 「清掃会社に同情するね。さて、これまでの君の行動については感心している部分もあるが、それ以上に迷惑もしている。コンピューターを壊すなんて、いったいどういうつもりだ」  扉が派手な音をたてた。男が蹴ったのだ。 「エレベーターが使えなくなったのは想定外だった。どうにでもなるが、面倒なことをしてくれたな。これはそのささやかな礼だ」 「そんなお礼なんていらないわ。ここから出して」 「だからさっき言っただろう。ここで死ぬか、上でみんなと一緒に死ぬか、と。これは君が望んだ結果なのだ」 「望んでなんかいないわ」その時由紀子は気づいた。「あなたたち……最初からみんなを殺すつもりだったのね」  もちろんだ、と落ち着きはらった声で男が答えた。 「二十四階と二十五階はきれいに吹き飛ぶことになるが、その時彼らには犠牲になってもらう」 「どうして。どうしてこんな騒ぎを起こしたの」  それを話すには時間が足りない、と残念そうな声がした。 「ぜひ説明したいところだが、それは無理だ。ぐずぐずしていると爆破に巻き込まれてしまう」  デジタル時計の表示を横目で見た。20:07。 「ただ、これだけは言っておこう。単純に言えば、時間稼ぎだ。警察が邪魔をしないために、我々には時間が必要だったのだ。なにしろ二時間経たないと、焼却炉が温度を下げないからな」  何を言っているのだろう、この男は。ちっとも単純ではなかった。 「意味がわからないわ」  かわいそうに、と男が言った。 「何もわからないまま死ぬのは、辛いだろうな」  逃げられないだろうか。由紀子は辺りを見回した。最後まで諦めたくはない。 (でも)  絶望的な状況だった。他に出口がないことは既に確認済みだ。目の前が真っ暗になる。貧血。足を踏ん張って叫んだ。 「あなたたちの本当の目的は何なの」 「金だ」  あっさりと答が返ってきた。 「お金? 人質の身代金ってこと?」 「そんな小さな金のために、こんなことをすると思っているのか」  哀れむような声がした。 「じゃ、どんな大金なのよ」 「それを知ったところで、どうなるというものでもないだろう。どちらにしても君はここで死ぬ」  デジタル時計の表示が、17:00から16:59に変わった。 「こんなところで死にたくないわ」  時計の内部を覗き込みながら、由紀子はもう一度叫んだ。喉が痛くなる。コードの先端はどこにつながっているのだろう。唇をなめた。緊張で乾ききっていた。 「あなたたちが狙ってるお金って何なの」  ペリエを一気に喉に流し込んだ。冷えた発泡水が口のなかで弾けた。 「プラチナタワーの金さ。おや、もう十五分しかない」 「どういうことよ。プラチナタワーって」  どういう意味なの。いくらツインビルとはいえ、互いの建物は独立している。行き来することは出来ないのに。 「わかった。勘違いしているのね。ねえ、ここはゴールドタワーなの。プラチナタワーは隣のビル」 「教えてもらわなくても、それぐらいのことはわかっている」 「だったら、最初からプラチナタワーを襲えばいいじゃない」  答はなかった。腹立ちまぎれに、持っていた空の瓶をドアに投げつけた。ガラスが砕けて散らばった。 「意味がわかんないわよ。金って何よ。この辺りは警察に取り囲まれてるのよ。盗んだってすぐに捕まっちゃうわ。ちょっと、何とか言いなさいよ。答えなさいってば」  うるさいな、とまた男がドアを蹴った。振り向いた。時計。14:47。 「この辺で失礼させてもらおう。爆破に巻き込まれたくないからな」 「待って、お願い。あたしもこんなとこで死ぬなんて嫌」  金切り声を上げてドアに体ごとぶつかっていった。何も変わらない。両手の拳で硬い合金製のドアを叩いた。数字はカウントダウンを続けている。気が狂いそうだ。 「ここから出して。何でもするから」 「そのためにはドアロックを直さなければならない。そんな技術は俺にはない」 「だったら壊さなきゃいいじゃない! バカ!」  大丈夫だ、と嘲るように男が声をかけた。 「苦しむことはない。爆発は一瞬だ」 「そういう問題じゃないわ。こんなところで死にたくないって言ってるのよ、この人殺し!」  叫びながら扉を蹴った。表面には傷ひとつつかない。逆に足首が悲鳴を上げた。足首を押さえてうずくまった。 「死ぬときは安らかに死にたいものだな」静かな声がした。「これは忠告だが……お祈りでもしていたらどうだ」  足音が遠ざかっていく。由紀子はデジタル時計をもう一度見た。12:52という数字が目に飛び込んできた。      18 [#地付き]04:20PM  ソファに腰を降ろしたまま、既に二十分近くが経っていた。少佐は姿勢を変えていない。窓の外に目を向けているその姿は、彫像のようだった。 「失礼します」  迷彩服の男が入ってきた。彫像の首だけがゆっくりと動いた。 「どうした」 「二十二階の役員会議室、爆弾のセットを完了しました」  緊張した表情のまま、迷彩服が敬礼した。顔を正面に戻した少佐が、腕の時計に視線を落とした。 「爆破は正確に何分後か」 「今から十一分後、十六時三十一分です」  一分遅れたな、とつぶやいた少佐が脚を組み直す。申し訳ありません、と迷彩服が目を伏せた。  テーブルに肘をついた少佐が小さな声で、人質の移動は終わったのか、と確認した。視線は窓の外に向いたままだった。後ろで待機していたルークがうなずいた。 「はい。後は彼らだけです」  離れた場所にいるカメラクルーを指さした。男たちが警察との交渉を実況中継するために、カメラのセッティングを始めていた。 「次の中継が終われば彼らにも用はない」ゲームに飽きた子供のように醒めた口調で少佐が言った。「終わり次第、彼らを上に連れていけ。後は例のビデオテープがあればそれで用は足りる」  最終確認を、と命じた。わかりました、とルークが無線機に手をかけた。早口で指令を下し始める。その様子を眺めていた少佐が、前髪の乱れを神経質そうに直した。 「爆破の直後に火災報知機を作動させるように」  了解、とルークが小さく答えた。再び元の姿勢に戻った少佐が、また外を眺め始めた。      19 [#地付き]04:23PM  機銃を構えた迷彩服の男が、二十五階セクレタリールームの扉の前で立っていた。集められた十二人の人質は、床に直接座らされていた。会話は禁じられている。 (なぜ、移動しなければならなかったのか)  迷彩服の男を盗み見ながら、岡本圭はその理由を考えていた。二十四階小会議室にいた自分たちを、ここまで連れてきたのも彼らだ。  二十四階では、それなりの秩序が保たれていた。抵抗を試みたり、逃げようとしない代わりに、彼らも手荒な扱いをしない。暗黙の協定だった。それは、お互いのためにも望ましい状況だったはずだ。  にもかかわらず、彼らは二十五階への移動を命じた。エレベーターが使えないために、非常階段を使ってここまで来たが、移動の際に誰かが抵抗したり逃げようとする可能性もあったのだ。犯人たちにとって、リスクがまったくないわけではなかった。犯人たちも、それは理解していたはずだ。それでも、彼らは自分たちを二十五階に移した。  場所を変えるだけなら、意味はない。閉じ込める場所が二十四階から二十五階に変わったところで、彼らにとっては同じだろう。  そこには何らかの理由があるはずだ。人質をここへ連れてこなければならなかった理由。  いきなりドアが開いて、迷彩服を着た二人の白人が入ってきた。両手に大きな布製のバッグを提げていた。 「諸君、着ている服を脱いでもらいたい」  流暢な日本語で、白人の一人が言った。何をするつもりなのか。 「虐待でもする気か」自分の口が勝手に動くのを、圭は止められなかった。「俺たちはイラク兵じゃないんだぞ」  岡本、と役員の藤田がジャケットの袖を強く引いた。 「そんなつもりはない」  重々しい口調でそう言った白人がバッグを床に放った。袋の口が開いていた。中から男が着ているのと同じ柄の迷彩服が見えた。 「着替えろ。サイズはすべてLだ」 「何のために、ですか」  人質の中から声が上がった。三人の男たちが同時に銃を構えた。止せ、と藤田が制止した。 「言われた通りにするしかない。全員、着替えるんだ」  そう言って、スーツを脱ぎ始めた。      20 [#地付き]04:27PM  青と赤と黄色のコードが、複雑にからみあっている。もつれ合う蛇のようだった。  タイマーを解体しようと一瞬考えたが、すぐに諦めた。そんなことが出来るはずはない。自分のことは自分が一番よくわかっている。人間の能力には限りがあるのだ。  周りを見渡した。どこでもいい。爆風を避けられるような場所はないだろうか。  大理石のテーブルの下に潜り込んでみたが、意味がないとわかって這い出した。駄目だ、こんなところにいても、どうにもならない。  天井を見上げた。右隅に五十センチ四方ほどの大きさで仕切りがついていた。通風口だ。経理部にも同じものがある。あそこから外へ逃げられないだろうか。  考えるより先に体が動いた。重い椅子を二脚ひきずって、通風口の下に積み重ねる。安定は悪いが、その上に立てばあの穴に手が届くだろう。  壁に手をついてバランスを取りながら椅子に足をかけた。通風口に手を伸ばす。仕切り板を留めている穴に指を突っ込んだ。強引に引っ張って板を外した。爪が割れたが、そんなことに構っている場合ではない。  夢中で残りの板をはがすと、五十センチ四方ほどの穴にぶつかった。目の細かい金網が張られていた。破ろうと手を伸ばした時、その縁に南京錠がついていることに気がついた。  機密保持のために、総務部はこんなところにまで鍵をつけていたのだ。思い切り右手を突き出して金網を叩いた。 (痛)  手が痺れただけだった。めげずにもう一度叩こうとした時、バランスが崩れた。そのまま腰から床に落ちた。  痛みをこらえて立ち上がった。腰を押さえながらタイマーを確認する。03:15。絶望的な数字だった。  諦めかけた由紀子の目に、部屋の隅に備え付けられていた冷蔵庫が飛び込んできた。この部屋で由紀子より大きなものは、大テーブル以外にそれしかない。 (あそこだ)  駄目かもしれない。でも他に何もないのだ。冷蔵庫に走り寄った。  陰に隠れるつもりだったが、無意識のうちに手が勝手に冷蔵庫の扉を開けていた。さっき見た通り、中には高級そうな酒類がぎっしりと詰まっている。助かったら、と由紀子は胸の内でつぶやいた。 (絶対、内部告発してやる)  あたしたちがボールペン一本のために稟議書《りんぎしよ》まで回してるっていうのに、あの連中ときたらどういうつもりよ。冗談じゃないわ。  酒の瓶を次々に床に放り投げた。手が狂ったように動く。足元でボトルが割れた。強烈なアルコールの香り。  吟醸酒、白ワイン、ピンクのドンペリ。さまざまな酒が由紀子の足元でブレンドされていく。中に入っているものをすべて出した。三段ある仕切り板も外した。 (倒さないと)  直感的に思いついた。爆発が起きたら、この冷蔵庫にも爆風が襲いかかるだろう。縦に長いこの形では、どう転がっていくかわからない。棺桶のように、横にしなければ。  飛びつくようにして、冷蔵庫を横倒しにした。地響き。 (お願い、間に合って)  タイマーを確認している余裕はなかった。あと何秒残っているのか。  冷蔵庫の扉を開けて中に体を潜り込ませた。入らない。肩がつかえている。  無理やりに体を丸めて、頭を突っ込んだ。扉を閉めないと。腕を伸ばすと、指がかかった。引き寄せる。閉まった。  いきなり真っ暗になった。何も見えない。失敗した。コンセントを抜けばよかった。寒い。当たり前だわ、だって冷蔵庫だもの。  冷たく暗い空間の中で、由紀子は叫んだ。 「助けて!」  タイマーが鳴り響いた。 [#改ページ] [#小見出し]  Part4 TV JOKER[#「Part4 TV JOKER」はゴシック体] (二月十四日金曜日 午後四時二十八分〜午後五時五十八分)      1 [#地付き]04:28PM  テレビジャパン六階編成部に設けられた前線本部に入ってくる情報は、厳しいものばかりだった。  外務省からの連絡によれば、北朝鮮は事件についての関与を改めて否定し、日本政府への抗議も辞さない、という姿勢を崩していないということだった。交渉は中断されている。再開のためにあらゆる努力を払っていたが、一切進展はなかった。  犯人グループが要求している二千億円についても、その準備は遅々として進んでいない。現実問題として、二千億円の現金を用意する機能が警視庁にも警察庁にもなかった。  仮に準備が可能であったとしても、この種の事件で犯人に金を渡す場合はすべての紙幣の番号をビデオ撮影し、また特殊塗料を塗布するなど犯人がその金を使うことができないような措置を取らなければならない。二千万枚の一万円札を一時間で撮影すること自体が不可能だった。  それ以上に警視庁の捜査指揮本部では、犯人グループに対して金を渡してはならないとする意見が大勢を占めていた。テロリストの要求を受け入れれば、国家の威信は崩れ、警察組織の根幹が揺るぎかねない事態となるだろう。  断固たる態度を示す必要がある、というのが上層部の見解だった。国際的に見ても、犯罪者に対して弱腰な対応をすれば世界的な批判を浴びることが予想された。  結論として、警視庁は更なる時間の引き延ばしを前線本部に命じていた。午後四時二十五分のことだった。  命令だけを伝えて、通信が切れた。モニターの画面が真っ暗になった。短い脚を絶え間なく動かしながら、大島が肩を鳴らした。 「どうします」  呻いた小比類巻に、出来る限りのことをするしかないだろう、と大島がつぶやいた。その時通信班が、入電、と叫んだ。 「二十四階からです」  早いな、と壁の時計を見上げた。四時二十六分。約束の時刻までまだ四分残っていた。  同時に、正面に設置されたモニターの画像が切り替わった。アナウンサーの霧島が大写しになった。 「テレビジャパン二十四階の霧島です。北朝鮮特殊部隊関係者を名乗る犯人たちによって占拠が続いているテレビジャパン社屋ですが、二時間前の段階で犯人は不当な経済措置に対する賠償金として二千億円を要求、また今後三十年間にわたる経済援助を求めました」  マイクを握り直した霧島が額の汗を拭った。カメラがパンして、後ろのテーブルに座っている少佐の姿を映し出した。 「この犯人の要求に対し、警察当局は二時半と三時半の段階で一時間ずつの回答延長を逆に要求、犯人側もそれを受け入れました。そしてたった今その二時間が経過、再び犯人グループのリーダーである少佐から、警察に連絡が取られようとしています。いったい警察はどのような答を用意しているのでしょうか」  カメラが少佐をアップにする。画面が固定されたことを確認してから、少佐が電話機のボタンを押した。通話がつながった。 「大島だ」 「テレビは見ていただろうね」  もちろん、と大島が答えた。それでは、と少佐が強ばった表情のまま口を開いた。 「我々は君たちの要請に従って二時間待った。返答を聞かせてもらいたい。日本政府は我々の要求を受け入れるのか」 「そのつもりだ」顔色ひとつ変えずに大島が言った。「ただし、その前に条件がある。まず人質の安全を確認させてほしい。本当に無事なのかどうか確かめたい」  少佐が手招きをした。霧島がフレームに入って来る。 「答えたまえ」  うなずいた霧島が口を開いた。 「現在のところ、私たちテレビクルーを含め、人質は全員無事です。犯人たちによって肉体的、あるいは精神的な危害を加えられているような事実はありません。基本的には、非常に友好的な関係であるといえると思います」 「アナウンサーについては、その通りだろう」大島が霧島の言葉を遮った。「そうではなく、他の人質について言っている。せっかくカメラがあるのだから、全員の無事な姿を見せてほしい」 「警視正、無意味な時間稼ぎだとは思わないか」少佐が冷笑を浮かべた。「我々は要求をした。君たちがそれに応じるかどうか、今問題なのはそれだけだ」 「だからその前に、前提条件として人質の安全を確かめたいと言っている」  粘り強い口調で大島が繰り返した。特殊捜査班の捜査官として最も重要な資質は執拗さだった。 「君たちは人質の代価として二千億円の金を要求している。逆にいえば、人質の生命が確認出来ない限り金を支払うことはできない。そうではないか、少佐。フェアな取引とは、そういうものではないだろうか」  うんざりした表情を浮かべた少佐が右手を挙げた。演奏を開始する直前の、オーケストラの指揮者のようだった。すべての音が止まる。  不意に、少佐が手を振り下ろした。      2 [#地付き]04:31PM  爆発の威力は凄まじかった。  爆弾が仕掛けられていた時計が台座ごと吹き飛び、威力を増すため台座を囲うように配置されていた鉄パイプが、打ち上げ花火のように室内を飛び回った。次々に壁に突き刺さっていく。  爆風で会議室の家具類はすべて吹き飛び、窓ガラスが粉々に砕け散った。蛍光灯がすべて割れて、ガラスの破片がシャワーのように床に降り注いでいく。分厚い壁に大きな穴がいくつも開いた。  由紀子が逃げ場所に選んだ冷蔵庫も、爆風の影響から逃れることは出来なかった。横倒しになった冷蔵庫が、そのまま軽々と転がっていく。勢いのままに壁にぶち当たったところで、もたれかかるようにして動きを停めた。 (死ぬんだ)  整備不良のジェットコースターに、ベルトをしないで乗り込んだようなものだった。急激に胃がせりあがってくる。頭が割れそうに痛んだ。 (絶対死ぬ)  もう一度爆発が起きた。体が浮き上がる感覚。爆風のために、百キロ以上ある冷蔵庫が一メートル以上飛んだのだ。激しい音と共に床に叩きつけられた。狭さと暗さのために、自分がどんな姿勢を取っているかさえもわからない。 (もう駄目)  だが強烈な爆風も、冷蔵庫そのものを破壊するには至らなかった。数分後、奇妙な静けさが広がった。自分の心臓の音だけが聞こえた。 (助かったの?)  首をわずかに動かして左右に目をやった。真っ暗で何も見えないが、とにかく生きていることだけは間違いない。 (ここから出ないと)  このままでは窒息死してしまう。腕を伸ばした。ジャケットがどこかで破れて、悲鳴をあげた。どうでもいい。半ば自棄《やけ》になって、足を思い切り蹴り出した。  冷蔵庫のドアは開かなかった。内部が真っ暗なために、方向感覚がおかしくなっている。どこを蹴っているのかさえわからない。あたしはどんな格好をしているのだろうか。由紀子はもう一度足を突き上げた。  ドアは開かない。何をどうしたらいいのか。目眩がしてきた。心臓が苦しい。ストレスのための過呼吸だ。 (冗談じゃない)  ここまで来て冷蔵庫の中で窒息死なんて出来ない。こんなところで死にたくない。絶対死にたくない。  ゆっくりと深呼吸して、息を整えた。膝を胸のところまで折り曲げてから、強く蹴り出した。 (開かない)  昔の冷蔵庫は、内側から開けることができない構造になっていたという知識はあった。子供が閉じ込められて窒息死してしまう事故が頻発したために、現在ではそのような構造の冷蔵庫は造られていないはずだ。  この冷蔵庫は最新式だから、中から開けられないはずはない。落ち着いて、お願い。由紀子。落ち着くのよ。  そんなことわかってる。強く頭を振った。心が納得していない。心臓の動悸が更に激しくなった。もしかしたら、何か余計な機能が付いているかもしれない。もし開けられなかったら。  由紀子は両足を使って、自転車のペダルを漕ぐ要領で続けざまに冷蔵庫の壁を蹴りつけた。音が内部で反響して、耳に突き刺さる。力を込めた足首がねじれて、痛みが走ったが、構わずに蹴り続けた。 「開いて!」  叫んだ瞬間、後頭部が床にぶつかる鈍い音がした。目の前がいきなり明るくなった。  蹴り続けていたのは冷蔵庫の奥側だった。扉のない面をいくら蹴ったところで、開くはずもない。  それでも、蹴り続けた甲斐はあった。強く蹴った反動で、背中側にあったドアが開いたのだ。その結果として、頭からフロアに落ちていくことになったのだが。  冷蔵庫の外に出た由紀子を待っていたのは、スプリンクラーのシャワーだった。全身があっという間にずぶ濡れになる。だが床で強打した頭には、むしろ気持ちがよかった。生きてる。あたしは生きてる。  もう動きたくない。由紀子は仰向けになったまま口を開けた。スプリンクラーの水が喉の渇きを潤していく。  ずっとこうしていられたら、どんなに幸せだろう。でも、そんなわけにはいかない。それだけはわかっていた。両腕を床について、のろのろと体を起こした。 『二十四階と二十五階はきれいに吹き飛ぶことになるが、その時に人質には犠牲になってもらう』  あの男はそう言っていた。ここで死ぬか、上でみんなと一緒に死ぬか、とも。 (見てなさいよ)  あたしは、ここでは、死なない。こんなところで死んでたまるもんか。あたしだけじゃない。あの人も死なせたりはしない。  もう誰も助けに来てくれないことはよくわかった。それならそれでいい。誰にも頼ったりしない。あたしが、圭を助ける。助けられるのは、あたししかいないのだから。  前を見た。扉がなくなっている。頑丈な合金製だったが、壁ごと爆風のために吹き飛ばされていたのだ。 (行かなきゃ)  片方しか残っていないジャケットの袖を破り捨てて、由紀子は歩き始めた。      3 [#地付き]04:32PM  遠くから地鳴りが聞こえた。次の瞬間、立っていた捜査員たちが、全員同じ動きでよろめいた。デスクを掴んだ腕で体を支えながら、大島が叫んだ。 「少佐、どういうことだ! 何をした!」  モニターに映る画像は更に混乱していた。カメラが左右にぶれ、少佐の姿を捉えることが出来なくなっている。画面の端に、転倒した霧島の足が映った。 「これは報いだ」揺れが収まるのを待ってから、厳かな声で少佐が答えた。「警視正、君の回答には誠意がない。これはその報いなのだ」 「どういう意味だ」  どこかで火災報知機の警報が鳴り響き始めていた。 「君がしているのは、単なる引き延ばし工作に過ぎない。警視正、いくら時間を稼ごうとしたところで意味はないのだ。我々は我々の要求がかなえられない限り、このビルを破壊していく。今のはほんの手始めに過ぎない」 「いったい何をした」  大島は目の前のデスクを見た。きれいに積み上げられていたペットボトルの塔が崩れていた。 「二十二階の一部を爆破したのだ」淡々とした様子で少佐が説明した。「爆発としては非常に小規模なものだから、火災の可能性はない。スプリンクラーも作動している」 「なぜこんなことを」  わからない男だ、と少佐が吐き捨てた。 「さっきも言った通り、君の回答に誠意がないからだ。聞きたまえ。今の爆発は、我々が準備した中では最も威力の少ない爆発物によるものだ。この十倍以上の量を、我々は建物内の要所に仕掛けている。すべてを爆発させれば、このビル自体が消滅してしまうだろう。警視正、そろそろ君たちも理解するべきだ。我々が命を懸けているという事実を」 「少佐、わかっている」考え込んでいた大島が顔を上げた。「必ず金は用意しよう。約束する」  腕を組んだまましばらく黙っていた少佐が、顎鬚に指で触れながらうなずいた。 「それが賢い選択というものだ」指を一本立てた。「ではあと一時間待とう。それまでに必ず金を準備しておくように。金が整った段階で、その後の指示をする。一時間後だ。もう一度連絡する」  少佐が受話器を置いた。カメラがマイクを持ったまま立ち上がった霧島を映し出す。その目が虚ろになっていた。唇がかすかに動いたが、声は聞こえなかった。 「監視班より連絡、二十二階ウエストエリアの窓ガラスが大破しています」小比類巻が報告した。「今、消防署からも連絡が入りました。スプリンクラーは正常に作動、火災は発生せず」  本庁に連絡を、と大島が命じた。 「金を用意するか、そうでなければ強行突入しかない」 「ではSATを」 「吉田をこちらに呼んでおいてくれ」  SAT吉田武人隊長は大島の二期後輩で、第六機動隊に転出する前は特殊捜査班に在籍していた。気心の知れた仲であり、大島にとって小比類巻の次に信頼できる捜査官だった。 「それだけがありがたい」  つぶやいた大島に、小比類巻が携帯電話を差し出した。 「本庁から入電です」  携帯電話を受け取った大島が、短い脚を組んだ。      4 [#地付き]04:41PM  少佐がモニターを自分の正面に向けた。画面ではキャスターが警察の見解と二十二階の爆破についての説明を続けている。  時折大破した二十二階ウエストエリアの映像が挟みこまれたが、火災は起きていない。うなずきながら少佐が椅子を回転させた。 「いい流れだ」  向かいの席に着いていたルークが、まったくです、と応えた。 「これで彼らも、脅しではないことを改めて認識したでしょう。今後の展開がますます容易になります」 「それでは最終段階に入ろう」  あと一時間だ、と腕時計を見た少佐が手で促した。立ち上がったルークが、テレビクルーに近づいた。 「諸君、協力に感謝する」宣言するように言った。「君たちの役目は終わった。このフロアを引き払う。二十五階に移動だ」 「二十五階、ですか」追従笑《ついしようわら》いを頬に貼りつけた霧島が腰を浮かせた。「いったいなぜです?」 「理由を説明する必要を認めない。機材は置いたままでいい」  高圧的にルークが指示した。迷彩服の男たちが前に出た。テレビクルーたちが顔を見合わせた。どう対処していいのかわからない様子だった。 「なぜでしょうか。まだ事件は終わっていません」代表する形で霧島が口を開いた。「確かに警察は皆さんの要求を受け入れましたが、金の受け渡しをどうするかなども含め、肝心な事が決まっていないはずです。そしてそれをすべて中継するのが私たちの役目だと」 「金の受け渡しなど、どうでもいい」ルークが吐き捨てた。「だいたい、彼らに金を支払う意思などない。今ごろ、このフロアに突入するための策でも練っていることだろう」  そんな、と息を詰まらせながら霧島が言った。 「私たち人質がいるのに、そんなことをするはずがありません」  諸君に二千億円の価値はない、とルークが冷笑を浮かべた。 「仮にあったとしても、日本という国が脅迫の代償としてそんな金を支払うと思うか」  動揺したテレビクルーが互いを見つめた。待て、と席を離れた少佐が声をかけた。 「彼らはよく協力してくれた。多少説明する義務があるだろう」  細い指先を組み合わせてつぶやいた。うなずいたルークが場所を譲った。 「既に君たちの同僚は二十五階に移っているが」少佐が天井を指さした。「彼らと合流してもらう」 「会議室に閉じ込められていた社長たちが、連れていかれたのは知っていますが」戸惑ったような表情のまま、霧島が目を床に落とした。「しかし、私たちテレビクルーは中継の必要が」  もうないのだ、と少佐が手を振った。 「これ以上実況を続ける意味はない。さあ、二十五階へ行きたまえ。着替えが用意してある。そこで我々の身代わりになってもらいたい」 「身代わり?」  不吉な語感に霧島の頬が引きつった。そうだ、と少佐が微笑んだ。 「このビルの二十四階及び二十五階フロアを我々は爆破する。諸君は我々の身代わりとなって死ぬのだ」 「あまり面倒はかけないように」  ルークが付け加えた。よろける足で立ち上がった霧島が辺りを見渡した。 「少佐、あんたたちは」  迷彩服の男たちが周囲を固めていた。逃げることはできない。いったい何を、とつぶやいた。 「いったい何をする気で、こんなことを」  一歩前に出た霧島の腕を、迷彩服の男が掴んだ。そのまま顔を平手で張る。鼻から血を溢れさせた霧島が尻から床に落ちた。ワイシャツの前が赤く染まった。 「最初からそのつもりだったのか」  座り込んだまま霧島が喚いた。その姿はまるで酔っ払いのようだった。もちろん、と少佐がうなずいた。 「君たちテレビクルーを含めて、人質十六人は全員我々の身代わりになってもらう。我々は十五人だが、一人ぐらい違っても大した違いではない」事務的な口調だった。「ビルの上部すべてを吹き飛ばすほどの規模の爆発だ。死体の顔など、見分けがつくはずもない。警察が調べている間に我々は逃げる。そういうことだ」 「なぜそんなことをする必要がある」霧島が鼻血を袖で拭った。「あんたたちは北朝鮮の軍人なんだろう? 国を救うために決起したんじゃなかったのか」 「軍人だが、北朝鮮のではない」少佐が苦い口調になった。「正確には傭兵だ。より正確に言えば、我々は戦争に飽きた傭兵なのだ。当然のことだが、そんな我々に北朝鮮を救う義理などない」 「何を言ってるのかさっぱりわからない」霧島が頭を激しく振った。「じゃあ二千億円はどうなるんだ。手に入らないぞ」  二千億円か、と少佐が軽く手を叩いた。霧島の体を引き起こしたルークが、顔を近づけて囁きかけた。 「そんな金はいらない。狙っているのは、もっと現実的な金だよ」 「いったいどうなってる。何でこんなことになったんだ」唖然としながら、霧島が口の中でつぶやいた。「少佐、止めてくれ。俺達を殺しても、あんたの国は救われない。そうだろ」 「人の話を聞きたまえ。我々は北朝鮮と何の関係もない。あの国を救うつもりはないし、どうなろうと構わないのだ」  連れていけ、と少佐が合図した。テレビクルーを引きずるようにして、迷彩服たちが階段へと向かっていった。      5 [#地付き]04:45PM  本庁との意見交換の結果、午後四時四十五分の段階で前線本部の方針は建物内への強行突入、犯人グループの即時逮捕と決定した。人質の命を危険にさらすことなく犯人を逮捕するように、という厳命も下されていた。  メディアを巻き込んだこの事件は、既に日本国内だけの問題ではなくなっている。対処を誤れば日本警察の威信に係わるだろう。外交問題にまで発展する可能性も十分に想定された。完璧な形での解決が絶対的な命題となっていた。  タイムリミットは午後五時三十分ジャスト。既に残り時間は四十五分を切っている。ほぼ絶望的な状況だったが、前線本部の士気は高かった。  突入部隊の指揮は吉田、作戦の立案と決定は現場を統率する大島と、命令系統も明確だった。全員が一丸となって事件解決のための努力を続けている。彼らは日本最高のプロフェッショナルであり、最後まで諦めるつもりはなかった。  最終計画は二つに絞られていた。ヘリコプターで屋上から強行突入するか、もしくはエレベーターシャフトを昇って二十四階フロアへ侵入するか。  決断を迫られた大島の顔に苦悩の色が浮かんだ。事態を一変する情報が前線本部にもたらされたのは、その時だった。 「台場消防署から連絡が入っています」小比類巻が一枚のメモを渡した。「爆発後、我々は火災に関する問い合わせをしましたが」  覚えている、と大島がうなずいた。小比類巻が説明を続けた。 「火災の発生はありませんでしたので、それ自体に問題はないのですが、その後消防署の方から別の報告がありました。非常橋のスイッチが入っているというんです」  横から吉田が大島の手元を覗き込んだ。決して大柄というわけではないが、全身が鋼《はがね》のような体つきだった。 「非常橋のスイッチ?」 「おそらく、今の爆破の衝撃によるものではないか、ということです」 「爆破の衝撃?」  同じ言葉を繰り返すだけの吉田に、大島がテーブルの上に広げていた建物の設計図を示した。 「前線本部では既に検討済みの事項なのだが、ゴールドタワーとプラチナタワーの間には、災害の際お互いに避難出来るように�ブリッジ�と呼ばれる非常橋が設置されている」 「聞いています」  非常橋の存在については、事件が始まってからすぐに建設に携わった設計事務所からも指摘があった。同時に捜査会議においても検討が重ねられていたが、�ブレイン�を犯人に押さえられているために架橋が不可能であることが判明して、橋からの突入案はそのままになっていた。 「非常橋は悪戯等の防止のために、使用に関しては次のような手順が必要とされています」小比類巻が補足説明をした。「まず、どちらかのタワーが災害発生の連絡を行い、それを受けてもう一方のタワーが災害を確認後、両タワーから消防署に非常橋の要請をします。これを消防署が許可して初めて、橋は架かることになります」 「それも聞いている」吉田が首を傾げた。「だが、その災害発生の連絡は、互いのビルのコンピューターからでないと出来ないはずだ。そしてこちらのビルのブレインが奴らの支配下にある以上、橋は降りない。そう聞いているが」 「ええ。ですが状況が変わったんです」興奮した小比類巻の口から唾が飛んだ。「消防署が確認したところ、今の爆発の直後から非常橋のスイッチが入っていることがわかりました。そしてプラチナタワーの方は、最初の爆破があった段階で警報がセットされています。つまり、後は消防署から信号を送れば橋は降りるんです」  手の甲を額に当てて考え込んでいた大島が顔を上げた。 「正確な時間を」 「四時五十分です。少佐からの連絡まで、あと四十分あります」  小比類巻が答えた。 「そこから突入しましょう」 「突入命令を」  吉田と小比類巻が同時に叫んだ。姿勢を変えないまま、大島が首だけを動かした。 「吉田隊長、SATから突入隊を編成するように。五分で人選は可能か」 「もう待機しています」  吉田が携帯電話に手をかけた。装備の手配を、と矢継ぎ早に大島が命令を下す。了解です、と小比類巻が通信班に指示を出した。その手元にメモが回ってきた。 「台場消防署の確認が取れました。間違いありません。消防署からの信号で、すべての橋を降ろすことが可能です」 「その場合、犯人たちに気づかれないでしょうか」吉田が緊張の色を浮かべた。「音とか、あるいは振動で彼らが」  それはない、と大島が遮った。 「非常橋自体はゴールドタワー、プラチナタワー、共に外壁に取り付けられている。設計事務所によれば、消防署からの信号によって、まずタワー間に橋が架かる。建物の外で作動するため、内部まで音は聞こえない」むしろ報道規制の方が重要だ、と続けた。「テレビ局に命令して、空撮その他、外からの映像を流させないようにしなければならない。犯人に気づかれたら、すべてが終わりだ」  ブリッジはそれぞれ八階と九階、十五階と十六階、二十四階と二十五階の非常階段外壁に備えられている。非常時には二つのビルから折り畳み式の橋体が伸びて橋が架かるようになっていた。  その後、ビルの踊り場壁に設けられた非常災害扉が開き、互いのビルへの行き来が可能になる。安全対策のため、そのような設計になっていた。 「電動モーターによる架橋のため、振動もないということです」  小比類巻がメモを破り取って広報官に渡した。 「橋自体の長さは六メートル、幅は三メートルだ」資料を見ずに大島が続けた。「強化スチール製、七トンの荷重まで支えることが出来る」 「架橋にはどれぐらい時間がかかりますか」 「橋を架けるために約二分。だがこれは問題ない。二十五階に着くまでの間にこちらで手配しておく。君たちが到着した段階で、踊り場の壁を開くよう信号を送るが、これには一分かかる」  建物の構造について、大島はすべてを完全に把握していた。資料は必要なかった。 「十六階に応援部隊を派遣しよう。そこから十九階までは問題なく行ける。可能であれば二十階防火扉を破壊して犯人を挟撃したい。検討してくれ。SATはプラチナタワー二十五階に直行、その後ブリッジから突入のこと」  了解、とうなずいた吉田が片手で図面に赤い丸を描いた。見つめていた大島の目に、不安の色がよぎった。 「停電はまだ続いている。プラチナタワーのエレベーターは動いていない。吉田隊長、君たちの装備は」  SATが二十五階まで運ばなければならないのは銃器類だけではない。防護面付きヘルメット、防弾チョッキを装着した上で、大盾、通信用の無線機、有線電話、ロープ銃、ガス銃、非常用の酸素ボンベ、ガスマスク、救急キット、その他不測の事態に備えてあらゆる機材を携えていく必要がある。  エレベーターが稼働していないこの状況下、総重量約二十キロにも及ぶ重装備を背負ったまま、吉田以下SAT隊員たちは徒歩で二十五階まで昇らなければならない。仕方がないでしょう、と吉田が首をすくめた。 「他に二十五階まで上がる手段はありませんから」  こういう時のために日々の訓練があるのです、と力強くうなずいた。こめかみに指を当てていた大島が顔を上げた。かすかな笑みが浮かんだ。 「そうだな。君たちならやれるだろう」  第六機動隊特殊急襲部隊の訓練内容が苛烈過ぎるのではないか、というのは警視庁内部でもしばしば問題になっていた。だが、その訓練は無駄ではなかったのだ。 「我々なら可能です」  もう一度吉田が言った。強い意志を示す声だった。わかった、と大島がつぶやいた。 「もう一度、少佐の正確な現在位置を」 「彼らはゴールドタワー二十四階のイーストエリアにいます」  答えた小比類巻が図面の一点を押さえた。男たちの視線が交錯した。 「この辺りです。少佐が使用しているのは、イーストエリアのほぼ中心、経理部長席の電話機です。テレビ中継からも、彼らの位置は確認済みです」 「それでは、自分たちはプラチナタワーの二十五階からウエストエリアに入りましょう」図面を見ながら吉田がメモを取った。「いきなり彼らのいるフロアに突入するのはリスクが高すぎます。ウエストエリアから入ればエレベーターホールを挟むことになりますが、鉢合わせは避けられます」  その通りだ、と大島がデスクを強く叩いた。 「吉田隊長以下SAT突入隊は、プラチナタワー二十五階まで上がり、非常橋を通ってゴールドタワーに侵入、ウエストエリアを目指すように。通信班はその間随時連絡を取ること。万が一彼らに気づかれるなど、不測の事態が起きた場合には即時撤収の可能性もある。いいね」  わかりました、とうなずいた吉田が時計に目をやった。四時五十九分。 「時間がありません。行きます」  大島も立ち上がった。 「状況は厳しいが、人質の命は君たちにかかっている」  頼む、と吉田の手を握りしめた。その場にいたすべての捜査官が敬礼した。 「十五分で二十五階まで到達するように。その後は君の判断に任せる。連絡があり次第こちらで扉を開く。渡橋後、ゴールドタワー突入、二十四階まで降りて奴らを逮捕せよ」 「問題はありません。奴らは橋が架かることを知りませんからね。いきなり突っ込んで、終わりにしますよ」  気負うことなく吉田が言った。油断するな、と大島が顔をしかめた。 「通信には細心の注意を。彼らが傍受している可能性もある。スクランブルをかけること。小比類巻、本庁に報告だ。今から三十分以内にSAT特別班がゴールドタワーへ突入する。最終確認だ」  敬礼した吉田が編成部の出口に向かった。いつの間にか、大島のワイシャツの前がすっかりはだけていた。大きく息を吐いた。 「相手は名にし負う北朝鮮特殊部隊だ。無事に済めばいいのだが」 「SATも日本最強の部隊です」小比類巻が強い口調で言った。「実力は劣りません。しかも犯人たちにとっては予想外の襲撃です。必ず奴らを倒せるはずです」 「まだ終わったわけではない。むしろこれからが問題だ」大島が首だけを小比類巻に向けた。「君の言う通り、偶然に助けられたところもあるが、状況は有利になっている。だがこういう時こそ細心の注意を払って事件解決に当たる必要がある。油断は禁物だ」 「わかっています。後は少佐が非常橋のスイッチが入ったことに気づかないよう祈るだけですね」  その通りだ、と大島がうなずいた。 「あの男にしては手抜かりなことだ。小比類巻、十九階の人員配備を急げ。人質はそこで回収する」  指示を下す大島の顔に赤みがさし始めていた。      6 [#地付き]05:04PM  前線本部からの連絡によって、SAT隊員十一名から成る突入班は既にプラチナタワーへの集合を終えていた。副隊長の白岩が指揮を執り、彼らは非常階段から二十五階を目指して昇り始めた。重い靴音が広いとはいえない階段に響いていた。  プラチナタワーの階段はゴールドタワーと同じく、フロアから踊り場まで十段、その後また十段を昇ることで次のフロアに到達する。二十四階と二十五階の間にある踊り場まで四百七十段、これをフル装備で十五分以内に昇り切るのは至難だったが、彼らの顔に迷いの色はなかった。ペースを変えず、それぞれに歩を進めていった。  テレビジャパン六階の前線本部から後を追っていた吉田が追いついたのは四階だった。白岩が先を譲った。先頭に出た吉田がペースを速めるように指示した。  すべては時間との闘いだった。先を争うようにして、男たちが前へ進んでいった。  階段は急だった。背負っている装備が容赦なく肩に食い込んでいく。厳しい訓練に耐えてきた彼らにとってその負荷はそれほど問題ではなかったが、二十五階は遠かった。  それでもスピードは衰えない。長距離を走るランナーのように大きなストライドで階段を踏み越えていく。折り返し地点になる踊り場の壁には、それぞれフロアの階数が赤ペンキで記されていた。 「二十階だ」  吉田がペイントされた数字を示した。全員停止、と命じる。時計を見た。五時十四分。予定通りだった。 「まだ二十階ですか」  一番若い隊員が大きく息を吐いた。表情こそ辛そうだったが、足取りはしっかりしていた。  隊員たちはそれぞれ約二十キロの装備を背負っていた。にもかかわらず、呼吸を大きく乱している者はいない。日々の猛訓練の成果だった。 「足音に注意」  吉田が囁いた。隊員が履いている安全靴には、爪先を保護するために金属製のプレートが埋められている。そのため、普通の靴より歩く際の音が大きかった。隣のビルにまで伝わるとは考えられなかったが、注意を怠ることは出来ない。 「もうすぐだ。二十五階に到着したら本部に連絡する。あとひと踏ん張りだぞ」  昇り始めてから九分間が経過していた。行くぞ、と声をかけた吉田がグレーに塗られた階段を上り始めた。パールホワイトの踊り場を通り過ぎる。階段。そしてまた踊り場。 「二十四階」  吉田が振り向いて、小さくうなずいた。速度を落とすように手だけで指示する。男たちの足取りが緩やかなものに変わった。 「無線、準備は」  いつでも、と無線機を肩から下げた隊員の谷口が親指を立てた。最後の階段を昇った。二十四階と二十五階の間の踊り場に出たところで、全員を集めた。 「小休止だ」  五時十七分。十三分で二十五階までを踏破したことになる。記録的なスピードだった。 「谷口、本部と連絡を取ってくれ」  隊員たちが小型の酸素ボンベを取り出して、肺に酸素を補給し始めた。顔の汗を二の腕で拭いながら、白岩が背中の装備を降ろした。  静かに、と手で制した吉田に、無線がつながりました、と谷口が言った。ヘルメットに装着されているインカムに唇を近づけた。 「こちら吉田」 「現着したか」  大島の声が響いた。無線の感度は良好だった。 「はい。現在二十五階下の踊り場で待機中」 「了解。既に架橋は終了している。問題なければ壁を開くが、準備はどうか」  大島が早口で確認した。吉田は隊員たちを見回した。全員、無線から聞こえてくる声に対応していた。装備を背負い直して、吉田の命令を待っている。 「問題ありません。壁を開いてください」 「非常橋は今君たちがいる踊り場の外壁に設置されている。壁は横に開く。注意してくれ」 「了解」  踊り場から離れるように指示した。隊員たちが階段の上下に分かれた。 「準備よし」 「了解。では壁を開く」  無線が切れた。ただ一人、踊り場に立っていた吉田の前で、壁が中央の部分からゆっくりと二つに割れ始めた。  ペイントされた数字が、2と5に分断されていく。隙間から緑色の光がぼんやりと漏れ出した。非常橋の足元照明だった。既に陽は暮れかかっている。強いビル風が吹き込んできたが、吉田は腕を組んだまま一歩も動かなかった。  正確に一分後、壁が完全に開いた。強化スチール製の頑丈そうな通路が、彼らの目の前にあった。  吉田が非常橋に足を踏み入れた。足元でかすかな金属の音が響く。振り向いて合図を送った。 「我々はこの橋を渡りゴールドタワーに突入、人質の救出にあたる。犯人たちの抵抗が予想されるが、訓練通り対処するように」  隊員たちが踊り場に集まった。 「人質の安全を最優先とする。本件に際し発砲を許可する。これより装備の最終点検を行う。一分後、我々は橋を渡る」  男たちが静かにうなずいた。      7 [#地付き]05:20PM  テレビジャパン二十五階フロアは、エレベーターホールを挟んでイーストエリアが社長室及び社長秘書室、ウエストエリアが役員室と展望会議室に分かれている。少佐と迷彩服を着た十一人の男たちは、エレベーター脇の通路に集合して待機を続けていた。 「そろそろだな」  腕時計を見つめていた少佐がつぶやいた時、無線機が鳴った。すぐに出たルークが、了解、と返事をした。 「キングからです。奴らはウエストエリアの�ブリッジ�からやって来ます」 「予想通りだ」  少佐が指を鳴らした。それを合図に男たちがエレベーターホールを抜けてイーストエリアへ進んだ。全員がフロア内に入ったことを確かめて、少佐が自らドアを閉めた。 「まもなく奴らは橋を渡り、このゴールドタワーに入ってくる。まずは二十四階のウエストエリアに降りていくだろう。奴らは我々が二十四階イーストエリアにいると考えている」  少佐が目をつぶったままで言った。瞼の裏でシミュレーションしているかのようだった。 「その前にこちらも準備を整えておかなければならない。用意は」 「完璧です」  ルークが答えた。男たちがかすかな微笑を浮かべた。 「人質は」 「迷彩服に着替えさせた上で、拘束しました」ルークが�秘書専用�と表示されている小部屋を指さした。「あの部屋に閉じ込めています。この後すぐ、見張りを立てます」 「CCDカメラは」  迷彩服の一人が、窓際のデスクに小型のテレビモニターを置いた。 「このモニターで、非常橋を監視することが可能です」 「結構。では諸君、それぞれの任務に取り掛かってくれ。くれぐれも、音はたてないように」  男たちが自分の持ち場へ散らばっていく。非常階段へと走る者、小部屋へ入っていく者、CCDカメラを調節する者。  少佐自身はモニターの前に座った。調整を終えた迷彩服の男が、モニターを少佐の方に向けた。画面はモノクロだった。ウエストエリア側の非常階段がクリアに映し出されている。踊り場の壁に大きく�25�という数字がペイントされていた。 「よく映っている」うなずいた少佐がモニターを見つめた。「おや、始まったようだ」  画面を指さした。踊り場の壁に線が入りだしていた。見る間に、線が太くなっていく。壁が開き始めているのだ。  左右に分かれた壁が動きを止めた。完全装備のSATがそこにいた。      8 [#地付き]05:21PM  おぼつかない足取りで会議室を出た由紀子は、イーストエリアに向かった。ウエストエリアのフロアは爆発の影響でデスクや機材が倒れ、隠れているには危険過ぎた。  歩きにくいことに気がついた。スプリンクラーの水を全身に浴びているために、服がまとわりついて動きがままならなくなっている。 (何とかしないと)  イーストエリア側の非常階段に向かった。他のフロアと同じく、階段を降りた踊り場にトイレがある。入ったすぐ横に大きな鏡があった。そこに映し出された自分の姿を見つめた。ため息が漏れた。  街中のホームレスだって、これほどひどくはないだろうと思った。情けない姿に、悲しくなるより笑えてきた。  びしょ濡れになった髪の毛がからまって、首に張り付いている。スプリンクラーが浴びせかけた水が、髪の毛の先端からシャツワンピースの背中に流れ込んで気持ちが悪い。毛先をまとめて強く絞ると、驚くほど多量の水がしたたり落ちた。  ハンカチを水に浸して顔を拭くと、顔全体が薄い灰色になった。今朝、いつもより二時間早く起きて、あれほど念入りにメイクをしたのに。もうため息も出ない。濯《すす》ぐと、墨汁のような水が流れていった。  もう一度全身を見直した。ずぶ濡れになったジャケットとシャツワンピースを一気に脱ぎ捨てる。恥ずかしい、という感覚は無くなっていた。どうせ誰も見ていないのだ。  そのまま洗面台に広げた。ジャケットは布地のあらゆる部分に裂け目が生じていた。もう必要ない。洗面台横の用具入れに放り込んだ。  シャツワンピースを広げると、細かな皺が全面に出来ていた。だが、他に着るものはない。下着姿で歩くよりはましだろう。  強く絞ってから、破れた袖に手を通した。湿った生地が腕に張り付いて着心地は最悪だった。 (でも、それどころじゃないわ)  悲嘆にくれている時間はなかった。ここまで来て圭を救えなかったら、一生悔やんでも悔やみきれないだろう。  トイレの扉を開けて、辺りの様子を窺った。人の気配はない。階段を足早に昇った。  二十三階と二十四階の間にある踊り場まで上がったところで足が止まった。音。誰かいる。  回れ右をして、階段を降りた。二十三階から首だけ伸ばして上の様子を窺う。音はさらに上から聞こえていた。二十四階ではない。二十五階だ。  あの男は『二十五階に上がって、君の同僚と一緒に死ぬか』と言った。犯人たちも一緒にいるのだろう。  足音を忍ばせて二十四階まで上がった。階段越しに迷彩服の足が見えた。二十五階から踊り場まで降りてきた男たちが、何か言葉を交わしている。三人。 (何でこんなとこにいるのよ)  叫び出しそうになった口を手で覆った。迷彩服の男たちが、二十五階フロアから踊り場まで、階段に板を渡していた。 (何をしてるの)  板は頑丈そうな鉄板だった。階段の段差をなくすために敷いているようだ。どうしてそんなことをする必要があるのだろう。  考えるよりも早く、踊り場の上に設置されている非常灯が点滅を始めた。すぐに壁が二つに分かれ始めた。 (警察だ)  握った両手に力を込めた。壁が動いている。つまり非常橋が作動し始めたのだ。  どういう手段でかはわからないが、警察はブリッジを架けた。二十四階フロアにいる犯人たちを逮捕するために彼らはやって来たのだ。これで助かる。  まばたきひとつせずに、由紀子は開き始めた壁を見つめ続けた。      9 [#地付き]05:22PM  非常橋に踏み入れた足元で、鉄製の通路が小さな音をたてた。振り向いた吉田が、慎重に、と手で指示した。素早い足取りで、男たちが次々に橋を渡っていった。  移動する距離は短い。橋の長さは六メートルほどしかなかった。横から強いビル風が吹きつけているが、手摺りも備わっている。SATのメンバーである彼らにとって、渡橋はまったく問題なかった。  次々に橋を渡った隊員たちが、ゴールドタワー内に入っていく。踊り場がきれいなマリンブルーに塗られていることを除けば、建物の構造自体はプラチナタワーと変わらなかった。  踊り場に揃った隊員たちに向かって、吉田が親指を立ててから下へ向けた。階段を降りる、という意味の合図だった。隊員たちがすぐに了解して、吉田の後に続いた。  階段を降り切ると非常扉にぶつかった。銀色のドアノブを、音がしないよう慎重に下げる。ドアを押し開けた吉田を先頭に、全員が二十四階フロアに入っていった。  天井から�第二経理部�と記されたプレートが下がっていた。雑然としたオフィスには誰もいない。  フロアに入った吉田は、迷うことなく右手にある小会議室へと向かった。開けっ放しになっているドアから中へ足を踏み入れた。全員が入ったところで、最後の一人がドアを静かに閉めた。小会議室の位置については作戦行動前に確認済みだった。 「彼らはこのフロアから見て、エレベーターホールを挟んだイーストエリアにいる」早口で吉田が状況を説明した。「もちろん、人質もだ」  突入については、事前に何度もシミュレーション済みだった。SAT隊員たちもすべてを把握していたが、慎重の上にも慎重を期す必要があった。 「では、前衛の三人」  吉田が囁くように言った。谷口を含めた三人の男が手を挙げて前に出た。 「谷口、君が経理部ドアを爆破してくれ。後の二人が催涙ガスを撃ち込んだら、すぐに私を含め本隊の五人が突入、人質を救出する。後衛の三人は援護に回るように」  隊員たちがそれぞれにうなずいた。担当については、出動前に決められていた。  SAT隊員たちに求められているのは、何よりも人質の救出だった。北朝鮮特殊部隊の精鋭たちを相手にこの奪回作戦は無謀という見方もあったが、前線本部は計画に絶対の自信を持っていた。  犯人たちはSATが二十四階まで上がってきていることに気づいていない。同時に、警察との交渉はまだ続いている。不意をつく形で急襲すれば犯人の制圧は十分に可能だ、というのが大島と吉田の結論だった。  約十分後、犯人は現金受け渡しの指示をするために交渉を再開する。それが最大のチャンスになるだろう。そのためには迅速な行動が要求される。  ガス弾を撃ち込んでから犯人確保までの数十秒。それがこの作戦のすべてといえるが、全SAT隊員にはその能力が備わっていた。 「テレビクルーが問題だ」吉田がつぶやいた。「彼らは犯人たちと一緒にいる。安全確保が最重要課題だ。各員の機敏な対応を期待している」  吉田の声を聞きながら、隊員たちが出動態勢を整えた。 「全員、ガスマスク着用のこと。銃器の使用は各自の判断に任せる」  前衛隊員がガス銃を構えた。 「では、準備を。本部からの指示があるまで待機だ」  吉田がガスマスクを顔に当てた。      10 [#地付き]05:23PM  モニターのスイッチを切り替えると、画像がアップになった。男たちが装備の点検を始めていた。 「大変だな」  少佐がつぶやいた。ここまで、SATの動きについては完全に把握していた。少佐の部下たちは、二十四階フロアの至るところに、CCDカメラを仕掛けていた。  SATの行動は少佐の予想通りだった。非常橋を渡り、ゴールドタワー二十四階ウエストエリアに侵入後、非常階段脇の小会議室に入り待機する。装備点検後、本部の指示を待って作戦開始。 「マニュアル通りだ」少佐の言葉に、数人の迷彩服がうなずいた。「彼らは優秀だが、想像力に欠けているのが難だな」  画面の中で、一人の男が指示を下していた。三人が前に出た。それぞれ、銃身のやや短い銃を肩に担いでいた。  何度かうなずいていた男たちが、顔にガスマスクを装着し始めた。慣れた手つきが訓練の精度を物語っている。銃器類を抱くようにしながらフロアに直接腰を降ろした。  そこまで確認したところで、少佐がルークに目をやり、小さくうなずいた。 「よろしいでしょうか」  問い返したルークに、構わない、と答えた。では、と腕を伸ばしたルークが、イーストエリア社長室脇にある非常階段のドアを大きく開いた。      11 [#地付き]05:24PM  唇を固く結んだまま見守る由紀子の前で、壁が左右に割れた。現れたのは、胸に�TV JAPAN�のロゴがデザインされたスタッフジャンパーを着た五人の男たちだった。 (あれは)  ジャンパーに見覚えがあった。長年続いている昼の帯番組のプロデューサーが、去年番組の二十周年を記念してスタッフ全員に作ったものだ。  ただし、背中に番組のロゴが大きくプリントされているため、関係者からの評判は悪かった。テレビジャパンの社員で、このジャンパーを着ている者はまずいないといっていいだろう。  警察の変装だろうか。はかない期待をこめて、男たちの動きを見つめた。だが由紀子の願いもむなしく、ジャンパーの男が迷彩服の一人と握手を交わした。 (警察じゃない)  笑みを浮かべたまま話している様子は、明らかに彼らもまた犯人側の人間であることを示していた。男が合図した。  残った四人が、背後のブリッジから黒い袋を満載した大型の台車を押してきた。一メートル四方ほどの大きさで、全体が金網で囲われている。袋の中には何が入っているのだろう。  あの男が言った通りだ、と由紀子は思った。本当にプラチナタワーに少佐の部下たちがいたのだ。  鉄の橋を渡っているにもかかわらず、音はしなかった。タイヤ部分に何かゴムのようなものを巻いて、消音措置を施しているようだった。  男の一人が台車の車輪を階段下の鉄板の位置に合わせた。迷彩服の男が二人、下に回って傾いた台車の取っ手に手をかけた。そのまま力を込めて押し始めた。  鉄板の上を車輪が回転し、階段を上がっていく。完全に台車が廊下まで上がり、由紀子の視界から消えた。二人が戻ってきた。一人はしきりに手首を振っていた。  台車は一台や二台ではなかった。プラチナタワーまで駆け戻った男たちが、次々に運んでくる。待機していた男たちがそれぞれ台車に取り付いて、同じように上のフロアへ運び込んでいった。  由紀子が数えた限り、五十台もの台車が二十五階フロアに運び込まれていた。男たちの顔に汗が浮かんでいた。 「これで最後だ」  ジャンパーを着ている男の声が聞こえた。汗を拭きながら揃ってうなずいた迷彩服の男たちが台車に手を掛けた。板に向かって押し上げる。  そのとき、満載になっていた黒い袋のひとつが台車から転がり落ちた。袋の口が緩んで、中から帯で巻かれた札束がいくつも階段を転がっていくのが見えた。  やれやれ、と口元を曲げたジャンパーの男が階段を降りて、拾い上げた札束を袋の中に戻した。袋の口を結わえ直して、台車の後ろに回った。 (お金?)  あの黒い袋の中身は、すべて札束なのだろうか。どういうことだろう。いったいどれだけの金額になるのか、考えただけでも気が遠くなった。  最後の台車と共に、男たちが階段を昇り始めた。押していた男たちの姿が見えなくなるのを待って、由紀子はその後を追った。  階段のドアが目の前にあった。細く開いて、その隙間に目を当てた。      12 [#地付き]05:25PM  特大の台車が開け放たれたドアの陰からフロアに現れた。側面には"New millennium building"というロゴが入っている。押しているのは、やや年かさの背の低い男だった。黒い袋が山積みになっているその台車を脇に止めて、男が敬礼した。 「少佐」  視線を移した少佐がかすかにうなずいた。男が口を開いた。 「プラチナタワー二十二階、ワールドメガバンク金庫室より現金の搬出を終えました。それぞれの袋に一億円分の札束が入っております」  その後ろから、濃紺のスタッフジャンパーを着込んだ男たちが台車を運び入れていた。作業を手伝うために、迷彩服の男たちが急ぎ足でホールから出て行った。 「台車には十袋ずつ、一袋につき一億円、重量にして約百キロが積まれています」  男の報告が続いている。立ち止まった白人が、英語でひと声叫んだ。手で制した少佐が、静かに、と抑えた声で言った。 「キング、よくやってくれた。だが、まだすべてが終わったわけではない。労《ねぎら》いは後にしよう」  キングと呼ばれた背の低い男がうなずいた。その横を通って、次々に台車が二十五階エレベーターホールに向かっていった。  少佐も含めてフロアにいた全員がその後に続いた。ホールに出たところで、台車に取り付いた迷彩服たちが手際よく金網を外し始めた。袋の山が崩れて、足元に転がっていく。  三つに分かれた男たちが、それぞれに列を作った。バケツリレーのように袋を順番に送っていく。列の先頭にいた男がダストシュートの蓋を開けて、次々に袋を投げ込んだ。瞬く間に、五百個あった袋がその中に吸い込まれていった。 「投棄、完了しました」ルークが額の汗を拭いながら報告した。「後は回収作業を残すのみです」 「結構。それでは全員を集合させてくれ」  命じた少佐が、足元に置いてあった電話機をコードごと持ち上げた。      13 [#地付き]05:26PM  ドアの隙間に顔を近づけた。由紀子の目に映ったのは、台車を押して通路を進んでいく男たちの後ろ姿だった。人質は見えない。  最後の一人がエレベーターホールに続く角を曲がって行った。戻ってこないことを祈りながら、足を踏み出した。  右手のドアを開いて、フロアの様子を窺う。誰もいない。フロアに入った。そのまま早足で進む。エレベーターホール側のドアに近づいて耳を当てた。  大勢の人間が動く足音が聞こえた。思い切ってドアを五センチほど開いた。  ジャンパーの男たちが袋を放り投げていた。袋はどんどん前へ回され、三つに分かれた列の先頭にいた迷彩服の男が、ダストシュートに袋を投げ入れている。 (何をしてるのよ)  そんなことしたら、お金が全部燃えちゃうじゃないの。ダストシュートの先は、地下三階の焼却炉だ。  やっぱりこの連中はどうかしている。わざわざ苦労して盗み出した金を、なぜ燃やしてしまうのか。  そこまで考えてから、由紀子は強く頭を振った。違う、燃えない。役員会議室で、迷彩服の男が言っていた言葉を思い出した。 『二時間経たないと、焼却炉が温度を下げないからな』  焼却炉は稼働を停止している。原子力発電所からの送電がストップしているからだ。彼らは金の入った袋をダストシュートを通じ焼却炉に落として、回収するつもりだ。停電にさせたのはそのためだったのだ。  配電が停止された場合、焼却炉のような不急不要の場所への送電はカットされる。それは由紀子のような一般社員にとっても常識だった。 (でも、その後はどうするの)  十分な時間が経過した今、確かに焼却炉は温度を下げているだろう。金が詰まった袋を落としても、燃えることはないはずだ。  だが、建物の周囲は警官で厳重に監視されている。さっき見た通り、台車には何百という袋が積まれていた。重量は数百キロ、もしかしたら数千キロかもしれない。彼らはそれをどうやって外へ持ち出すつもりなのか。そしてどうやって逃げるというのだろう。ううん、と由紀子は首を振った。 (そんなの、どうでもいい)  どこへ逃げようと勝手だ。お金なんかどうなってもいい。あたしにとって大事なのは圭だ。何よりも、あたしはあの人を助けださなければならない。  あの男は二十四階と二十五階を爆破すると言った。おそらくそれも計画のひとつなのだろう。その前に何とかしないと。由紀子は目を凝らして、男たちの動きを追いかけた。  投棄作業が終了した。一人だけジャケットを着込んだ男がうなずいて、何か命令を下していた。端整な横顔と特徴的な顎鬚に見覚えがあった。  二十四階のエレベーターから降りてきた男。少佐だ。声が低くて、何を言っているのかまではわからない。  由紀子は目を見開いたまま、少佐の動きを見つめた。      14 [#地付き]05:27PM 「少佐からの連絡まで、五分を切りました」  小比類巻が言った。わかっている、と大島がうなずいた。ランニングシャツの上から、左手でたるんだ脇腹を強く掻き続けている。 「吉田の現在位置は」 「ウエストエリアで待機中」  四時三十一分の段階で、犯人たちはゴールドタワー二十二階を爆破している。その際、一時間後に連絡を入れる、と通告していた。少佐が時間に正確であれば、予告通り五時三十一分に再び連絡してくるだろう。  前線本部の立案通り、吉田隊長率いるSATはプラチナタワーからブリッジを渡って、ゴールドタワー・ウエストエリアへの侵入に成功していた。彼らは大島からの突入命令を待っていた。  大島もまた、少佐からの連絡を待っている。機会はそこしかない、というのが前線本部スタッフの一致した意見だった。  警察との交渉中に急襲されれば、不意をつかれた犯人グループはどうすることも出来ない。混乱した犯人を逮捕するのは容易であるというのが彼らの結論だった。逆にいえば、そのチャンスを逃せば犯人たちの逮捕はおろか、人質の命も保証できなくなる。 「待つだけだ」  大島がつぶやいた。何も答えずに小比類巻が拳を握りしめた。その時、通信班の担当者が椅子ごと体を回転させた。 「入電」  二十四階フロアからです、と鋭い声で叫んだ。早いな、と大島が時計を見た。五時二十七分。 「どうしますか」  小比類巻が緊張した顔を上げた。出るしかない、と大島が電話機のボタンを押した。      15 [#地付き]05:28PM  エレベーターホールでは、迷彩服の男たちがサバイバルナイフを使ってエレベーターの扉をこじ開けていた。  二人の白人が開いた扉の下部に金具をはめ込んで、固定させようとしている。何度か角度を調節しているうちに、位置が決まって扉が動かなくなった。  ルークが開いた扉に顔を突っ込んで上を見た。手を伸ばせば届くところにエレベーターの箱の底部がある。他のエレベーターは警察の強行突入を阻止するために、全機十九階で停止させていたが、この一基だけは屋上階に停めてあった。 「計画ではこのエレベーターに乗って地下三階まで降下する予定だったが、想定外の事態が起きた」少佐が口を開いた。「エレベーターは使用できない。面倒だが、エレベーターシャフトの中を通過して地下三階まで降りる」 「想定外の事態、ですか」  キングが首を捻った。問題はない、と少佐が繰り返した。 「我々の行動を妨害する者がいたのだ。詳しい説明は後でする。いずれにせよこの妨害者は既に排除済みだ」口調に淀みはなかった。「後はこの建物から退去するだけだ。ルーク」  エレベーターの箱から伸びているワイヤーを掴んでいたルークが、金属製のフックを掛けた。シャフト内は数メートル先まで二十五階からの光で様子を窺えるが、その先はただ真っ暗な闇が続いていた。ルークがヘッドランプのスイッチを入れた。 「では、下で」  足から暗い穴の中に飛び込んだ。フックが締まっているので、そのまま宙に浮くような格好になった。フックを緩めたり締めたりする動作の繰り返しによって、降下することが可能になっていた。 「二十階まで降りたら合図をするように。次の者を降ろす。以下、同じ要領だ」  返事の代わりに、ルークが胸ポケットに差し込んでいたペンライトを点滅させた。そのまま器用に片手だけでフックを操作して、一メートルほど体を滑らせる。フックを締めて、動きを停めた。このような事態を想定して、降下訓練は十分に積んでいた。  すぐにルークの姿が消えた。しばらく待つうちに、遥かに下の方で小さな光が点滅した。 「よろしい、次」  少佐の合図で、迷彩服の一人が同じようにフックをワイヤーに繋いだ。そのまま無言でシャフト内に体を滑りこませていく。目で合図した少佐に代わって、キングが指揮を執り始めた。  隣に立っていた迷彩服の黒人が、電話機を差し出した。受話器を取り上げた少佐がボタンを押すと、すぐに相手が出た。 「大島だ」  唇を曲げた少佐が、私だ、と言った。 「わかっている。少し早いようだが」 「事情がある。放送機材に故障が起きた。電話での通話は可能だが、それでは我々の目的に合致しない。カメラクルーの話では、故障はあと十分ほどで復旧する。それを待ちたい」  電話の向こうでしばらく間が空いた。 「構わないだろうね」  念を押した少佐に、問題ない、と大島が答えた。かすかにとまどったような声音だった。 「ひとつだけ確認しておきたい。金の準備は」 「終わっている」  躊躇なく大島が言った。順番に部下がエレベーターシャフトに飛び込んで行くのを横目で見ながら、少佐が小さくうなずいた。 「では、しばらく待ってほしい。テレビ中継が再開され次第、我々は声明を発表する。金の受け渡しについては、その後指示するつもりだ」 「声明?」  体格のいい迷彩服の男が、三角巾で腕を吊った男を軽々と背負った。ワイヤーに手をかけてエレベーターシャフトの中に入っていくのを確認した少佐が、その時がくればわかる、とつぶやいた。待ってくれ、という大島の声がした。 「人質の無事を確認したい。彼らは今、どこにいるのか」 「最初に伝えた通りだ。この二十四階フロアにいる。君たちが要求を受け入れさえすれば、彼らに危害を加えるつもりはない」  もちろんわかっている、と大島がわずかに声を高くした。 「だからこそ、金も用意している。君たちの要求はすべて呑む。これは上層部を含め警視庁の見解だ」  それならいい、と少佐が冷たく吐き捨てた。 「君たちにこちらを欺こうという意図が感じられた場合、あるいは誠意のない態度を取るようならば、通告した通りこのビルに仕掛けてあるすべての爆弾を爆発させる。我々は死を厭《いと》う者ではない」 「わかった。人質が無事に戻ってくればそれでいい。君たちを騙したりするつもりはまったくない」  大島が言い切った。無言のまま少佐が受話器を置いた。エレベーターホールに残っているのは、黒人と少佐だけになっていた。 「大島警視正は嘘がうまい」少佐が朗らかな声で言った。「非常に優秀な警察官だな、彼は。最後まで情報を入手しようとするところなど、見上げたものだ」  人質の居場所について確認をするつもりだったのだ、とつぶやいた。 「立派な態度です」  黒人が流暢な日本語で言った。 「それでは私たちも降りよう」冷笑を浮かべながら少佐が命じた。「ビデオの起動装置は」 「こちらに」  携帯電話を接続したノートパソコンを黒人が差し出した。時計を見た少佐が、八分後でいいだろう、と言った。 「八分後に動き出すようにセットしてくれ」  パソコンのキーボードに黒人がいくつかの数字を打ち込んで、そのままエレベーターの脇に置いた。 「結構。急ぎたまえ、爆発に巻き込まれたら面倒だ」  緊張した表情のまま、黒人がワイヤーにフックを繋いだ。      16 [#地付き]05:29PM  電話で何か話していた少佐が受話器を置くのが見えた。気がつくと、他の迷彩服の男たちはいなくなっていた。残っているのは少佐と黒人だけだった。  言葉を交わしていた黒人が、パソコンをフロアに置いた。不意にその姿が消える。少佐も見えなくなった。そこまで見届けてから由紀子はドアを閉めた。背中を預けるようにして座り込んだ。 (戻ってこないでしょうね)  もし誰かがこのドアを開けたら、すべて終わりだ。もう少し隠れて様子を見た方がいいのだろうか。  でも、と首を振った。圭はこのフロアにいる。どこかに閉じ込められている。あたしは彼を救いに来たのだ。ここでぐずぐずしているわけにはいかない。  入り口に立ってフロア全体を素早く見渡した。二十五階イーストエリアはすべて社長室として使われている。  ただし、中はいくつかの小部屋に分かれており、秘書専用のデスク、通称迎賓館と呼ばれている専用会議室、応接室などがあった。人質はどこに閉じ込められているのだろうか。  もちろん、専用会議室だ。十名以上の人間を隠しておけるスペースは他にない。由紀子はすぐ右手にある会議室の扉をゆっくりと開けた。  誰もいない。  そんな馬鹿な。混乱して、足に力が入らなくなった。社内見学会で一度来ただけだが、他の個室にそれほど広さがないことはわかっている。いったいどこにいるのか。  待って。落ち着いて。  人質はここにいないのだろうか。そんなはずはない。あの男は、二十五階に人質がいる、とはっきり言っていた。必ず圭はこのフロアにいる。  いや、それとも反対側のウエストエリアに閉じこめられているのだろうか。でも、だとしたら、なぜ少佐たちがこのフロアにいたのかがわからない。  最後まで人質たちを監視下に置いておこうとするのが自然な心理だろう。やっぱり圭はここにいる。  歩き始めた。他のフロアとは違い、通路には柔らかい厚手の絨毯《じゆうたん》が敷かれている。応接室の扉を開いた。誰もいない。泣きたくなった。  社長室自体のスペースは広いが、基本的にオープンな設計になっている。人間が隠れられる場所がないのだ。  足が止まった。かすかな音。辺りを見回す。通路の奥に�セクレタリールーム�と記された表示板が見えた。矢印の示すままに足を進めると、小さな扉があった。  社長や役員の秘書が休憩を取ったり着替えをするための小部屋だ。他のフロアにはそんな場所がないので思いつかなかったが、ここにいなかったらウエストエリアを捜すしかない。ドアノブをねじるようにして開いた。  迷彩服を着た男たちが何人も部屋の中にいるのが見えた。叩きつけるようにして閉めた。 (見つかった)  もう駄目だ。外からドアを押さえ付けながら辺りを見回した。声も出ない。誰か、誰か助けて。  どうしてこんなところに残っているのか。少佐と一緒に逃げたのではなかったのか。もっとよく確かめればよかった。でも、もう遅い。  すぐにあの男たちは出て来て、あたしを捕まえるだろう。人質になるのか、それともここで殺されるのか。どっちにしても、もう終わりだ。  だが何も起きなかった。ドアは動かない。フロアは静まりかえったままだった。 (どうして)  部屋の中にいた迷彩服の男たちは、あたしに気づかなかったのだろうか。由紀子は自分が見た光景を思い浮かべた。確かにいたのだ。  男たちは床に座っていた。こっちを向いた男もいた。全員が顔にガムテープを貼っていた。 (ガムテープ?)  そうだ、男たちは口にガムテープを貼られていた。それだけではない、手足も縛られていた。出てくることなど、出来るはずもなかった。 (きっと、仲間割れしたんだ)  奪った金の分け前を巡って争いが起き、敗れた連中がここに閉じ込められた。そういうことではないか。  とにかく、確かめなければならない。もう一度、今度はドアを細く開いた。  手足を縛られ、口にガムテープを貼られた迷彩服の男たちが、折り重なるようにして床に転がっていた。やっぱりそうだ。  もがくような声がした。左の壁際で横になっていた男が、なぜだ、という表情を浮かべたまま膝だけで起き上がろうとしている。その顔を見て、由紀子は大きくドアを開いた。圭。  無事だったのだ。急に目頭が熱くなって、何度もまばたきを繰り返した。  男たちがなぜ迷彩服を着ているのかわかった。着ているのではない。着せられているのだ。犯人は、人質を自分たちの身代わりに仕立てあげるつもりだったのだ。  顔を上げた男たちが、信じられない、というように由紀子を見つめていた。そりゃそうでしょうとも。自分でもなぜ今ここにいるのかよくわからないのだから、他人にわかるはずがない。  一度外に出た。秘書デスクの引き出しからハサミとカッターを持ち出して、部屋に戻った。一番ドアに近い場所にいた男の腕を取る。顔を見るとアナウンサーの霧島だった。  きつく結ばれた細引きのロープに、カッターの刃を当てた。細い割に強度があって切りにくい。刃が手の甲に当たって、ロープと手の皮が同時に切れた。霧島が口の周りのガムテープを自由になった手でむしり取った。 「痛いじゃないか」手を由紀子の方に向けて怒鳴った。「見ろ、血が出てる」 「静かにして」慌ててその口を塞いだ。「あいつらはまだいるのよ」  カッターを渡して、足の紐を切るように手で示した。それ以上何も言わず、霧島はおとなしく指示に従った。  次の男のロープにハサミの刃を当てた。カッターよりやりやすい。傷つけることなくロープを切り落とした。 「ありがとうありがとうありがとう」  解放された老人が、泣きながらしがみついてきた。 「しっかりしてよ」  からみついてくる腕を乱暴に振りほどいた。老人の涙は止まらない。 (社長だ)  その男が森中社長であることに気づいたが、社長であろうと総理大臣であろうと、この状況では関係ない。涎《よだれ》を垂らしながらその場にうずくまる老人のネクタイを掴んで、体を引き起こした。老人独特の口臭が漂った。 「さっさと自分の席からハサミでも何でも持ってくるのよ、ほら、立って」  よろよろと社長が立ち上がった。渡されたカッターで、霧島が次々に人質たちを拘束していたロープを切り落としている。由紀子も違う男の腕を取った。  最後に残ったのは岡本圭だった。その口からガムテープをそっと剥がした。 「何でここにいるんだ」かすれた声が聞こえた。「あの時、窓から落ちたはずなのに」 「本気で恋をしてる女はね」ロープにハサミを入れた。「そう簡単には死なないの」  ロープが落ちた。後は簡単だった。圭が自分でハサミを取り、足のロープを切って立ち上がった。辺りを見回すと、男たちが目を潤ませながら由紀子の方を向いていた。  どうしていいのかわからないのだろう。いつもは偉そうなことばっかり言ってるくせに、これだから男なんて。 「何ぼんやりしてるの。逃げるのよ。二十階までは非常階段で行けるわ」  なぜかね、と営業部の藤田役員がしきりに手首をこすりながら言った。 「彼らは出ていったんだ。もう安全だろう」 「このフロアと下のフロアには爆弾が仕掛けられているんです」早口で説明した。「みんなを身代わりにして、爆破の混乱に紛れて逃げるつもりなの。待って」  飛び出そうとした霧島を制した。引きつった顔が振り向いた。 「犯人たちが戻ってくるかもしれないでしょ」由紀子が囁いた。「走らないで。靴を脱ぐのよ」  分厚い絨毯が敷かれているとはいえ、男たちの履いている革靴でフロアを走れば足音がするだろう。彼らに気づかれたら終わりだ。  男たちが素直に命令に従った。あれ、ちょっと気分がいい。由紀子の頬にかすかな笑みが浮かんだ。  靴を手に持った霧島が部屋を出た。我先にと男たちが続いていく。部屋には由紀子と圭だけが残った。 「これで俺は、君に一生頭が上がらないわけだ」  深い嘆息と共に圭が言った。そうよ、と由紀子がうなずいた。 「あたしがご飯を作るから、あなたは食器を洗うの。わかった?」 「逆じゃなくてよかった。約束する。ところで、俺たちも逃げた方がよくないか」  圭が由紀子の手を取って部屋を出た。非常階段へ向かう。 「いったいどうなってるんだ」 「あたしだってわからないわよ。わかってるのは、あいつらが北朝鮮の特殊部隊なんかじゃないってこと。目的はお金なのよ」 「金?」  何の話だ、と圭が怪訝な表情を浮かべた。 「プラチナタワーのどこかにあったお金のこと」 「何を言ってるのかわからない」 「あたしも、はっきりわかってるわけじゃないけど」  台車に積まれていた黒い袋。本当にあの袋が全部現金だったとしたら。少なく見積もっても、数百億円あるのではないか。これでもあたしは一応経理部員だ。それぐらいの見当はつく。 「きっとワールドメガバンクのお金だわ」足を止めてつぶやいた。「あれだけの現金がある会社なんて、他に考えられない。そうでしょ」  知るか、と圭が由紀子の腕を強く引いた。 「そんなことはいい。とにかく逃げるんだ」 「盗んだ金をこっちのタワーに運んでたのよ。あたし、見たの。犯人の一人とは話もしたわ」 「だったら最初から銀行を襲えばいいじゃないか。わざわざ隣のテレビ局を占拠して、いったいどんな得があるっていうんだ」  由紀子の手をそっと握りしめた。かわいそうに、とつぶやきながら破れたシャツワンピースの襟元を左手で直した。 「お前が混乱するのも無理はないよ」 「本当なの。本当にあたし、見たんだから。すごい量の札束が」  非常階段の扉を開けた圭が辺りに目をやった。誰もいないことを確認してから降り始めた。 「その話は後だ。今はここからどうやって逃げるか、その方が先だ」  二十階の非常扉は閉鎖されているんだよな、と圭が確かめるように言った。由紀子は階段の途中で立ち止まった。そうだ、あの男たちはどうやって逃げるつもりなのだろう。 「早く来い」  由紀子の体を引きずるような勢いで、圭が強引に階段を降り始めた。腕を引っ張られながら由紀子は考え続けた。  最終的には車だ。車で逃げるしかない。数百億円の札束は、人間の力では百人いたって運びきれるものではないだろう。それなら車しかない。  犯人たちは駐車場に向かっている。でも、どうやってそこまで降りて行くつもりなのか。十九階より下にはいけないはずなのに。  エレベーターだ。  二十階の�ブレイン�は犯人たちの一人が動かしていた。エレベーターの一台を始動させて、下へ降りるつもりだったのではないか。 『エレベーターが使えなくなったのは想定外だった』  男が言っていた言葉の意味がわかった。あたしが�ブレイン�を壊したから、犯人たちはエレベーターを使えなくなったのだ。  でも、と由紀子は額に指を当てた。男の声には余裕があった。何とでもなる、と言わんばかりに。  そうだ、きっとエレベーターのワイヤーを伝って、下に降りていくつもりなのだ。訓練された軍人なら、それぐらいのことは出来るだろう。 (どうしよう、警察に知らせないと)  二十階と十九階の間にある踊り場に着いた。先に降りていた男たちが防火扉を手で叩きながら、助けてくれ、と喚いていた。  扉の向こうには警察がいるのだろうか。いたとしても、分厚い扉のために声までは届かないはずだ。パニックに陥った男たちには、それさえもわからなくなっているようだった。声を嗄らして叫び続けている。 「おい、何を考えてるんだ」  圭が由紀子の肩を掴んだ。 「びっくりした」まばたきを繰り返しながら振り向いた。「何よ」 「お前がそういう顔をしている時は、たいがいとんでもないことを考えているからな」  そんなことないわよ、とうつむきながら由紀子は答えた。      17 [#地付き]05:32PM  少佐がエレベーターのワイヤーから手を離して、フロアに降り立った。先に着いていた部下の手によって扉は破壊され、開いたままになっている。手袋を外して、そのままポケットにしまった。 「こちらへ」  待っていたルークが先導するように歩き始めた。問題は、と低く尋ねた少佐に、いえ、と短い答が返ってきた。会話はそれだけだった。  地下三階の駐車場には、数台の車しか停まっていない。事件発生とほぼ同時に、ゴールドタワー内は立入禁止の措置が取られていた。まだ朝の早いうちに事件が起きたため、駐車場を利用している関係者はほとんどいなかった。  少佐が顔を上げた。視線の先に、迷彩服の男たちが並んで列を作っている。列は停まっている中継車から、焼却炉の扉まで続いていた。  焼却炉の奥から、最初の黒い袋が出てきた。次々に男たちの手を渡って、中継車の中に放り込まれていった。 「爆破までは」 「六分ほどです、少佐」  ルークが紙袋を差し出した。受け取った少佐が、中からアポロキャップを取り出した。 「急げ。なるべく早く回収作業を終了させるように。ビショップの着替えは終わっているのか」  運転席から右目の下に傷痕のある男が顔を出した。自動車会社の制服を身につけている。それを確認した少佐が、薄い水色のジャンパーをジャケットの上から羽織った。最後に濃い茶色のサングラスを外して、紙袋から出したライトグリーンのフレームの眼鏡に代えた。 「では自分も」  ルークが敬礼して、作業を手伝うために列に加わった。その背中を見つめながら、少佐が眼鏡の角度を整えた。中継車に近づいて、ドアミラーに自分の顔を映す。顎に手をかけて、たくわえていた鬚をゆっくりと剥がした。 「なくなるとさびしいものだ」  つぶやいて、顎鬚を運転席に投げ入れた。頬に満足げな微笑が浮かんでいた。      18 [#地付き]05:33PM  吉田率いるSATは、ゴールドタワー二十四階ウエストエリア入り口近くにある小会議室で、大島警視正からの命令を待っていた。 「そろそろだ」吉田が隣にいた隊員に囁いた。「まもなくテレビ中継が始まる」  隊長、と無線機に目をやっていた谷口が呼びかけた。 「本部より連絡です」  ヘッドセットを右側だけ外した。吉田は全員に現在の態勢のまま、いつでも動き出せるように準備を命じてから、ヘルメットに装着されているインカムをオンにした。 「吉田です」 「たった今、少佐から連絡があった」大島が状況の説明を始めた。「テレビ機材の故障により、中継が予定より十分ほど遅れるということだ。それまで君たちも待機だ。いずれにしても、彼らは必ず放送を再開する。交渉が始まり次第、こちらから突入の指示を出す」 「了解」 「もうひとつある。人質の位置がわかった。彼らは二十四階イーストエリアに間違いなくいる。おそらくは会議室に閉じ込められているはずだ。場所については、今こちらから画像を送った」  谷口がモニターを操作した。PDFファイル形式で送られてきた二十四階フロアの設計図に印がついていた。吉田たちが待機しているウエストエリアの会議室とちょうど反対側、イーストエリア奥の非常階段手前にある小会議室がアップになった。 「了解」 「現在、後続部隊をプラチナタワーからブリッジを通じ、八階及び十六階に送り込んでいる。彼らもまもなく十九階に到着するはずだ」大島が続けた。「君たちは犯人グループの制圧、並びに人質の救出に全力を挙げてくれ。くれぐれも慎重に。以上だ」 「了解」  無線が切れた。吉田が微妙にずれたガスマスクを着け直した。親指を立てて、隊員に合図した。 「状況が変わった。十分ほどここで待機する」  全員が目だけでうなずいた。緊張が一瞬ほぐれそうになったが、吉田はそれを見逃さなかった。 「油断するな」  表情を引き締めたまま命じた。一度切れてしまった緊張の糸を結び直すことは、SATほどに優秀な隊員が揃っている部隊でも非常な困難を伴う。  集中力の欠如は重大な事故を招きかねない。指揮能力にかけて、警視庁内でも吉田の右に出る者はいなかった。 「再度、装備の確認を。起こり得る事態を想定して、万全の準備を整えるように」  真剣な目でうなずいた男たちが、静かに立ち上がった。      19 [#地付き]05:35PM  十九階と二十階の間にある踊り場では、男たちが防火扉を叩きながら叫び続けていた。開く様子はなかった。 「どうしよう」  由紀子のつぶやきを聞きとがめた圭が顔を上げた。 「何がだよ」 「警察に知らせないと。あいつら、金を盗んで逃げる気よ」  由紀子には少佐率いる犯人グループの狙いが明確になっていた。  北朝鮮特殊部隊の名を騙《かた》り、テレビジャパン社屋ゴールドタワーを占拠した彼らは、人質を取った上で警察との交渉を始めた。北朝鮮の窮状を訴え、賠償金を要求していたが、本当の狙いは隣接するプラチナタワーのワールドメガバンクの現金数百億円だ。  まず少佐はプラチナタワーを爆破することで、タワー内の人間を外に退去させた。おそらくプラチナタワーには昨夜から少佐の部下が忍び込んでいたのだろう。ブリッジを渡ってきた濃紺のジャンパーを着込んだ男たちだ。  その上で、少佐は原子力発電所の送電をストップさせるように命じた。送電が止まれば、テレビジャパン内は自動的に停電状態になる。もちろん自家発電機能が備わっているからすぐに電力は回復するが、放送業務が最優先となるため、それ以外のエリアについては、送電がカットされる。例えば八階のショッピングフロア、あるいは十二階のレストランフロア、そして地下三階の焼却炉。  それからは、時間稼ぎだ。あの男も言っていた。 『なにしろ二時間経たないと、焼却炉が温度を下げないからな』  その通りだ。主動力である電源の供給が停止すると、焼却炉の運転は自動的にストップする。一度止まると事故防止のために冷却装置が働き、約二時間で安全温度になるのだ。新社屋についての説明会議で聞いた覚えがあった。  少佐はその後、もう一度プラチナタワーを爆破した。脅しの意味もあったが、それより重要だったのはワールドメガバンクの金庫室の扉を破壊することだったのだろう。ビル内には誰もいなくなっているのだから、決して難しくはない。むしろ楽な作業だったはずだ。  警報装置は停電のため役に立たない。悠々と爆弾をセットして、爆破を終えた。中から金を運び出すのは簡単だっただろう。  そして焼却炉の温度が十分に下がったのを確認してから、彼らは金をゴールドタワーに運び込んだ。誰もいなくなったはずのプラチナタワーからトラックが出ていけば目立つだろうし、途中の検問で停められてしまうだろう。  むしろ二十四階と二十五階を爆破して、その混乱に紛れてゴールドタワーから逃げ出す方が警察の盲点をつける。少佐はそう考えたのではないか。 「でも、ブリッジがある」独り言のように由紀子は言った。「どうして、少佐はブリッジが降りることを知っていたのかしら」 「ブリッジがどうしたって」  圭が尋ねた。黙って、と額を押さえたまま考え続けた。ブリッジって、どういう仕組みになっていたんだっけ。  確か総務から連絡メールが回ってきていた。そうだ、安全確保のために、消防署が信号を送らないと橋は架からないと書いてあった。 (そうか)  最初から計算ずくだったのだ。少佐は�ブレイン�から信号を送れば、消防署と警察がそれに気づくことを知っていた。ブリッジが降りれば、そこから警官隊を送り込んでくることも計算に入れていた。  おそらく、警察の突入と同時にフロアを爆破するつもりなのだろう。迷彩服を着せた人質をあそこに閉じこめていたのは、警察に犯人グループと錯覚させるためだ。 「こんなことしてる場合じゃないわ」  防火扉を叩いている男たちを横目で見ながら、由紀子は走り出した。早く警察に知らせないと。 「おい、待てよ。どこに行くんだ」  追いかけてきた圭が横に並んだ。あの防火扉が叩いたぐらいで開くわけないじゃないの、と叫んだ。 「給湯室にリフトがあるの。あれを使えば、降りられるかもしれない」 「待てって。いったい何がしたいんだ」  ひとつ階段を上がった。二十階に出る。そのまま通路を駆け抜けて、エレベーターホールに出た。向かっていたのは給湯室だ。  ドアを開けて飛び込んだ。銀色に光るジュラルミンの扉が見えた。横の標示板には�20�というグリーンのランプが光っている。迷わず扉を開いた。 「馬鹿、危ないぞ」  大丈夫よ、と言って中をのぞきこんだ。リフトは二十階に止まったままだった。自分がそこから降りてきたことを、今さらのように思い出した。  これでは下に行くことが出来ない。行手をさえぎっているのは、リフトそのものなのだ。  警察も別のブリッジを使って、下の階までは来ているだろう。彼らなら連絡手段を持っている。無線でも電話でも、とにかく犯人たちが逃げようとしていることを伝えなければ。 「どうするつもりだ。だいたい、今は停電なんだろ。リフトは動くのか」  それが一番重要な問題だった。リフトが動くかどうかを調べなければならない。今リフトがある位置から、ワンフロアだけ移動させることが出来れば、残っていた人質全員が十九階まで降りることも可能になる。そうすれば少なくとも十階までは非常階段で降りられるだろう。 「だから、それを確かめないと」  横の標示板は、階数を示す�20�という文字以外、すべての灯りが消えていた。ボタンを押したが、何も動かない。リフトの内部にも操作板があるのを思い出した。試してみる価値はあるだろう。  由紀子はリフトの中に足を踏み入れた。横で見つめていた圭が黙ったまま、両腕を組んだ。      20 [#地付き]05:40PM  グランドスタジオから実況を続けていたキャスターがいきなり画面から消えて、代わりに少佐の姿がモニターに映し出された。六階の捜査本部にどよめきが走った。 「どういうことだ」  小比類巻が怒鳴った。機材の故障が直ったのだ、と言った大島が通信班に合図を送った。いつでも、とヘッドホンを耳に当てたまま、担当者がうなずいた。 「吉田、聞こえるか」  マイクに向かって、低い声で呼びかけた。はい、という明瞭な声が返ってきた。 「奴らがテレビ中継を再開するようだ。全隊員は二十四階イーストエリアに突入の準備を。回線はこのまま、すぐ指示を送る」 「了解」  マイクを握りしめたまま、大島は画面を凝視した。静かな口調で少佐が話し始めた。 「日本政府関係者に告ぐ。我々は北朝鮮特殊部隊に所属する軍人である」  しばらくそのままの姿勢で、カメラを見つめた。中指の関節で、小さくテーブルを叩く。規則的な音が響いた。 「ここで我々の立場について、新たに声明を行う。これはあくまでも国家としてではなく、わたし個人の声明である」  今だ、と大島が命じた。了解、という返事が聞こえた。      21 [#地付き]05:41PM  小さくうなずいた吉田を見て、谷口が小会議室のドアを開いた。素早い足取りでフロアを横切り、エレベーターホールに出る。そのまま脇の細い通路を抜けて逆側のホールに向かった。その後に続く形で、全員が散開した。  通路の陰から第一経理部のドアに近づいた谷口が、後続の二人に合図を送った。背後でSAT隊員たちが油断なく身構えている。三人がエレベーターホールに出た。  谷口が素早い手つきでドアに爆薬を仕掛けた。中から声が聞こえてくる。何を言っているのかまではわからなかったが、少佐の声であることは間違いなかった。  導火線を延ばして、通路まで戻った。二人の男がガス銃を構えたまま迎え入れた。目だけで会話を交わす。問題はない。手を振った。 「すべてクリア」  ガスマスクの下で谷口の目が真っ赤になっていた。焦るな、と吉田が制した。 「本部、こちら吉田。準備完了」 「今だ、行け」  インカムから大島の命令が響いた。  吉田が谷口の手元を見つめた。起爆スイッチを握りしめている指がかすかに震えている。ガス銃を構えている男たちに目をやってから、小さくうなずいた。  谷口がスイッチを押した。爆裂音と共にドアが倒れる。ほぼ同時に通路から飛び出した二人の男がガス銃の引き金を弾いた。催涙弾が経理部フロアに何発も撃ち込まれた。  すぐに白煙がたちこめた。狭い入口に向かって吉田たちが雪崩を打って突進した。約二秒の間の出来事だった。      22 [#地付き]05:42PM 「突入、突入しました」  抑えた叫び声が捜査本部に響いた。二十四階SATからの報告だった。 「何を言ってる」小比類巻が吠えた。「早く突入しないか」  画面では、沈痛な表情の少佐が北朝鮮の現状について話していた。平壌はまだしも、各地農村部がいかに飢餓に苦しんでいるか。それはすべて米日をはじめとする西側資本主義国家の陰謀である、という激越な主張が続いていた。 「吉田隊長は何をしている」叫んだ小比類巻の額に汗が伝った。「いったいどこに突入したんだ」  待て、と大島が立ち上がった。シャツの前が完全にはだけていた。 「小比類巻、これはビデオだ」 「ビデオ?」  影の位置がおかしい、とつぶやいた。その手がペットボトルを探った。 「何のことです」 「太陽だ。もうとっくに陽は落ちている。だが、見ろ。夕陽が」  少佐の背後に赤い夕陽が映っていた。話し続けている少佐の頬に、かすかな微笑みが浮かんだ。  大島がマイクに飛びついた。 「吉田、逃げろ! 罠だ!」  至急二十四階フロアから退避、と叫んだ。 「以上だ」  話を終えた少佐が、軽く敬礼した。      23 [#地付き]05:44PM  催涙ガスがフロア中に充満している。まるで霧のようだった。少佐の朗々とした声だけがフロアに響き渡っていた。  おぼろげな視界の中、吉田は犯人の姿を求めて視線を走らせた。すぐに異常に気づいた。二十四階イーストエリアには誰もいなかった。 「なぜだ」  ガスマスク越しに、くぐもった声を谷口が上げた。誰もが同じように左右を見回している。少佐がテレビ中継を再開してから一分と経っていない。フロアからの脱出は絶対に不可能なはずだった。 「会議室だ」低く吉田が叫んだ。「注意しろ、奴らはそこで人質を盾に閉じこもっている」  隊員の一人がフロアの一番奥まで走った。機敏に反応した他の隊員がその援護に回った。扉の両側で銃を構える。合図を交わして、隊員が会議室の扉を勢いよく開けた。 「誰もいません」  聞き取りにくい声だった。吉田が確認した。だが答は同じだった。 「どういうことでしょう」  わからん、と首を振った吉田のもとに、フロアの最奥部まで進んでいた谷口が戻ってきた。 「非常階段口の扉は開きません。鍵が壊されています。向こうからは出られません」 「いったいどういうことだ。少佐は二十四階から電話をしていたのではなかったのか」  吉田が周囲を見回した。精鋭部隊であるSATの全隊員が、なすすべもなく立ち尽くしていた。 「通話記録によれば、最後にかかってきた電話もこのフロアからのものでした。間違いありません」  谷口が叫んだ。 「では奴はどこにいる。ここからどうやって逃げ出したのか」  周囲に注意を払いながら吉田が言った時、隊員の一人が手に何重にもなった白いコードを持って走ってきた。 「隊長、これがそこの部長席から非常扉を通って外部に延びています」  コードを隊員の手から奪い取った吉田がその先を辿った。コードは部長席の電話機に接続されている。そしてその白いラインはどこまでも延びていき、非常扉のわずかな隙間を抜けて外へ出ていた。 「奴らは延長コードを使って、電話機を持ったまま移動したのだ」つぶやきが吉田の口から漏れた。「それなら、どこから電話をかけたとしても、このフロアの内線番号が表示される。だが、いったい何のために」  隊長、とまた別の声がした。隊員の一人がテレビモニターの前にいた。隊員たちがモニターの前に集まった。  画面に少佐の姿が映し出されていた。暗い表情のまま、日本やアメリカへの不満をぶちまけている。肩越しにきれいな夕陽が映っていた。 「……この画像はビデオだ。もう陽は沈んでいる」  吉田の声に、隊員たちが窓の外に目をやった。まだかすかに明るいが、ほとんど陽は暮れていた。  画面一杯に少佐の顔がアップになっている。全員が黙ったままその表情を見つめた。 「これは、罠だ」  吉田の口からつぶやきが漏れた。 「前線本部から至急の連絡! 退避命令です」  無線機のマイクを掴んだ谷口が悲鳴を上げた。 「総員撤退! 至急このフロアを出ろ!」  吉田が叫ぶより早く、隊員たちが走り出した。 「以上だ」  画面の少佐が小さく敬礼した。画面が途切れた。次の瞬間、目も眩《くら》むようなまばゆい光がフロア中に炸裂した。      24 [#地付き]05:45PM 「やめた方がいいんじゃないかな」  リフトの中に上半身を差し入れていた由紀子を、後ろから圭が引っ張って止めた。シャツワンピースの穴が嫌な音をたてて更に広がった。 「大丈夫だってば」  このリフトが動くかどうか調べるだけだ。危険はない。操作スイッチはどこだっけ。 「何があるかわからないじゃないか。頼むよ。みんなのところに戻って、助けを待とう。その方がいいって」  泣きそうな声で圭が言った。答えずに由紀子はリフトの中に足から入っていった。パネルに目をやったが、電気は消えていた。 (やっぱり動かせないのかしら)  非常灯の表示ランプだけは点いている。ボタンを押してみた。何も変わらない。 「駄目みたい」屈んだまま由紀子は背中の圭に向かって叫んだ。「やっぱり無理かも」  次の瞬間、足元が大きく揺れた。爆発音が耳に強く響く。爆破だ。少佐たちが、本当に二十四階と二十五階を爆破したのだ。  同時に体がバランスを失って前にのめった。頭からリフトの中に突っ込む形になった。 「由紀子!」  背後で圭の声がした。顔がリフトの壁に勢いよくぶつかった。 (痛)  頭上で音がした。額を押さえたまま体の向きを変える。扉が閉まっていた。操作パネルを手で探った。OPEN と表示されているボタンがあった。  何度も押したが、ドアは開かなかった。爆破の衝撃のためだろうか。落ち着いて。リフトは手動でも開くことが出来るのだから。扉に手を伸ばそうとした時、いきなり鈍い音が聞こえてきた。 (どうなってるの)  何が起きたのだろうか。リフト内の非常灯が点滅を繰り返し始めている。暴風雨の中を、小さなヨットで漕ぎ出したようだ。揺れは収まらない。 (揺れてる?)  違う。リフトが降下しているのだ。 (ちょっと待ってよ)  狭いリフトの中で手をずらし、操作パネルのボタンをやみくもに押した。だがリフトは動きを停めなかった。ゆっくりと、だが確実に降下していく。ブレーキシステムが壊れてしまったのだろうか。 (どこまで行くの)  あたりかまわずリフトの壁を叩いたが、意味はなかった。速度がそれほど速くないのが唯一の救いだったが、いったいどうなってしまうのか。神様、助けて。  リフトは動き続けている。どれぐらい時間が経ったのか、由紀子にはわからなかった。一分なのか、五分なのか、十分なのか。  きしむような音が足元から響いた。不安で体が強ばる。このまま下まで落ちれば、リフトごと地下フロアに叩きつけられてしまうのではないか。  だがそうはならなかった。次第に速度が落ちていくのがわかった。最後に小さな金属音がして、リフトが停まった。  どこまで降りてしまったのだろう。音をたてないようにジュラルミンの扉を細く開いた。目の前に打ちっぱなしのコンクリートの壁があった。  青く�B3�とペイントされている。地下三階だ。ブレーキが利かなくなったリフトは、一番下の階まできて停まったのだ。  話し声が聞こえた。誰かいるのだ。由紀子は扉の隙間から、声が聞こえてくる方を見た。  十数人の男たちが、焼却炉の入り口から駐車してある大きな車のところまで列を作っていた。バケツリレーの要領で、焼却炉から大きな黒い袋を車に運びいれていた。  車には見覚えがあった。テレビジャパンの中継車だ。車の横に巨大なロゴマークが描かれていた。  列から外れたところで、一人の男が煙草をくわえていた。少佐だ。微笑を浮かべたまま、男たちの作業を見ている。印象がどこか違った。  着ている服が違うためもあるが、それだけではない。なぜだろう、と思ったがすぐにわかった。顎鬚がなくなっていたのだ。 「少佐」  焼却炉から出てきた男が額の汗を拭いながら報告をした。 「作業、終了。金はすべて回収しました」  結構、と答えた少佐の目の前で、最後の袋が中継車の中に吸い込まれていった。 「作戦行動を終了する。総員撤収」  少佐の命令に、男たちが素早く後部扉から車に乗り込んだ。少佐が運転席の男に声をかけて、助手席の扉を開いた。  片足をステップにかけたままの姿勢であたりを見回した。由紀子は慌てて身を縮ませた。少佐が満足げに笑っているのがわかった。 (そういうことだったの)  中継車はどこにでもある代物ではない。本物ではないのだろう。おそらくよく似た車種に改造を加えたのだろうが、よくできた擬装だった。車体に描かれたロゴマークは、どんな通行証よりも有効だ。どこを走っていたとしても、検問に引っ掛かるはずがない。  どうやって逃げるつもりかわからなかったが、これで謎が解けた。助手席に座った少佐が、ドアを閉めた。  素早くリフトの扉を開けて、由紀子は中継車の真後ろに走り込んだ。普通の車とは違って、横や後ろに窓がないので、サイドミラーにだけ気をつけていればいい。エンジン音がして、マフラーから黒い煙が吐き出された。 (どうしよう)  車が動き出した。ゆっくりとしたスピードで方向転換する。後を追って走りながら由紀子は考え続けた。  車輛出入り口が見えてきた。遮断機をくぐれば、すぐに出口への通路だ。外へ出てしまえば、車の後を追うことなど出来なくなるだろう。誰か、誰か気づいて。犯人が逃げてしまう。  だが警察官はおろか、駐車場には誰もいなかった。係員さえもいない。  出口の脇には非常用の階段があった。だがそこから上に昇って、警察に彼らが駐車場から逃げようとしていると伝えるまで、そしてそれを納得してもらえるまで、どれだけの時間がかかるだろうか。少佐がそれを待っていてくれるだろうか。そんなわけはない、と首を振った。  中継車が方向を変えて、出口に向かった。二百メートルもない距離だ。遮断機の前で停まる。ハザードが点灯した。意を決して、由紀子はストッキングを脱いだ。 (試してみるしかないじゃない)  運転していた男が窓を開けて、駐車券を機械に差し込んだ。電光掲示板に金額が表示されている。男の太い腕が伸びて、数枚の千円札を機械に入れた。  作動音と共に、�精算�という文字が表示され、一枚のカードが出てきた。男がそのカードを抜くと、遮断機が上がりはじめた。  運転席から見えないように、由紀子はストッキングを手にしたまま中継車の後ろにしゃがみこんだ。運転手がエンジンを軽くふかした。排気口から漏れた煙が直接顔に当たって、咳きこみそうになったが、右手の甲を当てて堪えた。マフラーに手を伸ばす。  遮断機が上がりきったところで、中継車が走りだした。地面に伏せたまま顔だけを上げた。これで終わりだろうか。他に出来ることはないのだろうか。  もちろんある。ゆっくりと体を起こして、由紀子は走り始めた。      25 [#地付き]05:49PM  運転席のビショップがクラクションを鳴らした。狭い昇り通路を、徐行速度のまま中継車は進んでいった。  地下三階から地下二階、そして地下一階。大きなカーブを曲がると、地上出口へ続く最後の直線が待っていた。  前方が外からの照明で明るくなり始めていた。出口が近づいているのだ。速度規制に従って、更にスピードを落とした。すぐに出口が見えた。  地下三階にもあった遮断機が降りていた。係員の姿はない。車を停めて、窓を開けた。  精算済みのカードを機械の口に入れると、遮断機が上がった。ビショップはアクセルを踏んだ。中継車が建物の外に出た。  ガラスの破片が散乱する路上に、マスコミや物見高い見物人が何千人と集まっていた。警備の警官が三重にロープを張って人の波を食い止めているが、既に群衆は自分の意思とは関係のないところで動いていた。  見物人を押し返そうとする警官が、雪崩のように崩れた人の塊に呑まれていく。その隙をついて報道の腕章をつけた男が中へ入ろうとした。鋭い笛の音がして、警官の一人が男の胴に飛びついた。  騒ぎ立てる群衆、怒号する警官、鳴り止まないクラクション、耳に突き刺さる笛の音、様々な音で鳴る携帯電話の着信音、その電話に向かって状況を伝える男たちの声、現場の様子を実況するアナウンサー。凄まじい騒音に少佐が顔をしかめた。  ビルから出てきた中継車を見とがめて、警官が二人走り寄って来た。フロントガラスの前に警棒を突きつけて、停車するように命じた。素直に指示に従って、ビショップがエンジンを切った。 「何なんだ、あんたたちは」  殺気立った声で警官が怒鳴った。 「ジャパンニューススペシャルだ」助手席から身を乗り出した少佐が怒鳴り返した。「通してくれ、すぐにイマジカに行かないと、放送に間に合わない」 「聞いてないぞ」 「なんでいちいち警察に報告しなきゃいけないんだ。あんたら、報道の自由を何だと思ってる」  喧嘩腰で叫んだ少佐に、年かさの警官が、まあまあ、と手を振った。 「社員証を見せてください」  少佐が首から下げていた社員証をむしり取って、警官に放り投げた。 「本当に時間がないんだ。今の爆破、あんたらも見ただろう。うちのテレビクルーが画《え》を押さえた。独占映像なんだよ」  今にも噛みつきそうな勢いの少佐に恐れをなしたのか、若い方の警官が手を運転席に突き出した。 「あなた、免許証」  ビショップが気弱な笑みを浮かべながら、柔順に免許証を差し出した。社員証も免許証も、事前に用意していた精巧な偽造品だった。 「ちょっと待ってください。今、本部に確認しますから」  年かさの警官が携帯用の無線機に手をやった。 「おい、あんた。もし放送に間に合わなかったら、責任取ってくれるんだろうな。所属と名前を教えろ」  顔を窓の外に出した少佐が叫んだ。警官が苦笑を浮かべた。 「わかりましたよ。どっちへ行くんですか」 「右」  不機嫌に言葉を投げつけて、少佐が浮かしていた腰を座席に戻した。若い警官が誘導のためにロープを開けた。  ビショップがウインカーを出した。二人の警官に見守られながら、中継車がレインボーブリッジへ続く道路に向かった。制限速度を遵守しながら、ビショップが奇声を上げた。帽子を取った髪の毛が、汗でぐっしょりと濡れていた。 「君も覚えておきたまえ。警官を相手にするときは、高圧的に出ることだ」少佐が脱いだアポロキャップを指で回した。「出れば出ただけ、奴らは下がる」  ハンドルを手で押さえながら、ビショップがうなずいた。少佐が眼鏡を胸ポケットに収めた。「後は心理学の応用だ。犯人が正面から出てくるはずがない、という先入観を利用したまでだ」  ビショップが急ブレーキを踏んだ。目の前をテレビジャパンに向かって走るオートバイが通り過ぎていった。 「慎重に」少佐がビショップの肩を軽く叩いた。「こんなところで事故でも起こしたら、なにもかもが水の泡だ」  額の汗を拭ったビショップがギアを入れ直した。すぐに大通りに出た。  必要以上に左右に気を配ってから、右にハンドルを切った。彼らが目指していたのはレインボーブリッジだった。しばらく走ると、レインボーブリッジへ続く道に入った。そのままレインボーブリッジを走った。  道は空いていたが、ビショップはスピードを上げなかった。少佐が長い足を組み直した。急ぐ必要はないが、と首を傾げた。 「ここまで来れば問題はない。普通に走りたまえ」 「そのつもりなのですが」ビショップがまたギアを入れ替えた。「エンジンの調子が変です」  少佐が眉をひそめた。事前に車輛の整備は徹底的に確認していた。 「あり得ない」  脅えるように視線を走らせたビショップが、アクセルを何度も踏みつけた。だが、いくら踏んでも速度は上がらない。アクセルは乾いた音を立てるだけだった。空踏みの状態になっている。  背後から迫ってきたタクシーが、クラクションをひとつ鳴らして、乱暴に中継車を追い抜いていった。これは、とビショップがつぶやいた。 「どういうことでしょう」 「わからない」少佐が肩をすくめた。「とりあえずハザードだ」  ビショップがハザードランプを点けた。中継車は惰性だけで進んでいる状態だった。 「左に寄せたまえ。エンジンを確認するように」  ハザードを派手に点滅させながら、中継車が路肩に寄ってそのまま動きを止めた。降りたまえ、と命じた少佐がバックミラーに目をやった。 「ボンネットを開いて──」  言いかけた時、ミラーに何かが映った。  乱れた長い髪、汚れた頬、剥き出しになった傷だらけの腕、大きく裂けたシャツワンピース。  女がそこにいた。視線はまっすぐ少佐に向かっていた。 「いや、いい。私が降りよう」  少佐が着ていたジャンパーを脱いだ。アポロキャップと一緒に、助手席の後ろに投げ込んだ。 「どうしました」 「礼儀だ。女性と会うのに、こんな格好では失礼というものだろう」  少佐がかすかな笑みを浮かべた。      26 [#地付き]05:58PM  地下三階の駐車場から地上に出た由紀子は、そこにいた警官に、犯人グループが中継車に乗って逃げたことを伝えた。半信半疑のまま前線本部に連絡を取り始めた警官をそのままにして走り出した。  誰かが追わなければ見失ってしまう。そして自分以外、それに気付いている者はいない。その思いだけが、疲れきった由紀子の足に力を与えていた。  既に車は遥か前方を走っていた。だが次第に速度が落ちていくのがわかった。車がハザードをつけ、レインボーブリッジの途中で停まった。  車を降りた少佐が、裸足のまま近づいた由紀子に軽く手を振った。笑顔を崩さずに、くわえた煙草に火をつけた。 「君だったのか」  中継車のドアに寄り掛かりながら、少佐が煙を吐き出した。 「そうよ」  由紀子は足を止めた。風が強い。煙草の煙が流れていった。 「驚いたな。なぜ君がここにいるのか、私には理解出来ない」  返事はしなかった。説明など、出来るはずもない。  少佐が火のついたままの煙草を海に放り込んだ。ひとつ首を振って、中継車の後ろに回った。車のマフラーから、真っ黒になったストッキングを引きずり出した。 「痩身用ストッキングか」  ぼろぼろになった残骸を由紀子に向かって放り投げた。ストッキングはそのまま落ちて、路上にひらひらと舞った。 「それにしても、恐ろしいほど古い手だ。よく知ってたな」  ストッキングが風に舞って、ダンスを続けている。 「友達が教えてくれたの。車を停めるには、こんなやり方もあるって」  言いかけた由紀子の背後から、何十台ものパトカーが姿を現した。レインボーブリッジを埋めつくすような勢いで、車の数は増え続けていた。サイレンの音が凄まじい勢いで鳴り響いた。 「包囲!」  拡声器から大島警視正の鋭い声が響いた。高架道路に防弾盾を構えた数百人の警官が現れて、中継車の周りを取り囲んだ。  無粋《ぶすい》な連中だ、と小さくつぶやいた少佐が由紀子を見つめた。 「さて、君は我々の二年間の周到な準備を台無しにしてくれた。実際、これは君が想像するよりもっと大変なことだったのだ」  由紀子が肩をすくめた。 「お察しするわ」 「使った金も一億や二億ではない」  取り囲んでいた警官たちが、その輪をゆっくりと縮めはじめていた。 「犯人に告ぐ。少佐、君たちは完全に包囲されている。武器を捨てて投降したまえ」正面に立ちはだかった大島警視正が叫んだ。「繰り返す、君たちは完全に包囲──」  銃声が響いた。いつの間にか、少佐の右手に拳銃が握られていた。まるで手品だった。銃口から白い煙がひと筋たちのぼっていた。 「退がりたまえ。近づけば、この女を撃つ」  荒々しい口調で少佐が叫んだ。包囲していた輪が前進を止めた。向き直った少佐が、由紀子の顔にまっすぐ銃口を向けた。 「君を許すわけにはいかない」少佐が拳銃のグリップを弄んだ。「我々の計画は完璧だった。唯一の誤算は君だ。罪を償ってもらう必要があるのは理解出来るだろう」 「言いたいことはね」  ふてくされた表情で由紀子は横を向いた。少佐が苦笑を浮かべた。 「我々にとって、君の取った行為は罪であり、それは死に値する。安心したまえ。苦しませるつもりはない」  いきなり由紀子が一歩前に出た。意表をつかれたように、少佐がわずかに退がった。 「あなたは、あたしを撃たないわ」口が勝手に言葉を吐き出した。「そう、きっと撃たない」  なめられたものだ、と言う少佐の声が風にちぎれていった。 「だってあなたは、お金のためにこの事件を計画したんでしょ。今そう言ったじゃない」  また一歩、由紀子が少佐に向かって踏み出した。 「どういう意味だ」 「あなたの中にあるのは損得だわ。プラスマイナスで残高のほうが大きいから、こんな事件を起こした。そうでしょ? そんな計算が出来る人なら、ここであたしを殺すことがどれだけ引き合わないことかってことぐらい、すぐわかるはずよね」 「ここで君を撃ち殺せば、少なくとも私の気は晴れる」 「そんな感情だけであたしを撃つような人が、こんなことするわけないじゃない。そのへんの銀行を襲えば済む話だもの」  少佐が銃を左手に持ち替えた。 「よく喋る女だ」 「あなたにはわかってるのよ、ここであたしを殺しても意味がないって。少なくとも、一円の儲けにもならないってことが。だからあなたはあたしを撃たない」  唇の端で由紀子が笑いかけた。 「どうかな。買いかぶっているのかもしれないぞ」  再び右手に銃を持ち直して、引き金に指をかけた。待ってよ、と由紀子が叫んだ。 「聞きなさいよ。あたしはねえ、プロポーズされたばっかりなのよ。今日は彼の両親に挨拶しに行く日だったの。だから一番お気に入りの服を着て、メイクだって」  何を言い出すのか、というように少佐が首をひねった。お構いなしに続けた。 「それがこうよ。ワンピースはぼろぼろで袖はなくなるし、時計だって傷がついたのよ。ねえ、エルメスよ。意味わかる?」右腕を伸ばした。「おまけに靴も履いてない。嫁入り前なのに傷だらけだわ。これだけ傷ついているのに、まだ足りないわけ?」  やけになったように、煤《すす》けた顔で微笑んだ。関係ない、と少佐がつぶやいた。ため息をついた由紀子が、まだあるわ、と両手を高く上げた。 「あたしは二十九歳で、身長が百六十センチ、体重は四十八キロ、腕立て伏せは一回も出来ないのよ。経理部勤めで、運動なんか大嫌い。両手を縛っていたとしても、あたしはあなたに勝てないわ」  大声で少佐が笑った。 「君は本当に面白い。死を目前にして自己紹介か」 「しかもあなたは銃を持っている。ねえ、この状況であたしのことを撃てるの? そんなプライドのない人間なわけ?」 「プライド?」  どういう意味だ、と訝《いぶか》しむように少佐がつぶやいた。 「これであたしを撃ち殺したら、最高にカッコ悪いってこと」  少佐の目が遠くを見つめるように細くなった。銃を構える腕は下ろさない。引き金にかかった指に力が加わる。唇からつぶやきが漏れた。 「だが、君は死ぬべきだ」  諦めたように、肩をすくめた由紀子が瞳を閉じた。 「最低ね」  銃声。 「今の一発で君は死んでいた」  少佐の声がした。由紀子はゆっくりと目を開いた。楽しそうに見つめている少佐の笑顔がそこにあった。 「殺すつもりだったが」少佐がホルスターに拳銃を収めた。「確かに私にも誇りはある。この状況で君を殺すのは私のプライドが許さない。諸君」  中継車の後部扉が開いた。迷彩服の男たちが路上に降り立った。 「作戦の終了を宣言する。全員の協力に感謝したい。解散!」  いきなり男たちがサブマシンガンで乱射を始めた。取り囲んでいた警官の輪が乱れた。  その隙を突くように、キングが橋の上からロープを宙に投げた。そのまま台場の海にロープを伝って滑るように降りていった。すぐにクイーンとルークが続いた。  少佐が受け取った銃を乱射した。弾倉の弾が尽き、引き金が空撃ちした。様子を窺っていた警官隊が、津波のような勢いで押し寄せてきた。 「ひとつだけ聞かせてくれ」振り向いた少佐が尋ねた。「なぜ逃げなかった。君には逃げるチャンスがあったはずだ」  答えようがなかった。なぜあたしは逃げなかったのだろう。きっと、と由紀子の唇が小さく動いた。 「あたしは計算がへたなのよ」 「経理部のくせにか」少佐が笑った。「では、失礼する」  言い捨てた少佐がロープに飛び移り、そのまま一気に海まで滑り降りた。  レインボーブリッジの下には、最悪の場合のための逃走手段として用意されていた小型のモーターボートが停められていた。エンジンが轟々《ごうごう》と鳴り響き、そのままモーターボートが発進する。 「追尾!」  パトカーが走りだした。頭上からヘリコプターのプロペラ音が聞こえてきた。  救急車から降りてきた救急隊員が、由紀子の側に走り寄って毛布をかけた。拡声器を持った男が怒鳴りながら指示を出している。辺りはさながら戦場と化していた。  大丈夫ですかと聞かれて、よくわからないままにうなずいた。また救急車が何台も入ってきた。  毛布を巻かれたまま担架に乗せられた。これでは瀕死の重病人のようだ。平気です、と言ったが答はなかった。サイレンが鳴って、救急車が動き出した。 「待ってくれ」  誰かが救急車の後部扉を強く叩いた。急ブレーキがかかって、由紀子の体が縛りつけられている担架から落ちそうになった。救急隊員が扉を開くと、そこには息を切らしたスーツ姿の男が立っていた。 「僕も」圭が言葉を詰まらせながら言った。「一緒にいきます」  何事かを察したのか、救急隊員が素直に圭を乗せた。扉が閉まり、再び救急車が走りだした。 「みんな無事に降りてこられたのね」  圭はじっと由紀子を見つめたまま、何も答えなかった。照れ臭くなって目を伏せた。ゆっくりと腕が伸びた。 「大丈夫か」  由紀子の額に手を置いた圭が言った。毛布の下から腕を伸ばして、その手を握った。 「うん」  圭の目に涙が溢れた。泣いているのを見たのは初めてだ、と由紀子は思った。 「泣かないでよ」  泣きたいのはあたしなんだから。こんなボロ雑巾みたいな格好になってしまって。空いていた左手で圭の涙を拭った。 「今度こんな無茶したら」手を外しながら圭が低い声で言った。「絶対許さないぞ。わかったか」 「こんなこと、二度とないわよ」  いきなり圭が由紀子を抱きしめた。 「わかったかって聞いてるんだ」  圭の腕に力がこもった。わかってる、と由紀子は顔を圭の胸に埋めた。 「あのね」  そうだ。一番大事なことを忘れていた。伝えなければならないことがある。体を離した。  胸元を手で探った。指先に触れたリングを確かめてから、顔を上げた。 「あのプロポーズ、本気なの?」  とまどったように圭が見つめている。曖昧な角度で顎が傾いた。 「返事が聞きたい?」  小さくうなずいた。由紀子は唇を圭の耳元に近づけた。 「あのね」  サイレンの音が高くなった。 [#改ページ] [#小見出し]  エピローグ[#「エピローグ」はゴシック体] (二月十四日〜七月十九日) ──前代未聞、テレビジャック[#「前代未聞、テレビジャック」はゴシック体]──  十四日朝、東京都港区のテレビ局、テレビジャパンの生放送中のスタジオが襲われるという事件が起こった。襲撃した犯人グループは、そのままテレビ局社屋の二十四階にテレビジャパンの社員を人質に取って立て籠もっており、社員の安否が気遣われている。犯人のリーダー格である「少佐」と名乗る人物は、テレビによる犯行声明を行っており、今後すべての警察との交渉を、テレビを通じて放送する、と宣言した。具体的な要求が事件発生後二時間経過してもないことから、警察内部ではある種の愉快犯なのではないか、という見方も出てきている。 [#3字下げ](東洋新聞・二月十四日夕刊) ──テレビジャック、解決へ[#「テレビジャック、解決へ」はゴシック体]──  テレビジャパン社屋占拠事件の犯人グループは、テレビジャパンビルを爆破した上で、その混乱に乗じて逃走を図ったが、犯人グループ十五名のうち十四名までが港区内及び品川区内で警察の検問にかかり、それぞれ逮捕された。ビル爆破の際に警察関係者に負傷者が出ているが、現在のところ死者はいない。犯人たちは全員完全黙秘を貫いているが、北朝鮮特殊部隊とは無関係であることがその後の調べによって判明している。また、主犯格の「少佐」と呼ばれる男がまだ見つかっていないため、警察では更に検問の範囲を広げて警戒に当たっている。 [#3字下げ](三興新聞・二月十五日号外) ──驚異の視聴率、テレビジャパン四冠王奪回[#「驚異の視聴率、テレビジャパン四冠王奪回」はゴシック体]──  ビデオリサーチ社の発表によれば、二月第二週の週間視聴率は、テレビジャパンが圧倒的な強さを見せて、視聴率四冠王となった。二月十四日にテレビジャパン新社屋で起きた占拠事件の報道番組によるもので、犯行発覚から犯人逃亡までの約十時間の平均視聴率は八〇・六パーセント、瞬間最高視聴率は八九・七パーセントという数字が算出された。これは、ビデオリサーチ社が現在の形で視聴率調査を始めてからは過去最高の数字。テレビジャパンでは、二月十四日の夜、更に翌十五日の番組をすべて変更して、この事件の追跡報道番組を放送、こちらも平均四四パーセントの視聴率を獲得した。テレビジャパンの編成局長、重富和喜氏は「社員及び警察関係者に負傷者が出ているので、コメントは出せない」としている。 [#3字下げ](放送文化通信・三月号) ──ご結婚おめでとうございます[#「ご結婚おめでとうございます」はゴシック体]── 社内結婚のお知らせ: 編成部岡本圭さん(37)と経理部高井由紀子さん(29)が、六月二十二日、目黒雅叙園で結婚式を挙げました。今年の社内カップルとしては三組目です。プロポーズの言葉は、と尋ねたところ「それは秘密です」(岡本さん)「もったいないから教えません」(由紀子さん)ということでした。これからも末長く、お幸せに♪ [#3字下げ](テレビジャパン社内報・夏の号) 単行本 二〇〇五年一月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成二十年二月十日刊